祈りでもなく
無難ながら、それなりの歳月を生きて、若い頃とは違う意味で肉体を感じ、自然を感じ、世界を感じる。物質とは、究極の心なのだと今は考えている。別に根拠はない。直感的なものに過ぎない。
心というものがあって、肉体にも物質にも経済にも制度にも世界の終わりにも関わらず永遠に存在する……。それは魂という呼び方しか出来ない何ものか……。
そんな風に思った時期もある。そう思いたかったのだろう。
この世への、あるいはあの世への憧れ。満たされない魂。叶えられない夢。果たされない願望。理解されない望み。誤解と曲解と無理解の泥沼。無慙にも奪われた命。生まれいずることもないままに闇から闇へ消え行った命。芽吹いたその日から岩の下で呻吟するだけの命。どうしてこの世はこうであって、このようではない風ではありえないのか。理不尽極まるじゃないか。
だからこそ、心とか、魂とか、情念とか、怨念とか、幽霊とか、とにかくこの世ならぬ存在を希(こいねが)う。永遠の命。永遠の魂。穢れなき心。
そうした万感の思いにも関わらず、今は、心とは物質だと思っている。物質とは究極の心なのだと思っている。物質がエネルギーの塊であるように、物質は心の凝縮された結晶なのだと思っているのである。
結局のところ、あるのは、この世界なのであり、それ以外の世界はないのだという、確信なのだ。
あるのは、この腕、この顔、この髪、この足、この頭、この今、腹這う場所、この煮え切らない、燻って出口を見出せない情熱、理解されない、あるいは理解されすぎている自分の立場、そうした一切こそがこの世界なのであり、自分の世界なのだという自覚なのだ。
穢れなき…。
しかし、穢れとは何か、自分が気に食わない何かが自分を歪めているという思い込みに過ぎない。
が、気に食う食わないなどに関係なく、自分は自分の望むような人間ではありえないのだ。
仮に一瞬でも、何か完璧な瞬間があったとしても、それは束の間の夢か幻だ。決して持続しない。
万が一、至上の時が数瞬でも続いたとしたら、心が何も望まなくなった時であり、肉体が新陳代謝を止めた時であり、つまりはそれは死の時以外の何ものでもないのだ。
地を歩き回る蟻も地の中のミミズも、風にそよぐ木の幹も、風に舞う木の葉も、舞い上がる埃も、降る雨も、軒を伝う雫も、水を跳ねて行き過ぎる車も、皹の入ったブロック塀も、根腐れしている垣根も、明かりの洩れる窓辺も、急ぎ足の人も、心を病む人も、その一切がこの世の風景であり、そしてこの世の風景以外には、何もないのだ。宇宙に心を遊ばせても、その心はこの世に粘りついている。この世の森羅万象に絡め取られている。
恐らくは、それでいいのだと思う。
→ 福永 武彦 著『今昔物語』 (【解説: 池上洵一 】 ちくま文庫 筑摩書房) 東京を離れるので、長く利用させてもらってきた図書館に本やCDを返却してきた。もう、あの馴染みの図書館を利用することはない。本はすべて処分したか梱包を済ませて、手元には一冊もない。残り少ない東京での日々や帰郷の列車内で何か読もうと久しぶりに書店へ。分厚い、面白いが夢中になって一気に読了する怖れのない本を物色していたら、本書に手が伸びた。『今昔物語』なる古典を福永 武彦が訳してくれていて、150編ほどの短編集といった体裁になっている。これなら申し分ない。『今昔物語』は、いつかは原典で読み通したいと思いつつも、そのあまりの浩瀚さぶりに躊躇われてきた。まずは福永 武彦の手で『今昔物語』の混沌なる世界に導いていってもらおう。
さて、肝腎の物質的恍惚の意味合いに触れることはできなかった。きっと、いつまで経っても触れることはできないのかもしれない。
何故なら、自分が、自分こそがその只中にいるのだから。どんな世界へ旅立とうが、そこには自分がいるのだから。物質という凝縮された意識の只中にいて、懸命に泳いでいる最中なのだから。
自分が何も見えないのは、とんでもなく場違いな何かを求めているからなのだろう。
今、目にしているその半端で曖昧な闇こそが、自分の見える全てであり、それ以外は本当は、いつまで経っても見えるはずがない、何故なら、見えるところの全てが在るところの全てに他ならないのだから。
(「物質的恍惚」より)
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