帰郷して待っていたのは草むしり
今年も草むしりの季節(?)がやってきた。
天気もやや安定しているし日中は日差しがさほどきつくない。鍔(つば)付きの帽子を被ってなら、直射日光下でもできる。
雑草も日差しにつれて一斉に生え始め育ち、あっという間に生い茂る。
← ネコの額の広さの畑。
実際には陽気がどうこうではなく、つい先日までは目立たなかった雑草の旺盛な繁殖力に急き立てられるようにして庭や畑に向わせられる、という状態である。
草むしりはささやかなりともこれまでもやってきた。
小生の草むしりや雑草への思い入れの深さは、それらの周辺を巡る雑文の多さでも証し立てることができる。
「草むしり」(2006/05/06)、「黄砂に抱かれて草むしり!」(2007/04/02)、「狐の牡丹…雑草のこと」(2005/04/27、「雑草のこと」の執筆は04/08/17)、「野原のことなど」(03/06/15)、「雑草をめぐる雑想」(2008/04/04)などなど、毎年一つか二つはあれこれ書き散らしている。
終いには、ズバリ「草 む し り」という題名の、若干の思い出話を土台にして、虚構とエッセイの中間のような作品を仕立ててみたほどである。
→ とてもじゃないが、畑には見えない!
虚構作品(?)の「草 む し り」から、どちらかというと、実際の草むしりの際の感覚をリアルに叙述した部分を抜粋してみる:
麦藁帽子を被り、首に手拭いを巻き、軍手を嵌めて、腰を屈めて、ひたすら黙々と草むしりと言う苦行を続ける。小学校の高学年になっていたボクには、家が兼業農家であり、父は仕事が忙しくて、日曜日くらいしか家のことは手伝えないこと、お袋だって農家ということもあり、家だってやたらと部屋数があるし広いし、来客もあるしで、草むしりまではなかなか手が回らないこと、そしてそれ以上に、とにかく農家にとって草むしりは生活する上で死活問題なのだということは、少しは分かってきていた。
肥料も撒くし、そもそも土壌が豊かで、稲や野菜も育つけど、雑草も油断していると好き放題に生えてしまう。勝手に何処かで生えるだけなら、どうでもいいようなものだが、雑草が生えると、土壌のせっかくの栄養分が奪われてしまう。栄養は作物にこそ与えられなければならない。雑草如きに寸毫も与えてなるものか、なのである。
梅雨の雨水をタップリと吸い込んで満足げな黒っぽい土。田植えが済み、稲がスクスクと育っている。庭にはキャベツだナスだ玉葱だ苺だ、トウモロコシだ、ジャガイモだと、トマトだと、いろんな野菜も実っている。
が、雑草も、穏和な天候に釣られて、ドンドン育つ。やつ等が育つと、稲が、野菜が、果物が育ちにくくなる。滋養が足りなくなる。害虫だって雑草に隠れているかもしれない。除草剤の危険が唱えられたりして、ひたすら手で雑草を毟り取るしかないのだった。
鎌とかも使うけれど、根っこから引っこ抜かないと、土壌に頑固に残った根からあっという間に雑草が姿を現してしまう。終いには、軍手がまどろっこしくて、指先で意地になって、ほとんど自棄になって草を引っこ抜く。
ただ、もう、闇雲に黙々と、まるで苦行を強いられているかのように、大地に己が身を縛り付けるようにして、炎天下、雑草たちと戦い続ける。
← 一時間あまり作業したら…。奥の黒い小さなものは、移動式の腰掛。父が使っていたもの。
草むしりというより、雑草をめぐっての瞑想めいた思いを「野原のことなど」から抜き出してみる:
ススキやキンエノコロというのは雑草なのだろうか。野原に咲く植物は、野草とは呼ぶけれど雑草とは思われていないような気がする。タンポポは雑草なのか。 野草と雑草はどう違うのだろう。野原に咲くから野草で、道路の周辺、畑や庭に望まれないのに咲くのが雑草なのか。つまり生活圏の外の野原などに咲くと野草で、人の生活圏を侵害する植物が雑草なのだろうか。だとしたら、たまにブロック塀の脇などにススキなどが生えていることがあるが、その場合は野草ではなく雑草の扱いになるのだろうか。
まあ、そんなことは今はいい。我が家の周りも農道も含め、コンクリート舗装され土の部分が田圃や僅かな庭以外にはほとんどなくなった。狭い畑があるから、その敷地には雑草が生えて家の者を困らせる。
ただ、田圃に農薬を撒く如く、庭や畑にも雑草の駆除剤が散布されたりする。たくましいと勝手に思われている雑草は、蝶やトンボも昆虫もホタルもいない、生命感の欠落した、死の気配が漂うような厳しい環境下に懸命に生き延びているのだ。
いずれにしても、我が家の近所にススキの原も何も残ってはいない。近所のガキ連中で遊び回った土の世界が消えてしまった。健気な雑草がなんとか余命をつないでいるだけなのである。ちょっと寂しい気がするが、これも時代ということなのだろうか。
→ 本日の草むしりの成果。収穫とは決して呼ばないように!
草むしりについては、今年は、昨年までとは大きく事情が異なっている。
それは小生が今年の三月より郷里に舞い戻ったという点である。
今までは、年に数回の帰省の折、時間が取れたなら、田植えなり草むしりをするくらいのものだった。
が、決して小生が世帯主になったわけではないが、家での力仕事などの雑務は、小生以外にやり手はいないのである。
要するに、小生がやるっきゃない! である。
「雑草をめぐる雑想」やら「日の下の花の時」やら、花や雑草を巡っての随想も瞑想もあったもんじゃない!
← 稲作を止めた翌年の04年5月に撮影。
去年(こぞ)の田は夢かとばかりに舞うトンボ
この句(?)は、数年前、田圃を手放し、我が家が農家でなくなったことを実感して詠んだもの(「案山子…去年の田は」参照)。
実感…。稲作を止めた翌年には、雑草の原になっていた。
ちなみに今は近所の人たちの畑として立派に使われている。
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コメント
ウチの庭にはびこっているのは、「貧乏蔓・ビンボウズル」と「屁糞葛・ヘクソカズラ」。
彼らは毎日、成長していて、生きているみたいで、恐ろしささえ感じます。
怖い!
ほんと、どうにかしたい!
投稿: 雫 | 2008/05/03 22:43
雫さん
ど根性ダイコンとかが、一時期、話題になったけど、あれはポピュラーな野菜だから話題になるわけで、少なからぬ雑草は、コンクリートを皹入らせてでも、地下から這い出してくる。
生物の生命力の凄さは、いろんな場面で感じるよね。
雑草は、とにかく根負けしたらダメ。
ちなみに我が家の畑の草むしり、昨日の土曜日でほぼ終了です。
土曜日の夕方近くから、野菜の苗の植え付けが始まった。
投稿: やいっち | 2008/05/03 23:24