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2008/04/04

雑草をめぐる雑想

「雑草という名前の草は無い」という有名な言葉があるが、雑草とは一体どんな草花なのだろう。
 雑草とそうでない草花との違いは何処にあるのだろう。

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← 「東照宮の石垣」 (画像は、「Photo by (c)Tomo.Yun」より)

 そうでない草花と書いたが、花壇などで手塩に掛けられて育つ花々のほかに野草もある。
 野草と雑草とも違いがあるのだろうか。

 野草も、「山野に生える草」ということで雑草とは生活圏が違うだけで、広い意味では雑草の範疇に入るのだろうか。
 野生の草花って、あるんだろうな。手付かずの状態のものがあるかどうか分からないけれど。

雑草 - Wikipedia」によると、「雑草(ざっそう)とは、人間の生活範囲に、人間の意図に反して繁殖する植物のことである」という。
生活場所」として以下が示されている:

1.運動場、駐車場、道路周辺など、人間がいかなる植物の育成をも認めていない場所へ勝手に侵入し、成長、繁殖する植物。すべて、定期的に駆除されることがある。
2.畑、果樹園、庭園、芝生など、人間がある特定の植物の育成を目指している場所へ、人間の意図に反して勝手に侵入し、成長、繁殖する植物。繁殖が激しく、ねらいとする植物の育成に邪魔になる場合、集中的に駆除の対象になる。

 小生などは古い寺や神社、庭園、古民家、山間(やまあい)でなくとも見知らぬ町で廃屋などを散策して回るのが好きである。古い柱や壁や石垣や、お地蔵さんや透き間から雑草が這い出しているコンクリート舗装の道……。

 神社・仏閣を訪れたなら、ご神体やご本尊に敬意を表さないといけないとは思うが、情けないことに仏像を拝んでありがたいと感じたことも、仏像に神々しさの念を覚えたこともない。
 なんとも罰当たりな奴である。
 本殿の奥に鎮座する本尊より、古い建物であれば、建物自体に、使われている材木・柱・床・梁などに見入ってしまう。
 が、そういった造形物より、庭があるなら庭やそこに繁る木々や草花に、さらには苔の生す庭そのものにこそ魅入られてしまう。

 その苔のびっしり生えている庭というのは自然なのだろうか。
 木々があり草花に彩られ、人造物が視野の中にないことが自然というのなら自然ではある。
 ても、公園はもとより庭園だって、そして古寺の庭だって人の手が入っている…、というよりむしろ人の目に晒されることの多い、観光地になっているような庭は丹精篭められているからこそ人の目を癒し心を眼を和ませてくれるのだろう。
 庭の世話や手入れをしている人は、訪れる人の目線を意識して、一定の美意識のもとに形を整えているのだろう。
 その際には、毟り取るのか刈り取るのか除草剤を使うのか、ともかく余分な草などは排除・駆除してしまうのだろう。
 あるいは長年の手入れの結果、邪魔で余計な草など最初から生えなくなってしまっているのか。
 この辺りの事情は分からない。
 きっとそこには小生の窺い知れないノウハウなどがあるのだろう。

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→ 「松島の円通院の庭」 (画像は、「Photo by (c)Tomo.Yun」より)

 いずれにしても、我々の多くが自然だと感じて眺め入っている閑雅な庭は、何十年何百年の歳月の積み重ねの果てに磨き上げられ洗練された美意識でもって作庭された、ある意味人為の極地としての庭なのであって、そうした練り上げられた仮構の自然に興趣を覚えるように我々は既に子供の頃から教育されてもいるのではないかと思ったりもする。
 古寺の庭は、すくなくとも一歩奥の方に足を踏み入れたお寺の裏手の庭は、閑寂なものでないと困る、ような。
 山間の、当初は人が入りづらかった地に偉いお坊さんが分け入って何がしという名の寺の開祖となったりする。
 それこそ原始の森だった山の奥に寺が建立される。
 木々を刈り倒し、鬱蒼と生い茂っていた(かどうかは分からないが)藪の野生の草花を刈り取り、あるいは焼き払い、広いか狭いかともかく平地を確保し、動物たちの生息場所を多少なりとも奪い追いやり、寺が、つまりは人間の生活圏の橋頭堡が構築される。

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← 「苔生す木肌」 (画像は、「Photo by (c)Tomo.Yun」より)

 その寺か神社か、それとも隠れ家か別荘か、倉庫か山小屋か、その建物を生活の拠点として山が一気に開発されていく。
 森の峠道それとも獣道ならぬ人の道を歩き登って、ようやく辿りついた小屋(寺)で一服する。
 眼に映るのは、未だ人の手の及ばない森を借景とする、ちいさな、だけど閑寂な庭、というわけであ。
 そうした庭にこそ自然を感じる、眺めて安堵する、古雅な雰囲気を満喫する、悟りの境モドキを味わったりする。
 我々にはもう人畜無害な、害獣や毒草のない自然しか自然ではありえないのだろう。
 ジェットコースターなどでの絶対安全を前提にしての冒険しか楽しめないように、自然とは人為の極としての、が、人為がうまく消去されている、そんな人畜無害な自然にしか自然を感じることは出来ないのだろう。

 どっちにしても、苔が一定の範囲内で蔓延るのなら許される、雑草は絶対にダメだが刈り込まれた範囲内の一定の種類や見栄えのいい草花なら場合によっては許される、人が実際に歩く道には苔も草もダメなのである。
 庭の美しさや雅さで有名な古寺の庭を一年ほどでも放置しておいて、これこそが自然の庭です、作為のない自然なのです、どうぞ御覧ください、なんて企画はありえないたろうか。
 ゴミが勝手に投げ込まれた、綺麗に馴れた眼には汚い、不自然な庭だと、不評・不興を被るのがオチか。

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→ 荒れ放題の我が家の苔庭(?)。

 ただやはり、考えてみれば(考えるまでもなく)寺社の類いは信仰の場、宗教の場なのである。
 その異境の場において自然がどんなに歪なもので人為の極を行くものであっても、人の手の関わりの気配や匂いをうまく消し去り、人の目に自然であり心を癒す雰囲気が漂い俗世を遠ざかっているふうに工夫されていればそれでいいのかもしれない。
 自然が、動植物が信心するわけでも宗教心を抱くわけもないのだろうし、その意味で寺社の領域は、あるいは寺社で象徴されているものは、徹底して人為の世界そのものなのだし、人の感受性の上で<自然>と受けとめられるならそれでいいのだろう。

 人が足を踏み入れたなら、そこに完璧な(?)自然を期待するほうが頓珍漢なのだろう。
 生粋の野生の世界など求めるほうが筋違いなのかもしれないし、そもそも<自然>とは何かってこと自体から問い直さないと話は始まらないのかもしれない。
 
 …というか、この雑草をめぐる雑想こそが真っ先に刈り込まれてしまう?!


(関連する拙稿:「狐の牡丹…雑草のこと」)

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