『今昔物語』:風のかたみ
ここしばらく、引越しの作業などで慌しく、音楽も聴けなければ本もろくすっぽ読めない日々が続いている。
CDプレーヤーのほうは、先週末、梱包したまま蔵に積み上げていた山となったダンボールの中からようやく発見、夜になってショパンやバッハなどを聴いた。
→ 福永 武彦 著『今昔物語』 (【解説: 池上洵一 】 ちくま文庫 筑摩書房)
雑多な荷物が乱雑なままの我が部屋だが、不思議なものでロッキングチェアーに体を沈め目を閉じ流れ漂い時空を満たす音楽に聞き入っている間だけは、自分が異次元の世界に導きいれられたようで、気忙しい日々の俗事を忘れさせてくれる。
本は、日記の「祈りでもなく」にチラッと書いているが、福永武彦 著『今昔物語』 (【解説: 池上洵一 】 ちくま文庫 筑摩書房)をちびちびと読んでいる。
いよいよ引越ししようという前日に買ったもの。
自分を慰撫するため、本は当分買わないという禁を破ってほぼ四年ぶりに書店へ足を運び物色し購入したのである。
日記の「祈りでもなく」から、関連する部分を抜き書きしておく:
東京を離れるので、長く利用させてもらってきた図書館に本やCDを返却してきた。もう、あの馴染みの図書館を利用することはない。本はすべて処分したか梱包を済ませて、手元には一冊もない。残り少ない東京での日々や帰郷の列車内で何か読もうと久しぶりに書店へ。分厚い、面白いが夢中になって一気に読了する怖れのない本を物色していたら、本書に手が伸びた。『今昔物語』なる古典を福永 武彦が訳してくれていて、150編ほどの短編集といった体裁になっている。これなら申し分ない。『今昔物語』は、いつかは原典で読み通したいと思いつつも、そのあまりの浩瀚さぶりに躊躇われてきた。まずは福永 武彦の手で『今昔物語』の混沌なる世界に導いていってもらおう。
『今昔物語』は不思議な魅力に満ちている。
今は昔の物語りの、時に荒唐無稽なとも思える話しだったりするのだが、妙にリアリティがあって、話の世界に引きこまれてしまう。
人間性が露わに描かれているようで、頭でっかちの経験や実人生より理屈が先行しがちなインテリには、時に真空状態になり、精神的にというより情感において、人間味において痩せ細っている心には、干天の慈雨なのかもしれない。
『今昔物語集』に魅せられた作家は少なからず居て、芥川龍之介(の「鼻」、「羅生門」)などは有名だが、福永武彦もその一人なのである。
「私は昔、病床にあった頃、国史大系本で今昔を愛読したが、寝食を忘れるほど面白かったという一語に尽きる」(「福永武彦 風のかたみ」(ホームページ:「音楽とペーパーバック」)より。)ということで、『風のかたみ』なる今昔物語に取材した王朝ロマン小説を書くに到っている。
『今昔物語集』は魅力を感じつつも、小生など何処から手を付けていいのか戸惑うばかりである。
実際、本ブログでも『今昔物語』を話題の俎上に載せたことは皆無に近い。
唯一、「匂いの力…貴族のかほり」があるばかり。
この小文は、八岩まどか著の『匂いの力』(青弓社)などを読んでの記事。
← 八岩まどか著『匂いの力』(青弓社)
以下、『今昔物語』に関連する部分を抜粋する:
菅原道真の怨霊が如何に平安時代の貴族や宮中を怖れさせたかが書かれた上で:
『醍醐天皇御記』に、演技十年(九一〇年)正月四日のこととして「内裏において犬死の穢があったために祈年祭を延期した」という内容が書かれている。また『貞信公記』にも、「犬死の穢によって参内せず」「牛死の穢によって大原野祭を中止した」などの内容が散見される。こうした内容は他の日記類にもたびたび登場するもので、ことさら珍しいものではない。だからといって、日常よくあるつまらない話というわけではない。宮中での役職を持つ男たちにとって公式な記録としての性格を持っていた日記に、こと細かく書いておかなければいけないほどに重要なものだったのである。
ここでいう「犬」というのは、宮中や貴族の屋敷で雑役を担っていた一般民衆のことである。平安京の支配者たちにとって人間とは、天皇を中心とした国家のなかで公式な位や職を与えられた者たちのことであって、こうした人間に雇われている一般民衆は、人間に餌をもらって生きる「犬」とみなされていたのである。ちなみに「牛死」「牛馬死」の場合は、言葉どおりの動物の牛・馬の死体を意味していた。
この世に恨みや未練を残して死んだ御霊の祟りは当時にあっては想像を絶して怖いものだった:
『今昔物語集』には、ある貴族の家で雑役をしていた少女が疫病にかかって重体に陥った時の話が載っている。
もう助からないという状態と分かると、屋敷の主人である貴族は、少女を道に捨ててくるように命じる。死ぬと分かっている者は屋敷内にとどめないのが当時の常識であり、道端でひとりで死を迎えるのが「犬」の運命だったのである。主人の命令を知った少女は、「隣の家の犬がいつも私に咬みつこうとします。人気のないところに捨てられれば食い殺されてしまうでしょう。あの犬の来ないところに出してください」と必死で哀願する。それを聞いて主人は「毎日、必ず誰かを見に行かせる」と約束して、道に捨てさせた。だが人をやったのは、数日してからのこと。少女は、犬に食い違えて死んでいたのだった。
雇われ人である一般民衆は「犬」呼ばわりされていた。その死は、文字通り「犬死」だった!
ところで、少女の言う隣の犬とは本当の(獣の)犬なのか、それとも少女を食い物にする(嬲者にする)碌でもない奴(一応は人間。といっても、徒食の貴族)のことなのだろうか。
平安時代などの文芸は世界に類を見ないほどに高度な表現技術で繊細極まる世界が描かれていたという。
古代ギリシャの哲学は、貴族である哲学者たちの営為であり、奴隷制度の上に成り立っていた民主制度だったことは知られている。
平安文学の繊細緻密な世界、人情の機微を描きつくした世界、花鳥風月の世界も、あくまで貴族の世界という閉ざされた空間からは一切人間的な関心が及ばなかったこと、つまり貴族と庶民とは隔絶しており、貴族の光の世界を支える深く暗い闇の海である庶民の世界が日の光も及ばざる領域として伸び広がっていたことは銘記すべきだろう。
一般民衆は人間ではなく犬畜生。が、本能の何処かでは彼らも感情を持つ人間だと気づいていた…。だからこそ、祟りや怨霊をつねに怖れるしかなかったのだろう。
(以上、転記)
生き生きとした、その分、あられもない、えげつなくもある世界。
美的センスの際立つ人間には、魅力を感じるし、たまらなく惹かれるのだが、自らがその人間味溢れる世界の渦中には決して飛び込むことのありえなかったしありえない世界であり続けるだろう世界。
『今昔物語集』に尽きせぬ魅力を感じてならない小生も、きっと、とうに心が枯渇しているのだろう…か。
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