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2008/03/30

「野原のことなど」再び

帰郷して初めて散歩した(1)」の中で、「富山県富岩運河環水公園」となっている場所は以前は木場だったと書いている。
 じっくりゆっくり時間を掛けて歩いてみないと断言はできないが、今となっては、木場の名残りなど微塵もないようだ。

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← ここが以前は木場だったとは思えないほどに<綺麗な>環水公園への変貌ぶりである。

 この環水公園も含め富山駅の北口側は、俗に駅裏(側)と呼称され、南側、つまり表側は早くからデパートなどの商店が建ち並び、市役所や県庁、大手の企業の本支店などがある。
 まあ、何と言っても駅の南側は城下町でもあり、富山城そして城を巡る堀があるわけで、早くから開けてきたのも当然なことではある。

 一方、北口側は、小生が子供の頃は、駅の間近には放送局も含め幾つか大きなビルが建っていたものの、せいぜい二階建ての民家が密集ということなく街道近辺を中心に続いているだけだった。
 駅を十分も離れると田圃や畑が広がり、集落のように数軒あるいは十数軒の農家(大抵が兼業農家)が固まって散在していた。

 小生の家も兼業農家だったが、昔は田圃が何箇所かに分散していて、荷車を引いてそれぞれの田圃へ向ったものである(小生が物心付く間際の頃までは庭に馬もいたらしい。馬小屋は小生が中学生になる頃まではあったような)。
 開発が遅れていた分だけ、当然、空き地も多くあったし、農業から手を引く人も少なからず出てきて尚のこと土地が出てきたというわけである。
 よって駅裏は、思い切った開発が可能だったし、巨大な公共施設がドンドン建てられていった:
トールのひとりごと 富山の建築 2
    ~
トールのひとりごと 富山の建築 5
富山の再開発

 試みとしては成功したライトレール(ポートラム)も、駅の北側から海岸へと走っていたローカル線の廃線(があったからこそ、それ)を活用する形で再生されたものだった。
 近い将来は、ライトレール(ポートラム)は駅の南側へも延伸となることが既に決まっているとか。

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→ ポートラムの優美な外観。年配者にも乗り心地の評判がいいとか。

 小生の家も開発の対象地域からは外されているが、一応は駅の北側の地区にあるといえば言える。
 北側の地区の家として典型的とまでは言えないが、変貌ぶりの一端を偲ぶということで、5年ほど前に書いた「野原のことなど」なる小文(の一部)を転記する。


野原のことなど

 もう三十年以上も昔のことになった。我が家を囲む道が砂利道だったり、農道だったりしていた。まして我が家の庭に車を駐車させるためのコンクリートの敷地などあるはずもなかった。
 まだ変わらずにあるのは、田圃に面した一角だけだろうか。確かに昔はなかった農機具を入れる小屋があったり、敷地の一部が切り取られて人の家の建物が建っていたりするが、畦道に囲まれた狭い田圃を居間の窓からも望むことができる。
 昔は、田圃が飛び地状態で方々にあったが、今では裏庭に面するこの猫の額もないような僅かな田圃だけが残っている。それさえも、既に売却されていて我が家は管理を名目に、細々と田植えの真似を続けているのである。
 そういえば、田圃と裏庭に挟まれるようにして小さな池があった。鯉か何かが泳いでいた気がするが、記憶違いなのかもしれない。
 裏庭には小生が幼い頃、当時は何処の農家にもあったものだが、ニワトリ小屋があって、庭先から取ってきたナスやキュウリ、玉葱などと一緒に小屋から卵も失敬してきて食卓に並んだものだった。
 これは小生がつい先年、知ったことだが、我が家には昔、馬が飼われていたそうな。表の地蔵堂に面した庭の角に納屋があり、その中には稲藁などが積まれているのだけは覚えている。小生は、そうした農作業用の小屋に過ぎないと思い込んでいたのだが、実はそれは馬小屋だったというわけである。

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← 40年ほど前まで、この棕櫚の木の辺りに馬小屋があった。馬に荷車を引かせて、富山から高岡までの20キロの道を父母(ら)が歩いて往復したのだとか。

 その馬に荷車を引かせて、富山(のほぼ真ん中辺り)から高岡にあるお袋の里まで何度も往復したのだという。そんなことは、全くの初耳で、記憶をどう遡ってみても、馬の鬣(たてがみ)の毛一本も脳裏に描けない。一度くらいは物心付くか付かない前に見ているはずなのだが。
 地蔵堂(この地蔵堂も結構、珍しいものだという。今はコンクリート製に建て替えられているが、当時は雨漏りのしそうな正に古びた小屋だった。何が珍しいかというと、地蔵さんが30体以上も収められていることである。建て替えの前は、その木造の地蔵堂は我が家の庭に向っていたが、新装なった時には、何故か向きが変わり、我が家の対面にある地元で一番のお金持ちの家に面するようになった。その時は、我が家の家運が傾いたような気がして、ちょっと悲しかったことを覚えている)からそれほど離れない一角には農道に面して肥溜めがあったのは、何故か鮮明に覚えている。
 家の北の角にあるトイレの肥溜めから汲み取って、その一坪ほどの肥溜めに移し替える。そして、必要に応じて肥桶に汲み、畑などに撒くお袋の姿を、これは辛うじて覚えている。
 やがて農道に面した肥溜めは潰され、今は松や椰子などが植えられ大きく育っている。といって、トイレが水洗に変わったわけではなく、定期的に汲み取り屋さんが肥溜めのなにをトラックで汲み取りに来る。
 その時ばかりは、芳しい臭いが辺り一面に漂うのだ。トイレが水洗に変わったのは小生が学生時代のことだったか。その頃までには、土間も使われなくなり、やがてさらに土間もなくなって今では父と母の寝室となっている。その土間で、脱穀やら、大晦日の前には近所の知り合いが集まって石臼で餅つきをしたり、祝い事があると、赤飯をたっぷりと炊いたり、若き日の父と母が汗水を垂らし、様々な作業に精を出した場所だったのだ。
 表の庭には農道に面して蔵があった。その中には幾度となく入った記憶がある。遠い昔、ほとんど初めて入った頃、めったに登らない蔵の二階を覗く機会があった。そこには長持やら御膳やら箪笥やら、恐らくは父の父の代からの残り物が収められていたようだ。
 悲しいことに、富山の大空襲で我が家も燃えたので、古くからの伝わりものは父はほとんど受け継ぐことができなかったのである。
 その蔵の壁は、当然、藁の茎の混じった土壁で、よく見ると、壁が何箇所も抉れている。聞くと、それはアメリカ軍の飛行機による機銃掃射の弾痕の跡だという。父も掃射の雨のちょうど谷間になって、命からがら助かったと聞いた。戦火の中、なんとか田圃の外れに持ち出した什器類も、やはり戦火を免れることはできなかったとか。
 その蔵も小生が学生時代だったか壁だけは綺麗に生まれ変わって、弾痕の跡も見られるはずもない。
(中略)
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→ 家の裏庭にひっそりと。撮ったのは曇天の日の宵の口だったので、ちょっと地味?

小生がガキの頃は、まだ空き地が方々にあり、我が家からちょっと歩けば防空壕もあり、戦火による残骸が散らばったままの場所もあった。我が家から十分ほど離れた場所には大学の薬学部(薬学専門部=略して薬専=ヤクセンと呼ばれていた)の跡地があった。ここは子どもには謎の一角、秘密に満ちた不気味な領域でもあった。敷地は既に雑草が茫々と生えているばかりだったが、実は未だヤクセンの建物が朽ちたままに残っていたのである。
 小生は臆病者でその中にはとうとう、足を踏み入れることができなかった。学校でも、その敷地へは勝手に入り込むんじゃないと指導されていた。小生はその指導に素直に従っていたのである。
(中略)
 そのヤクセンの敷地は結構、広くて、ススキだったかの野原になっていた。他にも方々に空き地や野原があって、そこには決まったようにタンポポかススキが咲き誇っているのだった。
 しかし、今、思い起こしてみると、ススキだと思っていたのは、実は、何か別の種類の植物だったように思える。というのは、たまたまネットで稲穂などの画像を検索していたら、イネ科の仲間の植物で、キンエノコロとかムラサキエノコログサ、アキノエノコログサなどと、小生が見ていたような植物がいろいろ見つかったのである。
(中略)
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← 家の勝手口へ続く小道。生い茂る杉木立で昼間もやや日差しが弱い。

 ススキやキンエノコロというのは雑草なのだろうか。野原に咲く植物は、野草とは呼ぶけれど雑草とは思われていないような気がする。タンポポは雑草なのか。 野草と雑草はどう違うのだろう。野原に咲くから野草で、道路の周辺、畑や庭に望まれないのに咲くのが雑草なのか。つまり生活圏の外の野原などに咲くと野草で、人の生活圏を侵害する植物が雑草なのだろうか。だとしたら、たまにブロック塀の脇などにススキなどが生えていることがあるが、その場合は野草ではなく雑草の扱いになるのだろうか。
 まあ、そんなことは今はいい。我が家の周りも農道も含め、コンクリート舗装され土の部分が田圃や僅かな庭以外にはほとんどなくなった。狭い畑があるから、その敷地には雑草が生えて家の者を困らせる。
 ただ、田圃に農薬を撒く如く、庭や畑にも雑草の駆除剤が散布されたりする。たくましいと勝手に思われている雑草は、蝶やトンボも昆虫もホタルもいない、生命感の欠落した、死の気配が漂うような厳しい環境下に懸命に生き延びているのだ。
 いずれにしても、我が家の近所にススキの原も何も残ってはいない。近所のガキ連中で遊び回った土の世界が消えてしまった。健気な雑草がなんとか余命をつないでいるだけなのである。ちょっと寂しい気がするが、これも時代ということなのだろうか。

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