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2008/03/15

寝台急行「銀河」ラストラン

 とうとうその日が昨日、来てしまった。
 寝台急行「銀河」ラストランの日。

Sdsc01211

→ これは、夜の空を駆けて行くモノレールの勇姿。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をイメージしたくて撮ったもの。

「銀河」ラストラン  「ありがとう」とファンらがお別れ」(「NIKKEI NET(日経ネット)」より):

 14日午後11時、JR西日本の寝台急行「銀河」の最終列車がJR東京駅を大阪に向けて出発した。ホームには約2000人のファンらが駆けつけ、降りしきる雨の中、走り去る銀河を拍手で見送った。

銀河 (列車) - Wikipedia」によると、「「銀河」の列車愛称の由来は天体の銀河であ」り、「全車寝台車で編成されている急行列車である」。
 夜行列車を外から長めると、それこそ宮沢賢治ではないが、「銀河鉄道の夜」を髣髴させるし、夜空の「銀河」を連想する意味でも、「銀河」という愛称はロマンチックであり、ピッタリのものだろう。

 夜汽車。それだけでロマンを感じさせてくれる。

 学生時代、あまりレコードなど買って聴くことはなく、専らFMなどのラジオを楽しむほうだった。
 そんな中、数少ない例外の一枚としてグラディスナイツ・アンド・ピップスの「夜汽車よジョージアへ(Midnight Train To Georgia)」がある。
 紅一点のグラディス・ナイト(Gladys Knight)らのソウルフルな歌の数々もいいが、表題の「夜汽車よジョージアへ」をラジオで聴いて、その曲を聴きたいばっかりに買ったLPだった。
 夜毎、部屋の中を真っ暗にして聴き入ったものである。

「銀河」にはA寝台・B寝台とあるが、どちらとも開放式寝台だった。
 小生などは、いつかは個室寝台の列車で大陸横断といかずとも、何日かに渡る旅をしてみたいものと思っている。
 そんなささやかな夢はともかく、幾度か経験した開放式寝台の一夜限りの列車の旅の味や雰囲気も捨てがたいものがある…いや、今となっては、あったというべきか。

「銀河」の運行時間は、「上り下りとも東海道新幹線東京駅~新大阪駅間の最終列車出発後、始発列車到着前の運行」だった。
 それにしても、「銀河」は1949年9月15日に「東京駅~神戸駅間において東海道本線経由で運行を開始」だったとは。
 60年にも及ぶ歴史がある。「銀河」が廃止となって、せっかくなので関連の記事を書こうとして初めて知った。

「銀河」というと、西村京太郎作品を原作にした、渡瀬恒彦が主演のテレビドラマ「寝台急行銀河殺人事件」があった。
「A寝台の客が次々と殺されていく!!時刻表に隠されたアリバイの盲点を追え!十津川警部史上最大のピンチ」といった内容のサスペンスで、少なくとも再放送で(あるいは二度も)見た記憶がある。
 ああ、あの列車に小生も乗ったのだ…。

「幾度か経験した開放式寝台の一夜限りの列車の旅の味や雰囲気も捨てがたいものがある」とか、「寝台急行銀河殺人事件」を見ながら、「ああ、あの列車に小生も乗ったのだ…」とやや思い入れありげに書くのには、幾許かの訳がある。

 列車なのか汽車なのか定かには覚えていないのだが、小学三年か四年生の頃、富山の駅で乗って京都へ向ったことがある。
 京都にある病院で受ける手術のためだった。
 駅のホームに立って列車(か汽車)が来るのを気分的にはまるで死刑の判決でも下され、遠い地へ流されるような、大袈裟に言えば殺伐たるものだった。
 夜だったのは覚えている。
 多分、明朝には京都の駅に着いて、朝には検査か入院だったのではなかろうか。
 その夜行の列車(か汽車)が寝台ならば、記憶に残る最初の寝台車の体験ということになるのだが、もう十歳になろうという年頃だというのに、生憎、記憶が曖昧なのである。
 夜のプラットホームの光景が夢の中のようでもある。
 何事も上の空になりがちな性分に十歳の頃にはとっくになっていた。
 他人と比較されたらどうなのか分からないが、物心付く以前からのあれこれが、自分の耐えうるキャパシティを越えていて、辛くて、何事も上の空か夢の中の出来事、他人事のように、そう音声も匂いも何もかもがストリーム的な映像として受け流してしまう、そんな習性、性癖に囚われていたようである。

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← 「銀河」のB寝台 (画像は、「銀河 (列車) - Wikipedia」より)

 細かな雑事や教科書の学習事項の記憶ではなく、生きていく上で大切なことを責任と自覚を以て心に銘記することが記憶力なのだとして、記憶力の確かさとは、責任感の強さに他ならないという。
 ガキの頃からの銘記されているはずのことさえ、曖昧の海に溶解させてしまうサバイバルの在り方。

 寝台急行「銀河」に初めて乗ったのは、四十歳前後の頃のことである。

 1994年の一月から二月に掛けて(1993年の六月から七月に掛けてに引き続き、似たような部位に関わる一連の手術の)大人になって二度目の手術を子供の時と同じ京都の病院で受けた。
 当時は東京に住んでいたので、東京から京都へ向ったのだが、そのときは夜行も寝台列車も使っていない。新幹線を利用した。

 退院した日が四十歳の前日で、翌日(誕生日)は家に帰り、その翌日(つまり誕生日の翌日)、会社へ行った。
 退院した報告と長く休ませて貰ったお詫びとお礼の挨拶もした。
 か、その直後、常務に別室に呼ばれ、首を申し渡された(この辺りのことは別の記事で書いたので略す)。

 寝台急行「銀河」に初めて乗ったのは、四十歳前後の頃のことなのだが、実は失業間近(瀬戸際)の頃そして失業時代のことだったのだ。
 但し、手術や入院などのためではなく、術後の検査のためである。
 検査は朝と指定(命令?)されている。
 東京で始発の新幹線に乗っても到底、指定された時間には間に合わない。
 余儀ない選択として、夜行に、寝台急行「銀河」に乗ることになったのだった。

 東海道新幹線東京駅~新大阪駅間の最終列車出発後の駅のホーム。夜。否応なく、十歳の頃に駅のホームに立ったことを思い出させられる。
 細かなことは覚えていないのだが、駅のホームから遠くを見遣っても、闇の深さを思い知らされるばかりである。
 子供の時は、さすがに父母も居るし、見送りに来てくれた人もいた。
 それでも、学校を一ヶ月は休まざるを得ず、なんだか一人だけ違う世界に旅立ってしまうような心細さを覚えていた。見送りの人がせっかく励ましてくれていたのに、情けなくも上の空だった。

 生まれながらのものだから、仕方がないのだが、そのために手術して会社を首になって、失業して、身の処し方も分からなくなって、自らの愚かさもあって自分を見失って、四十歳にもなって何も分からなくなっていた。

 寝台のベッドの上では、もっと茫漠たる思いに駆られていた。
 それは二度目の手術を受ける際に抱いた感懐に関係していて、稿を改めていつか書いてみたい。

 寝台急行「銀河」に限らず、列車で旅する人はそれぞれに様々な思いを抱いていることだろう。
 その中の一人として、旅の気分ではまるでなく、殺伐とした心を持て余して揺られていた、そんな奴もいたということなのだろう。

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コメント

やいっちさんにとって、そんな思い出の街・京都がイヤな印象になっていなければ嬉しいのですが・・・

投稿: 雫 | 2008/03/15 19:22

雫さん

別に京都の町がどうという話ではないです。
たまたま病院が京都にあったというだけのこと。

退院の折や術後検査の時など、京都御所(通算すると三回以上)や延暦寺、金閣・銀閣寺、天満宮、二条城、東西の本願寺など所謂観光名所などに行きましたし、鴨川を橋の袂から眺めたりしました。

小生は、普段はタクシーは滅多に使わないのですが、京都での移動はほぼ全てタクシーを使いました。
失業時代の通院時も。
ある意味、京都でタクシーを何度も使ったことが、タクシーへの親近感に繋がったような。

それはそれとして、京都のいい訪問先など教えてください。当たり前の場所しか知らないのです。

投稿: やいっち | 2008/03/15 22:59

寝台列車にはかつて何度か乗ったけれど(いずれも二十余年前)、
青森に行った時に三段寝台の一番上のベッドで寝たことを懐かしく想いだします。
上半身を起こすのも大変な感じで、あれはホントに窮屈でした。

弥一氏もいろいろと思い出がおありのようですが、
寝台列車がだんだん少なくなるのは淋しいですね。
食堂車もほとんどなくなりましたし。

京都のなんでもない路地が僕は好きですね。
まあ、どんな町であっても、
その毛細血管や神経叢を徘徊するのが好みなんですが。

投稿: ゲイリー | 2008/03/17 09:03

ゲイリーさん

寝台列車、小生の記憶から消えているだけで、実際には学生時代などに乗っているかも。
北海道へ一人でパック旅行した時に…。

そう、寝台列車や食堂車などが段々減っていくのは寂しいね。
急行に特急に新幹線に、近い将来はリニアも!
今や、日程をゆっくり取る旅行のほうがリッチになっている。
船旅とか。

> 京都のなんでもない路地が僕は好きですね。

そうしたなんでもない路地を知っているってのが通だし羨ましくもある。
京都は空襲を受けていないから、古い町並みが残っているんでしょうね。
我が富山にもそんな場所があるのかな。
富山市は空襲で焼け野原になってしまった。
我が家も全焼。土蔵の形だけ辛うじて残ったけど、グラマンの機銃掃射の弾痕が十数年前まで土の壁にくっきり。

投稿: やいっち | 2008/03/17 13:36

僕はねえ中学時代旅行研究クラブというのに所属していましてね。
いろんなところへ旅行しましたよ、夜行列車にも何度も乗った。
国立大付属という自由な環境が中学生の「冒険心」を許してくれたのでしょう。
時代は変わってリニアモーターカーが実現するかという時代。
夜行寝台とか船旅クルーズなど逆説的ながら弥一さんもおっしゃるようにリッチで解放的なのでしょうね。

投稿: oki | 2008/03/17 23:41

okiさん

好奇心・探究心旺盛で、美術展などを小まめに見て回る片鱗は少年の頃からなのですね。
しかも、「冒険心」までも!

「冒険心」というと、小生の場合、昔、近くの藪林の中の丈の高い木の枝分かれしているところに掘っ立て小屋があったのを思い出しました。
誰がそんな場所に作ったのか(多分、兄貴分の某氏だと思うけど)。
あったのは小生がホントのガキの頃のことで、小生はただ口をあんぐり開けて見上げているだけだった。
その気になれば攀じ登れるかなという年頃になったころには撤去され、やがて間もなく藪自体が整地されてしまった。
小生の「冒険心」はその程度のもの。


> 時代は変わってリニアモーターカーが実現するかという時代。
夜行寝台とか船旅クルーズなど逆説的ながら弥一さんもおっしゃるようにリッチで解放的なのでしょうね。

時代は確実に変わりましたね。
okiさんなら、その気になれば、いつかは長期間に渡る船旅クルーズも可能なのでは?
小生は、数年前、東京湾岸のクルージングがあるだけ。
船旅で太平洋を渡るとか、個室の列車でシベリア大陸など横断してみたいものです。

投稿: やいっち | 2008/03/18 10:12

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