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2008/03/23

抜き足差し足忍び足の日々…バードウォッチング?

 郷里に引っ越してきて(出戻りして)あと数日で早くも一ヶ月が過ぎることになる。
 バタバタするばかりの毎日で、忙しくもあるが、何処かスローモーション映像の中にいるようで、時間の感覚が狂っているような気がする。
 それは、東京という大都会と富山との時間(経済)の進み方の実際的且つ感覚的な速度感や人や文化や歴史の厚みの違いでもあろうけれど、やはり個人的な事情に負うところが大きいようである。

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← 3月20日の午後。ジッと見ないと分からないかも。

 共に米寿を越えている父母との暮らし。
 体調のこともあり、生活のテンポが何事においても緩やか。
 協調心があるというのか、こちらまで家の中ではゆっくり緩やか。

 動作が緩やかだからといって、心の中までもがのんびりしているわけでは毛頭ない。

 むしろ思うこと願うこと意図することと、現実に出来ることとのギャップの大きさを日々そしてその都度、思い知らされる。

 心のゆらぎということになると、その振幅は若い人より大きいのではと思えたりする。
 何故なら、年を取ると涙もろくなる、なんて云われたりするが、それは他人の心への理解度が自らの身(体験など)を以て深まり、ちょっとした人の表情や仕草や言葉の端々だけで、相手(他人)の心の痛み、あるいは喜びが<分かって>しまうのだ。
 分かる、感じる、共鳴・共感するという人間の心の在り方って凄いものだとつくづく思う。
 当然ながら、誤解の形での理解や共感の可能性も十分にありえる。
 否、ありすぎるほどに実際には誤解や邪推・齟齬の連続・繰り返しなのかもしれない。

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→ 裏庭の大きな甕の上。小鳥たちの水飲み場になっているようだ。

 しかし、真実がどうなのかは、実際には確かめられない以上、誤解かもしれない、単なる勝手な思いいれかもしれない、なんて云ってみたところで何の意味もありはしない。
 とにかく分かる、感じる、涙する、暗澹たる気分に打ちのめされる、感激する、そんなことの繰り返しなのである。
 感激する…。
 そう、感激することの何と多いことか。
 自負心はあっても、齢を重ねれば、己という人間の世間での位置付けなどどれほどのものか知り抜いている。
 こんな自分に優しくされた、それこそ一言、声を掛けてくれた、腰を屈めるのが億劫な身にはそこにあるビンか紙を拾ってくれた、春になり蕾だったのが今朝になったら咲いていた、庭に出たら丁度目の前に小鳥が居た、そんな日々の些細なことの全てが感動・感激の種なのだ。
(今年も庭の梅の開花を見た、さて来年はどうだろう…なんてことは考えない。一年後なんて巨大な砂漠を歩いて渡るより難儀なこと、計り知れないこと、そう未だ不在の先のことは封印しつつ、今を一歩一歩なのだ。)
 青春が心の振幅で計るものならば、老いてますます青春なのである。
 すくなくとも、達観した心とか悟りなんてものとは無縁の小生からすると、街中でチラッとでも見かける老人方を見てもそんなふうに感じたりする。

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← 裏の小さな畑でも。

 父母は茶の間に居る時間より寝所で寝たり横になっている時間のほうがずっと長い。
 寝床でよこになってラジオを聴いたりテレビを観たり本を読んだりと、必ずしも寝てばかりというわけではない、らしいが。

 動作もついつい父母のペースに引きずられてしまうが、生活空間の事情が小生の動きを緩慢な方向に引きずっていく。

 風呂場や洗濯の部屋は父母の寝室の隣にある。
 よって、入浴(実際はシャワーだが)も洗濯も父母が寝室にいない時間帯を狙わなくてはならない。
 つまり、シャワーも洗濯もかなり窮屈な時間の中で隙(?)を縫うようにしてやるしかない。
(洗濯に付いては、もう少し細かく書くべきことが少なからずあるので、折を見て、稿を改めていつか書くかもしれない。)
 しかも、風呂場そして脱衣所を兼ねた洗濯の場は、茶の間の隣でもある。
 父母が寝室に居ない間は、父母は茶の間で過ごす。

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→ 隣の家の庭先の柿の木(?)の枝に三羽の小鳥。晩秋、葉の散ったあとのこの柿の木を茶の間から眺めるのが好きだった。昔は我が家の地所だったのだ。

 洗濯(風呂)の部屋へのドアは茶の間の炬燵に陣取る父母のどちらかの背中を通るか、体を跨いでいくしかない。
 洗濯(風呂)するからって、起き上がるのも億劫そうな父母に向って、どいてとも言いづらい。
 といっても、父母が茶の間に居る時間帯しかシャワーも洗濯も出来ない以上、どいてもらって、風呂場へ行き来するしかないし、そうしているのではあるが。

 とにかく、家の中ではゆっくり動く。父母は音に(も)敏感なので、寝室の(風呂場とは反対側の)隣にあるトイレにいくにも、抜き足差し足忍び足である。
 何だか自分まで一足飛びに米寿を迎えたような動作を余儀なくされるのだ。

 それでも、寝床に就いて部屋の明かりを消すと、先のことがあれこれ思われてきて、暗澹たる気持ちになる。
 今のうちなのだと思う。
 放蕩息子の帰郷なのだ。18で他所の地で一人暮らししてきて、今、36年の空白を埋めているのである。
 今の日々を送れる自分は運がいい。
 今のうちなのだと言い聞かせて、抜き足差し足忍び足の日々を大切にしていきたいと思う。

 …この反動なのか、一歩外に出ると、時間的な余裕もないこともあって、自分には未だ余力があることを確かめるかのように、自転車のペダルを漕ぐ足もやや忙しなくなるのが自分でもおかしかったりする。

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← 夜の小鳥? 昨年の9月、サンバパレードで見かけた…。二度と見ることは叶わない。

 …って、肝心のバードウォッチングの話が書けなくなった。
 要は、家の庭や近くの畑にもいろんな種類の鳥がやってくる、という他愛もない話である。
 カラスやスズメはともかく名前の分からない小鳥たちがしばしばやってきて、囀ってくれることに驚いている。
 先日は父が言うには、茶の間でウグイスの鳴くのを聴いたとか。

 我が家でバードウォッチングができるとは思っても見なかった。
 それが分かってからは、デジカメを茶の間に常備。
 居間から庭の様子を窺う。
 居た!
 が、ズームが最大3倍のカメラでは、うまく撮れるはずもない。
 静かに息を殺して外に出る。
 抜き足差し足忍び足。
 近寄る……。
 サッと飛び去る小鳥!
 クソッ!
 この繰り返しである。

 小鳥たちを撮るにも抜き足差し足忍び足なのだ。

[こんな日記(下書き)を書き終え、食事を済ませたら、姪っ子から電話。姪っ子の息子、我が父母からすると孫息子が卒園したとかで、晴れの姿をおじいちゃん、おばあちゃんに見てもらいたいと、姪っ子の娘も連れて車で駆けつけるという。
 賑やかなひと時を過ごしたが、なんと、その卒園した姪っ子の息子、幼稚園の守衛(?)のおじさんにバードコーリング(鳥を呼ぶ道具)なる鳴りモノを卒園のお祝いにと貰ったとか。
 部屋で小生がプレゼントしたクレヨンでひとしきりお絵描きで遊んだあと、その子と小生は外で早速、バードコーリングを鳴らしてみた。
 さすがに人影のあるところには小鳥は来ない。
 でも、小生の顔を見ながらその子が云うには、いい人のところには来るんでしょ、悪い人のところには来ないんだよねって ? !]

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コメント

私、話すテンポが遅い、と言われます。
そのせいか、自分でも喋っている間に、「どうしてこの話を始めたのか?」分からなくなってしまうことが度々です・・・

やいっちさんのお庭には、色んな鳥が来てくれて良いですね。
我が家の庭やベランダに冬の間、来てくれていた野鳥も、今は山に帰ってしまって、寂しい限りです。

投稿: 雫 | 2008/03/23 19:58

雫さん

>私、話すテンポが遅い、と言われます。

小生には遅さでは敵わないはず。
小生の場合、発音がなってないんだけど。

>やいっちさんのお庭には、色んな鳥が来てくれて良いですね。

小鳥さんたちがきてくれるのは嬉しいんだけど、名前が一向に分からないのがなさけない。
わたし、ユキちゃんですとか花子ですとか自己紹介してくれないものかなー。
無理か。

投稿: やいっち | 2008/03/23 22:40

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