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2008/05/03

「瘴気」の沙汰?

 十年来、ちびちびと読み続けてきたヘーゲルの『精神現象学』( 長谷川 宏の手になる訳で。学生の時は樫山欽四郎訳で読んだ。内容は全く理解できなかったものの、何か神秘主義の匂いのようなものを嗅ぎ取っていたっけ。いずれにしてもヘーゲルにしか書けない(創造・妄想?)できない作品だと当時、感じたっけ)もようやく読了の日が近付いている最中に「瘴気(しょうき)」なんて言葉に行き当たってしまった。

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→ 野原じゃなくて、我が家の畑。

 一方、「草いきれ」という言葉がある。辞書に依ると、「夏の強い日ざしをうけて、草むらから立ちのぼる、むっとする熱気」だとか。

瘴気」とか「草いきれ」なんて言葉を持ち出したくなったのは、「帰郷して待っていたのは草むしり」で書いているように、このところ草むしりの日々が続いているからであろうと思う。
 生命力の横溢、生き物の弱さと逞しさと。

瘴気(しょうき)」とは、「瘴気 - Wikipedia」によると:

古代から19世紀まで、ある種の病気(現在は感染症に分類されるもの)を引き起こすと考えられた「悪い空気」。気体または霧のようなエアロゾル状物質と考えられた。瘴気で起こると考えられた代表的な病気はマラリアで、この名は古いイタリア語で「悪い空気」という意味の mal aria から来ている。

ミアスマ、ミアズマ (μίασμα, miasma) ともいい、これはギリシア語で「不純物」「汚染」「穢れ」を意味する。漢字の「瘴」は、マラリアなど熱帯性の熱病とそれを生む風土を意味する。


「瘴気が原因と考えられた主な病気」には、「インフルエンザ、コレラ、赤痢、天然痘、敗血症、ペスト、マラリア、癩病」などがあるという。

 これらの病気は現代でこそ正体も分かっているし治療法も確立されている。
 が、メカニズムの見えなかった昔は信心か祈りか諦めか恐怖か、いずれにしても地上世界の得体の知れなさ、一寸先は闇の感を肌でひしひしと感じていたことだろう。

瘴気」という言葉自体は、必ずしも珍しい言葉ではない。
 さりとて、そう滅多に出会うことも、まして(虚構作品においてならともかく)使うことは稀な言葉であろう。
 ヘーゲルの書で遭遇し、且つ、草むしりをしつつ旺盛な生命力、…というより恐怖の念を覚えるほどの生き物たちの逞しさを草いきれの中で実感させられ、往古の人々にとっての「瘴気」という言葉がほんの少し、ほんの僅か感じられたような気がしたのだ。

 生い茂る雑草。しかも、畑なのに!
 しかし、所詮は住宅地の雑草に過ぎない(手こずっているけれど)。

 これが道なき道を分け入った森の奥だったらどうか。
 現代のように山や森を展望することも叶わず、山の人でもないかぎり脳裏に地図を描くことも出来ない。
 泉鏡花の名作『高野聖』ではないが、山越えを強いられたなら、それは「草いきれ」どころか「瘴気」の横溢する魔物の世界が延々と続くのみだったろう。
 
 医学の祖と呼ばれたりもするヒポクラテスの言葉を幾つか掲げてみる:

「水についてそれがどんな状態にあり、人々は沼地の軟性のものを使っているのか、それとも硬性で高地の岩山から来るものを使っているのか、それとも塩辛くて粗い水を使っているのかを考慮しなければならない」(p.7-8)
「次に有害なのは、その源泉が岩場から出ているものである。これは必然に硬質だからである。また熱い水や鉄、銅、銀、金、硫黄、明礬、瀝青、曹達を含む土から湧く水。なぜなら、これらはすべて熱の力によって生じるのだから。このような土から湧く水は良水では有り得ず、硬質で、催熱的で、尿となって排泄されにくく、排便には妨げとなる」(p.14)
「雨水と融けた水がどのようなものかを述べよう。雨水の方は、もっと軽く、もっと甘く、もっと希薄で、もっと明澄である。そのわけは、まず太陽が水中のもっと希薄で軽い部分を上昇させて奪い取るからである。塩(の製造)がこのことを明らかにする。すなわち塩水は濃厚で重いから残されて塩になり、もっと希薄な水は軽いから太陽はこれを奪って行く。太陽はこのような水を沼の水からだけでなく、海からも、その他およそ水分のあるあらゆるところから上昇させる。水分はあらゆる物体の中にある。そして人間の身体からさえも、そっと希薄な、またもっと軽い水分を運んでいく。」(p.16)
「雪と氷からできる水は、すべて有害である。なぜかといえば、いったん凍結すれば、もう最初の性質にはもどらず、その明澄で軽くて甘い部分は分離されて消失し、もっとも濁ってもっとも滓(おり)になった部分が残るからである。」(p.17)
(ヒポクラテス『古い医術について』(小川政恭訳、岩波文庫)より。拙稿「ヒポクラテス『古い医術について』」参照)

ボードレール『午前一時に』

もろもろの人に不満を抱き、自分にも不満を抱く私は、夜の沈黙と孤独の中で、いささかなりとも我が身を贖い、我が身に誇りを取り戻したいものと思う。私の愛した人々の魂よ、私の歌った人々の魂よ、私を強からしめよ、私を支えよ、人の世の虚偽と、腐敗をもたらす瘴気とを、私から遠ざけよ。
(阿部良雄・『ボードレール全詩集』・ちくま文庫 「ボードレール語録 午前一時に」より転記)


泉鏡花『高野聖』

(前略)何しろ体が凌(しの)ぎよくなったために足の弱(よわり)も忘れたので、道も大きに捗取(はかど)って、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓(あたま)の上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。
 鉛(なまり)の錘(おもり)かとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着(くッつ)いていてそのままには取れないから、何心なく手をやって掴(つか)むと、滑(なめ)らかに冷(ひや)りと来た。
 見ると海鼠(なまこ)を裂(さ)いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずると辷(すべ)って指の尖(さき)へ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚(びっくり)して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱(ひじ)の処へつるりと垂懸(たれかか)っているのは同形(おなじかたち)をした、幅が五分、丈(たけ)が三寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
 呆気(あっけ)に取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血(いきち)をしたたかに吸込むせいで、濁(にご)った黒い滑らかな肌(はだ)に茶褐色(ちゃかっしょく)の縞(しま)をもった、疣胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは蛭(ひる)じゃよ。
 誰(た)が目にも見違えるわけのものではないが、図抜(ずぬけ)て余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何の畠(はたけ)でも、どんな履歴(りれき)のある沼(ぬま)でも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。
 肱をばさりと振(ふる)ったけれども、よく喰込(くいこ)んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味(ぶきみ)ながら手で抓(つま)んで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくも耐(たま)ったものではない、突然(いきなり)取って大地へ叩(たた)きつけると、これほどの奴等(やつら)が何万となく巣をくって我(わが)ものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔(やわらか)い、潰(つぶ)れそうにもないのじゃ。
 ともはや頸(えり)のあたりがむずむずして来た、平手(ひらて)で扱(こい)て見ると横撫(よこなで)に蛭の背(せな)をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜(ひそ)んで帯の間にも一疋(ぴき)、蒼(あお)くなってそッと見ると肩の上にも一筋。
 思わず飛上って総身(そうしん)を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中(むちゅう)でもぎ取った。
 何にしても恐しい今の枝には蛭が生(な)っているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾(いく)ツということもない蛭の皮じゃ。
 これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満(いっぱい)。
 私は思わず恐怖(きょうふ)の声を立てて叫(さけ)んだ、すると何と? この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒な痩(や)せた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。
 草鞋を穿(は)いた足の甲(こう)へも落ちた上へまた累(かさな)り、並んだ傍(わき)へまた附着(くッつ)いて爪先(つまさき)も分らなくなった、そうして活(い)きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮(のびちぢみ)をするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。
 この恐しい山蛭(やまびる)は神代(かみよ)の古(いにしえ)からここに屯(たむろ)をしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛(なんごく)かの血を吸うと、そこでこの虫の望(のぞみ)が叶(かな)う、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出(はきだ)すと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と泥(どろ)との大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を遮(さえぎ)って昼もなお暗い大木が切々(きれぎれ)に一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違(そうい)ないと、いや、全くの事で。
底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房 「青空文庫」より)


草 む し り

 肥料も撒くし、そもそも土壌が豊かで、稲や野菜も育つけど、雑草も油断していると好き放題に生えてしまう。勝手に何処かで生えるだけなら、どうでもいいようなものだが、雑草が生えると、土壌のせっかくの栄養分が奪われてしまう。栄養は作物にこそ与えられなければならない。雑草如きに寸毫も与えてなるものか、なのである。
 梅雨の雨水をタップリと吸い込んで満足げな黒っぽい土。田植えが済み、稲がスクスクと育っている。庭にはキャベツだナスだ玉葱だ苺だ、トウモロコシだ、ジャガイモだと、トマトだと、いろんな野菜も実っている。
 が、雑草も、穏和な天候に釣られて、ドンドン育つ。やつ等が育つと、稲が、野菜が、果物が育ちにくくなる。滋養が足りなくなる。害虫だって雑草に隠れているかもしれない。除草剤の危険が唱えられたりして、ひたすら手で雑草を毟り取るしかないのだった。
 鎌とかも使うけれど、根っこから引っこ抜かないと、土壌に頑固に残った根からあっという間に雑草が姿を現してしまう。終いには、軍手がまどろっこしくて、指先で意地になって、ほとんど自棄になって草を引っこ抜く。
 ただ、もう、闇雲に黙々と、まるで苦行を強いられているかのように、大地に己が身を縛り付けるようにして、炎天下、雑草たちと戦い続ける。
 それは、冬の日の雪掻きにも似た、難行苦行である。掻いても掻いても雪は降り続く。未明に、朝食後に、昼食前に、昼下がりに、夕方、食事前に、夜の一服を終えた後に、そしてトドメとばかりに、就寝前に雪掻きをする。まるで雪に祟られたプロメテウスだ。いつ止むとも知れない憂鬱な曇天に挑むイカルスだ。さすがに墜落はしないけれど、決して舞い上がることもない。ただ、大地にへばり付く。草むしりだって、雪の代わりの、大地に呪われた苦行だった。
(拙稿「『草 む し り』」より)

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