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2008/03/10

弥一は柴刈りに

 御伽噺(説話)「桃太郎」は、以下のような話から始まっている。
 昔々ある所に、おじいさんとおばあさんがいた。じいさんは山へ芝刈りに、ばあさんは川へ洗濯に出た。ある日ばあさんは川で洗濯をしていると、上流から大きな桃が流れてきた。ばあさんはその桃を取り上げ、家へ持って帰って食べようとすると、中から男の子が飛び出した…。

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← 刈った柴。薪にはならず…。

 この話の周辺を巡っての与太話は、拙稿「桃から生まれた豊かな世界」などで書いていることもあるし、ここでは道草しない。

「じいさんは山へ芝刈りに」の「芝刈り」にちょっとこだわってみたいのだ。

 ネット検索で「芝刈り」をキーワードにすると、ある意味当然のことだが、「芝生」の「芝」を刈るという話が引っ掛かってくる。

芝刈り」ではなく、「柴刈り」と表記すべきだったのだ。
 小生が迂闊だった。

 芥川龍之介には、「桃太郎」と題された小品がある。
 御伽噺の「桃太郎」を芥川龍之介らしく捻った作品で、「芥川龍之介 桃太郎 青空文庫」で読める。
 短い作品なので、通読するだけなら数分ほどもあれば十分だろう。

 芥川龍之介の「桃太郎」では、「柴刈り」と表記されている…さすがに芥川龍之介は凄いなって、そういう話をしたいわけではない。

 辞書的には、「柴」と「芝」のそれぞれの意味合いはどうなのか、確かめておいたほうが先々のためにも良さそうだ。
「柴」は(「大辞林 第二版」によると)、「山野に自生する小さい雑木。また、薪や垣にするためにその枝を刈り取ったもの。そだ。しばき」であり、「芝」は、「イネ科の多年草、シバ・コウライシバ・オニシバ・イトシバなどの総称。芝草」乃至は「日当たりのよい地に自生し、また芝生とされる。茎は地上をはい、よく分枝し節ごとにひげ根を出す」なのだとか。
 ふむ。やはり「芝」と「柴」は違う。

 芥川龍之介の「桃太郎」では、冒頭、以下のように書いてある:

 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。

  さてこんな話を持ち出したのは、じつは昨日、「柴刈り」をしたからである。

 といっても、何処かの山へ柴刈りに行ったのではなく、うちの小さな庭の片隅に立っている二本の木の枝を刈ったのだった。

 雪が降る心配ももうなさそうだし、庭の雪吊り・雪囲いもそろそろ取り外す頃となっている。
 とは言っても、未だ三月の中旬にもなっていない。四月になってさえ、季節はずれの降雪がないとは言えない。
 その意味で幾ら温暖化が懸念される昨今だとは言え、雪吊り・雪囲いを取っ払うのはやはり気が早すぎる。

 それは重々承知の上での柴刈りだったのだ。
 というのも、その木は、もう相当に古い木だし、節々で相当に折れ曲がっている。雪吊り・雪囲いが雪の重みで崩れたこともあり、二本の木の枝や蔓が絡み合い縺れ合っていて、その凭れ合いで辛うじて立っている、そんな風にさえ見えたりする。

 二本の木からは、縦横に枝分かれし、雪で折れたところからさえ、傷口を癒すも何もドンドン枝が伸びるし、幹の思いがけないところから鞭というか鶴の様な枝までもが勝手に伸びる。
 体の不調もあって、ちょっと目を離した隙に二本の木の枝枝が雁字搦めになり、こうなったらもう手に負えないから、いっそのこと根っ子から切り倒してしまおうか、そんな気にさえさせてしまう。
 引越し荷物の整理が終わったわけではないが、開梱作業の峠は越えたし、とりあえずアルバイトの形だが仕事にもありつき、二日ばかり出勤して、続けられそうな気になって、ちょっとホッとしたこともあり、日曜日の午後、馴れない庭仕事の真似事をしてみたのである。

 上記したように、たった二本の、せいぜい2メートルほどの木なのだが(但し、ひねくれないですくすく伸びていれば、背丈はもっと高くなっていたはずである)、雪の重みにうちしがれ、吾がまま勝手に枝分かれした直径数センチほどのものから数ミリほどの枝が絡み合っているものだから、見てくれは不恰好そのもの。
 けれど、太目の幹と、あとはほんの数本の枝だけを残して、他の枝をバッサリ断ち切ってしまえば、まだまだ元気に育つように思えた。
 となるとあとは弥一流で、ノコギリやペンチなどを使ってバッサバッサと刈り、折り、捻り取りなどと、一心不乱に柴刈りしたのだった。

 一センチにも満たない枝をペンチで捻るようにして切ると、いかにも生木で育つ余力が有り余っていることを見せ付けるかのような、青白い繊維が剥き出しになる。
 また太いにも関わらず、そろそろ枯れかかっている枝も何本もあって、そうした枝は、ノコギリなど使わず、力尽くで折ってみる。
 ポキッというよりパキッという乾いた音が梅の綻び始めた、晴れて乾いた空気に響く。
 このパキッという音で、小生は柴刈りを連想してしまったのである。
 遠い昔、枯れ枝や下草の道なき道をあるいた、何処か懐かしい感覚さえ思い出されてくる。

 同時に、雪が降ろうが雪吊り・雪囲いで真っ直ぐに伸びることを妨げられようが、二本の木から無闇に伸びる枝同士が互いに成長を邪魔し合おうが、そんなことなど頓着することなく、自らの身を、あるいは相手が弱ければ障害となった枝を捻じ曲げてでも、とにかく伸びる余地、透き間さえあれば枝の先をズンズン伸ばし続ける、木という植物の生命力に圧倒されていた。
 芥川龍之介ならずとも、御伽噺の桃の木を何処までも深く広く根の張る木と想像したくなろうというもの。

 作業を終えて二本の木々を見ると、存在感はまるでなくなってしまった。指で指し示されたら、二本のほとんど幹だけになったかのような裸木にやっと気づくかもしれないほどに、サッパリというより、寂しいくらいに貧相な木が二本、ポツンポツンと立っているだけ。
 チラッとだけど、「久しぶりの床屋」じゃないけど、カットしすぎて淋しくなった自分の髪の具合を連想した。
 あるいはもしかして、自分の髪の毛がそうなったから、庭の木々に同じ目に遭わせた?!

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→ 今朝、刈り込んだ木のことが話題に出た。母が言うには、「キウイ」なのだとか。初めて知った…はずはない。切るように父に言われた時、「キウイ」だと云われていたはずなのだ…が。
 二本、立っているのが画像からも分かると思う。
 それもそのはず、「オス」と「メス」の番(つが)いになっていて、枝が伸びてきてオスとメスの木の枝が絡み合って実が成るのだとか。
キウイ」の実は年の瀬には成るが、捥いですぐに食べられない。リンゴの実一個と一緒に箱に入れ、一週間ほど熟す(柔らかくなる)のを待たないといけないのだとも、母が。
 これまでは、庭木の世話を母がやっていたのだ。
 「キウイの木の寿命は25年位」だという。我が家のキウイの余命はどれほどあるのだろう。

 小生が郷里を離れた18歳の頃には未だ家の裏庭にはドラム缶があってゴミはその中で燃やしていた。
 そのドラム缶は、ゴミを燃やすのに使われる前は、風呂として使われていたという記憶が小生にはあるのだが、身内の誰もが、そんな記憶はないと言う。
 そのあたりの真偽はともかく、風呂でも枯れ木を燃やしたし、竈があったし、炬燵は炭だったし、田圃か畑の隅っこでは、焚き火というわけではないが、不用になった雑木や竹などを燃やしていて、要するに刈った木は、つまりは柴であった…、そう立派な薪(まき)だったのだ。

 そんな日々から幾星霜。
 燃やせば立派な薪になるはずの柴も、今日においてはただのゴミになる定めにある。

 夢の島のような、ゴミの処分場では焼却処分が待っている。

 要するに所詮は燃やされてしまう。
 けれど、メラメラと燃える焔を目に焼きつけ、煙となって高い空へと舞い上がり消えていく、そんな末路、そんな末期を 木の持主、土地の主に看取られるようなこと、それだけはありえない。

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コメント

日常の一断面を綴る弥一氏のこういう随筆、
いいですね。

ところで芥川龍之介の「桃太郎」、
初めて読みましたが、面白い話ですね。
芥川らしい機知と皮肉と思わせぶりが効いていて、
愉しい読書体験でした。

投稿: 石清水ゲイリー | 2008/03/10 10:42

石清水ゲイリーさん

手練(てだれ)の書き手に読んでもらえるなんて光栄だし、書くのも張り合いが出ます。

クモの糸の話といい、「桃太郎」もさすがに芥川龍之介ですね。

ダブらせて書くと比較されそうで怖いけど、相手が芥川龍之介じゃ仕方ないね。

投稿: やいっち | 2008/03/10 14:41

慣れぬお仕事、ご苦労様です。
キウイは強いですね。ウソみたいに沢山実がなります。
主人が毎年、義母の家の木を剪定してます。
義母は植物が好きなのですが、庭木の剪定は力仕事ですからね~
もう暖かくなりますから、我が家も手入れをしなくっちゃ!

投稿: ちゃり | 2008/03/13 23:44

ちゃりさん

> 慣れぬお仕事、ご苦労様です。

ホント、なれない仕事。それに思った以上に力仕事でした。
多分、余計なところに力が入ってたってこともあるのでしょうが。
翌日、翌々日は筋肉痛でした。

> キウイは強いですね。

小生、どの程度まで枝を刈り込んでいいのか分からず、勢い余ってやり過ぎかなというほど切ったのですが、年末には実が成るのだとか。
キウイは強い!

分からないなりにも庭木の剪定は小生がやらなくちゃいけない。


それはともかく、庭にある二本の棕櫚の木は邪魔だから根元から切ってしまえばいいって父が言ったのには驚いた。
もう役に立たないからって。
確かに昔は棕櫚の木の樹皮はシュロなわとして使っていたけど、それもずっと以前の話ではある。
でも、あの二本の棕櫚の木は存在感があって好きなんだけど。
勿体無いって思う。
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2007/04/post_c4fb.html


> もう暖かくなりますから、我が家も手入れをしなくっちゃ!

そう! まずは草むしりから!

投稿: やいっち | 2008/03/14 03:10

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