白熱電球製造中止…
過日、「12年までに白熱電球製造中止 経産相、温暖化対策で表明」(「goo ニュース」より)といったニュースを小耳にはさんだ。
「電力消費が多い白熱電球を4年後の2012年までに国内での製造・販売を中止し、消費電力が白熱電球の約5分の1で、寿命も長く省エネ効果が高い電球形蛍光灯に全面切り替えを完了させる方針」という。
「地球温暖化問題をテーマに、北海道洞爺湖町で開かれた関係閣僚と市民の対話集会で明らかにした」というから、発表のタイミングを計っていたということか。
→ 4月6日、チンドンコンクールの見物に行った際、せっかくだからと、コンクールの会場に程近い富山城を散策。
白熱電球への思い入れは、特に昭和世代の人間には一入(ひとしお)なものがあったりする。
そういえば、以前、関連する記事を書いたことがあったはずと探したみたら、「蝋燭…ランプ…電球…蛍光灯」という恰好の小文があった(他に、「蝋燭の周辺」もあるが)。
但し、小生のこと、本分も長いが、プログが日記という性格もあって、前置きがやたらと長い。
以下、関連する部分を抜粋転記する。
(「蝋燭…ランプ…電球…蛍光灯」より)
(前略)
持ち込んだ本は、先週末からのもので、坪内 稔典著『季語集』(岩波新書 新赤版)である。本書の性格上、まとまった感想は書かないと思うが、今日は、ちょっと注意を喚起された点があったので、軽く触れておく。
本書『季語集』の中に春・植物の季語である「菜の花」という項目がある:
「はるか向こうには、白銀の一筋に眼を射る高野川を閃かして、左右は燃え崩るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりとなすり着けた背景には薄紫の遠山を縹渺(ひょうびょう)のあなたに描き出してある」。これは夏目漱石の『虞美人草』の一節である。京都市の北部から南を眺めた風景だ。
そういえば、蕪村の名句「菜の花や月は東に日は西に」も京都南郊の桂川、宇治川、木津川が合流するあたりの風景。菜の花が咲いていたのは京都ばかりでなく、やはり蕪村が「菜の花や摩耶を下れば日の暮るる」と詠んだ神戸、また「菜の花や和泉河内へ小商い」と詠んだ大阪近郊も、春には一面の菜の花世界になった。
菜の花世界が消えたのは、灯火が石油、電力に移行してから。石油や電力が登場するまで、菜種油の灯火が人々の夜の世界を照らしていた。菜の花の一本でいる明るさよ 折笠美秋(びしゅう)(『君なら蝶に』一九八六)
菜の花をざくざくと切る朝御飯 中林明美(『月への道』二〇〇三)
(中略)
さて、昨日読んだ中でこの「菜の花」の項の記述が引っかかったのには訳がある。
実は、仕事に出る前夜、寝床でガストン・バシュラール著の『蝋燭の焔』(渋沢 孝輔訳、現代思潮新社)を読んでいたら、ちょっと気になるくだりがあったからなのである:
身近な物たちとの過ぎた付き合いがわれわれを連れ戻すところは、ゆっくりとした生である。彼らのそばで、われわれは、過去をもちながらしかもなおその都度新鮮さを取り戻す夢想にあらためてとらえられる。「長持(ショジェ)」、ひとが愛着をもった品々のあの狭い陳列館のなかに仕舞いこまれている物たちは、夢想の護符である。その物たちを呼び起す、すると早くも、彼らの名称のお蔭で、ひとはきわめて古い物語を夢見ながら飛び立つのだ。すれゆえ、名称たち、古い名称たちがその対象を変え、あの古い長持のなかの良き古い品とは全く別の物に結びつけられてしまう時の、夢想の惨めさといったらない! 前世紀に生きた人々は、ランプとうい語を今日の唇とは違った唇でいったものだ。語の夢想家である私にとっては、電球(アンプル 電燈)などという語は吹き出したくなるようなものである。電球(アンプル)は、所有形容詞をつけて呼ぶに十分なほど親しいものとはけっしてなりえない。昔にひとが「私のランプ」といったのと同じようにして、「私の電球」などと、いったい誰がいまいうことができるだろうか。ああ! 所有形容詞の、われわれがわれわれの物とのあいだにもった付き合いを、あんなにも強く表現していた形容詞のこうした頽落を前にしては、今後どうやって夢想を続ければよいのか。
電燈は、油で光をつくりだしていたあの生きたランプの夢想をわれわれにあたえることはけっしてないだろう。われわれは、管理を受けている光の時代に入ったのだ。われわれの唯一の役割は、スイッチをひねることだけだ。われわれは、もはや、機械的動作の機械的主体でしかない。正当な誇りをもって、点火するという動詞の主語となるためにその行為を利することはできない。
強調のための点々を、付せられている脚注をも略しているとか、前後の脈絡なしに引用していることは本文のより深い理解に些少の障害になるかもしれないが、ここではバシュラール論を展開するわけではないし、小生らしく表層をなぞるだけなので、まあ、目を瞑ってもらって…。
こんなバシュラールの一節を読んで、ちょっと思うところがあったので、翌日、車中で先に引用した「菜の花世界が消えたのは、灯火が石油、電力に移行してから。石油や電力が登場するまで、菜種油の灯火が人々の夜の世界を照らしていた」といった一文を目にして素通りするわけにはいかなかったのである。
電球(アンプル)とランプ。フランス語の音韻的なことは(本筋に不可分離だとは思うが)、ここでは無視しておく。
ランプを前にしての、ランプを中心にしての生活が当たり前の時代に生きた人、あるいはそうした人々を懐かしく思う人(バシュラールなどの世代)には、そこに登場した電球など、「われわれの唯一の役割は、スイッチをひねることだけ」にさせてしまった機械的な味気ない、恐らくは人間味ある付き合いの極めて薄れたものにさせる元凶として毛嫌いされてしまうのは、とても良く分かる。
だけれども、時代の違う、それこそ蛍光灯が当たり前の時代に生きている小生、だけれど、電球(何故か白熱灯、あるいは白熱電球と呼ばれたりもする)が部屋の明かりの中心だった時代をも知っている世代でもある小生には、電球の与えてくれる灯りは、今にして思えば、すこぶる人間的なものに感じられたりもするのだ。
あのオレンジ色の光を部屋に満ちさせてくれる電球は、人肌を部屋に満たしているようでもあった。電球には傘が被せてあって、その傘の上には丸い影がくっきりと残る。そうして部屋一杯の橙色の明かり。
蛍光灯だと蛍光管の下方が照らされるだけではなく、傘の上もやんわりと白々しい光が漏れ漂う。明かりとしての死角がないといえばそれまでだが、電球の灯りとの対比は実に明確でもある。
街灯にしても、当然ながら、電球が使われていて、弱々しげな灯りではあるけれど、電信柱の下方をようやく照らし出すそのオレンジ色の光は、そこに人の温みがあるような、その光の輪の中に入れば人肌に接することができるような、そんな懐かしささえもが灯りと共に漂っているようでもある。
電球は、確かにスイッチを捻ると、すぐに灯る。ランプの、油を燃やす、風を気にせざるをえないような人間味からは遠ざかっている。確かに機械的といえば機械的かもしれない。
けれど、思えば、ランプの前は、ヨーロッパにしても、蝋燭の炎に頼り切っていたはずではないか!
小生には文献的に指し示す素養など皆無だが、きっと蝋燭の炎に人間味と懐かしさを覚えていた世代には、ランプは便利だ! という声と共に、あるいはランプの素材であるガラスなどに素っ気無さ、他人行儀な感覚をあるいは覚えなかったかどうか。
小生は、日々、散々、蛍光灯のお世話になっておきながら、生来の鈍感さで人に蛍光灯のようだと思われながら(一昔前の蛍光灯は、スイッチを入れるにも、タイミングを間違うと、点灯してくれなかったりしたものだ)、でも、蛍光灯、水銀灯の白色は未だ以て好きになれないでいる。
日頃お世話になっているコンビニ。あの一晩中、煌々と照らされている店内。それだけでは足りず、店外へもたっぷりと水銀灯の灯りが漏れ出ている。遠目にも、あそこに店があると分かるのは嬉しいのだが、しかし、その有り難味と白々しい光の感触・印象とは別物だと思う。
水銀灯の灯りを、空々しい白ではなく、あの電球の、あるいはランプや蝋燭の燃える炎の色でもある、オレンジ色に変えたらと思う。
街灯の周辺に、コンビニから、あるいは町角の家の窓から漏れる光の色が青褪めた白ではなく、橙色になったら街中の風景や印象が随分と変わると思う。そういえば、東京タワーのライトアップも、夏場の一時期を除いては、オレンジ色がベースになっている…。
下記の記事でも、「昔の照明がアナログなら、水銀灯はデジタル的」などと書いている:
「まちづくり…景観…光害」
「冬の星」
蝋燭の蝋については、たとえば、「白鯨と蝋とspermと」など。
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コメント
白熱電球は今でもたくさん使ってます。蛍光灯が好きじゃないもので。――そろそろ方針の転換が必要ですね。
ところで、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の舞台が、我が石清水八幡宮のすぐ目の前とは知りませんでしたよ。
先日も桜を観に、自転車で走ってきたところです。
投稿: ゲイリー | 2008/04/08 13:53
ゲイリーさん
白熱電球、小生は久しく読書の際の友として使ってきました。
こちらでは、コンセントの都合で蛍光灯スタンドに変更。
やはり、雰囲気が違います。
白熱電球と同じ色合いで照らす蛍光灯の電球があるらしいので、玉だけでも橙色の光にしたい。
>ところで、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の舞台が、我が石清水八幡宮のすぐ目の前とは知りませんでしたよ。
蕪村の遠い影響が詩人の魂に息衝いているのかも。
投稿: やいっち | 2008/04/08 16:23
仰せの通り、蛍光灯の色合いは改善されたものもあるとはいえ、白熱球とは比較になりません。あのような蛍光灯の光の下で生活する二とは、顔色青いろ白くゾンビと変わりません。そのしたの夕餉の食事は蝋で出来た飾り物のようで食するに価しません。
ドイツでも最近は蛍光灯の経済性が囁かれますが、あのような物を使う家庭は異常な感覚の主でしかありません。そろそろ方針を転換して、蛍光灯全滅運動を繰り広げていくべきでしょう!!
投稿: pfaelzerwein | 2008/04/09 22:02
pfaelzerweinさん
蛍光灯の色合いはもっと温かみ、人間味のあるものに改善すべきですね。
明度について必要十分なものを確保されているなら、余力を雰囲気の柔らかさなどに振り向けて欲しい。
小生はコンビニの照明に付いて以前より憤懣を唱えてきました。
あの白々しさは殺伐としたものをかんじさせます。
あれを白熱球のオレンジ色に変更することで、食品なども美味しそうに感じられるでしょうし、何と言っても、真夜中などに青白く他人行儀な光ではなくオレンジ色だったら、それこそホッとするステーションになるのではと期待されます。
照明は、季節によって若干、色調を変え、冬は暖かみを、夏は涼しさを演出するといった配慮があっていいと思う。
車のヘッドライトも明るさの追求だけじゃなく、道路を(行き交う通行者やビルからの眺めも含めて)殺風景にしない工夫がこれからは求められると思うのです。
オフィスビルの照明も、色調を、人間の場に相応しいものを追及して欲しいとも思っています。
投稿: やいっち | 2008/04/10 10:01