梁 石日著『タクシー狂躁曲』未満
梁 石日(ヤン・ソギル)著の『タクシー狂躁曲』 (ちくま文庫 )を今頃になって読んだ。
今頃とは、小生、これでもタクシードライバーの端くれだったのである。
→ 梁 石日(ヤン・ソギル)著の『タクシー狂躁曲』 (ちくま文庫 )
ドライバーになろうと思ったのが95年の三月末、実際に走り始めたのは95年の9月になって。
以来、昨年末に退社するまでタクシードライバーだった。
12年3ヶ月。
タクシードライバーとしては、96年の春先だったか初夏だったか覚えていないのだが、進路変更違反で失点した以外は、大過なく過ごした。
まあ、至極、無難な、平穏無事なドライバーだったと言えよう(少なくとも数字や経歴の上では)。
ゆえあって一時、中断しているが、事情が許せば続けるつもりでいる。
タクシードライバーになりたての頃は、タクシー関連の本を片っ端から読んだ。
といっても、そんなに数があるわけもなく、めぼしいものを読破するのにそんなに歳月を要しない。
正直、読んでいて、うんざりした。あまりに退屈か、そうでなかったらあまりに荒唐無稽で現実離れしている。
タクシードライバーの経験がない者が書いたタクシーの本は、実感がないのは仕方がないとしても、内実をあまりに知らなさ過ぎて呆れてしまう。
高速道路を二百キロ近くで走行したとか何とか(でも、あとで振り返ってみると、案外と荒唐無稽でなかったりするから、現実は恐ろしい! 事実は小説より奇なりをつくづくと思い知らされることになる…、あるいは自らが関わっていることで…。まあ、その辺りは追々書く機会があるだろう)。
まあ、警察関係者やタクシーの関連当局が書いた本は数字や統計を知る上では参考になる。
(ところで、土曜ワイド劇場『タクシードライバーの推理日誌』(原作は『夜明日出夫の事件簿』)の原作者である笹沢左保はタクシードライバーの経験があるのだろうか。多分、ないよね。タクシーの描き方にはリアリティがないし。尤も、思えば、小生、原作を読んでないんだった!)
でも、小生のようなごく平凡な、とてもじゃないけど、ドラマチックな小説のネタには到底なりそうもない者には、大概のタクシー(ドライバー)関連の書籍は(統計や法律や実務的な実用性は別にして)、運転手の日常の実感はまるで描かれていないと思って、ああ、本の世界でもタクシーって、この程度なんだと思った。
タクシードライバーは、規制緩和を果たした時の某大臣が偉そうに自慢げに語っていたが、タクシー業界への参入規制が緩和されたことで、競争が激化し、運賃(料金)が下がったし、サービスも向上したし、何より、不況で失業した人たちの受け皿になり、規制緩和の成果は素晴らしい…云々。
なるほど、タクシードライバーを実際にやったことのない人(しかも、当局のトップ)のタクシー業界やドライバーへの認識なんて、こんなものかと思った。
免許さえ取得したら、中高年でもすぐに働ける。
失業した人たちの恰好の受け皿。
実際になってみたら、その厳しさに音を上げる人が如何に多いか、体を壊す人、事故で業界を去る人が如何に多いか、限られたパイを増大するドライバーで奪い合うんだから、過酷な労働環境でリタイヤを余儀なくされる現実があるのだが、そんなことなど、大臣には、あるいは規制緩和至上主義者にはどうでもいいことなのだろう。
小生だって、タクシー業界が受け皿になってくれていたからこそ、何の能力も資格も(二種免許は別にしてだが)ない自分が何とか食いつなぐことができたのだ。
← 梁石日/〔著〕『タクシードライバー 一匹狼の歌』(幻冬舎アウトロー文庫)
なってみて、二年で失業時代に膨らんだ借金を一気に返却できたという事実もある。
一方、二年で体を壊し、恐らくは疲労でだろうが、黄疸で倒れ、あまりの症状のひどさに、目の前にある電話にさえ、手が届かず、救急車を呼ぶことさえ、できずに部屋の中で一晩、ぶっ倒れて過ごし、翌朝、辛うじて意識もあり、体も何とか動くので、ヨロヨロしながら、病院へ向う羽目になったものだ。
借金を返却するツケは大きかった。
とてつもなく大きかった。
幸か不幸か、97年8月には不況が日本を見舞った。
H元首相が、当時の大蔵省の財政再建を至上の急務ということで、97年の4月に減税を止め、消費税を上げて、その影響が経済に現れたのが97年の8月だったのだ。
タクシーの売り上げが、8月になると途端に急減し、98年の1月には前年比で半減してしまった。
ようやく上向いてきた日本経済だったのに、増税路線に突っ走った結果、風船に穴を開けてしまったように、日本の経済の息の根が止められてしまったのである。
急減速。急降下。
路上には空車のタクシーが延々と並ぶようになった。最悪だった98年など、夜半を過ぎると空車のタクシー以外は走っていないんじゃないかと思えるほどに、路上に一般車の影が乏しくなっていた。
火(灯)の消えたような都会、まして郊外はまさに灯が消えていた。
まま、この辺りの余談も別の機会に書くことがあるだろう。
話を元に戻すと、タクシードライバーになった当初は物珍しさもあるし、勉強もあるから、読書が嫌いじゃない小生は、上記したように片っ端からタクシー関連の書籍を読み漁ったが、どれも実務的過ぎるか、そうでなかったら、現実離れし過ぎているように思えて、そのうち、うんざりした。
まあ、あまり関連する本もなかった。
それなのに、冒頭に掲げた梁 石日(ヤン・ソギル)著の『タクシー狂躁曲』を何故、読まなかったのだろうか。
→ 梁石日/著『タクシードライバー日誌』(ちくま文庫)
いろいろ思い返してみると、存在には気づいていたようだ。
が、『タクシー狂躁曲』は、映画『月はどっちに出ている』の原作である。
どうやら、この辺りがネックだったようだ。
小生には小説は小説、映画は映画という分け隔てがある。
それそれに好きだが、原作があって、それを映画化ものは見ない(見たくない)。逆も同様という頑固さ、頑迷さがある。
なに、映画『月はどっちに出ている』には原作がある。
読むの、やーめた。である。
映画になるような小説って、何処か敬遠する(まあ、これは小生の性癖に過ぎないのだろう)。
で、とうとう、梁 石日の本というと、『血と骨』が最初になってしまった。
これは感心した。矛盾しているが、確か、映画化されていることで、その小説の存在を知ったはずである。
『血と骨』に感心したが、逆にまた、この小説の血腥さと迫力とで、もう、梁 石日は十分だと思うようになった。
この本を読んだ時に、一気にその流れで『タクシー狂躁曲』辺りを読んでもいいはずなのに。『血と骨』で、ある意味、満腹感を覚えたということもある。
別に彼の世界を理解したなどと生意気なことを言うつもりはないが、こうした自らの出自さえ敢えて厳しく描く姿勢があるのだとしても、在日韓国・朝鮮人の問題と絡めてタクシー業界を、タクシーの仕事を描かれるのには抵抗があった。
そもそも、タクシードライバーの社会的地位(評価)は低い。大臣が平気で首になった中高年労働者の受け皿になりますと自慢げに記者会見し、その発言の中味の如何に不穏当なものなのかについて、マスコミをはじめ、世間がまるで鈍感なことに、世間の評価が如実に現れている。
(タクシー業務の過酷さは、当事者でないと語りえない(表現しきれない)部分があるのではと思う。よってその大変さを知る媒体が本を含めてない。結果として無理解の実状が変わる余地もない。が、これも、小生の手に余るので、今はこの話題に踏み込まない。)
タクシーへの評価の低さには、あの業界は、韓国(朝鮮)出身者が多いという暗黙の常識(偏見?)が預かって大きいように思う。
← 梁 石日著『タクシー狂躁曲』の単行本の表紙画像?
小生はそんなことには無知なままにドライバーになったのだが、ドライバーをやっていて、お客さんにその手の話を散々聞かされたものである。
人間の質がワンランク下、乃至は、どっちにしても普通の日本人とは異質な世界の人間が携わる仕事、というイメージが、主に自分は真っ当な日本人だと思っている人によって世間に、あるいは運転手に吹き込まれたり、業界に擦り付けられたりする。
実際に会社の創業者に韓国系の人が多いらしい。この辺りの統計は、さすがに日本の当局も明らかにしていない(その代わり、役人や一流企業の人たちには常識として根付いているらしい)。
そういうこともあって、小生は、敢えて、梁 石日の書くタクシーものは敬遠してきた気味がある。
この辺りは自己分析であり、曖昧なところもある。
在日朝鮮人関連の本は学生時代に読んで、こうした問題を掘り下げると、日本の恥部に必ず突き当たることは目に見えていることを知っているので、もう、面倒で億劫だという理由にならない理由もありそうだ。
今の時代は分からないが、ほんの少し、綺麗を装った衣を剥ぐと、日本の多くの人には韓国、というより朝鮮人への偏見がすぐに現れ出てくる。
日本人や天皇の出自やルーツの問題も絡むから、微妙なのである。
別に梁 石日が彼なりの血と骨で掘り下げ描き切るのは構わない。本を読むと圧倒的な筆力を感じる。単なるテーマではなく、血と骨に深く関わる、書く上での熱源なのだということも分かる。
そういう問題も大事だが、それだとタクシーの実務を、日常を探求し表現する上で、最初から民族問題に関わることになり、タクシー業務が、そうした問題に関わりがなくても、現実に命と神経とを擦り減らす仕事なのだということにまで至らないで、印象の上では違った迷路に分け入って出て来れなくなりそうに思う。
梁 石日は、そうしたテーマを追えばいい。
小生は、そうした厄介な問題がなくても、ごく平均的なタクシードライバーの営業であってさえも、時に過酷な現実を背負う実状を、日常の目線で捉えてみたいと思うのだ。
さて、肝心の本書への感想を書いていない。
本書は、81年には単行本で刊行されていたようだ。
雑誌に連作の形で発表されていたようだが、凡そ文芸雑誌の類いは全く読まない小生、梁 石日に限らず誰の文章も月刊の文芸誌の形では読んでいない。
(ちなみに、『文芸展望』や『同時代批評』などに掲載されていた。「ドライヴィング・ヤンソギル・ワールド 1997.10 幻冬舎文庫 解説」参照。)
→ 映画『タクシードライバー 1976・米』 (画像は、「タクシードライバー」より) ロバート・デ・ニーロが大のファンの小生、この映画は観た。
彼のタクシーでの営業のエリアが東京で、多くの地名や繁華街が小生には馴染みである。
小生は港区を中心に営業したが、最初の数ヶ月は自宅のある区で、営業に馴れた段階で、以前、住み暮らしていた新宿界隈で、そこに飽きたので(あるいは、やっちゃんやヨッパにうんざりして)、ついで以前、サラリーマンしていた時代に会社があったこともあり、港区中心に営業してきた。
港区の中でも麻布界隈から、赤坂、六本木や西麻布、青山と拠点を移し、やがて渋谷駅周辺を根城にするようになったこともある。
が、体を壊してからは、家庭の事情もあり個人タクシーを志向したこともあり、営業違反・交通違反を犯さないよう、守りの営業に徹し、港区の中でもお客さんのあまり居ない場所を選んで、細々と営業したものだ(この辺りも、いつか書く)。
いずれにしても、本書に登場する地名や走行するルートが手に取るように分かって、この辺りはタクシードライバーの経験者(特に東京都心を営業の中心とするもの)でないと分からない、読む醍醐味を堪能できたものと思う。
ただ、時代が違う。荒くれが当たり前の時代とはあまりに違う。
タクシーの規制緩和と同時に、社会的規制(労働規則の厳守、マナー重視などなど)が重視され、営業時間も厳守ならルールとマナーが厳しく問われる時代で、営業スタイルも自ずと基本的に違う。
それでも、競争と規則ギリギリの営業に変わりはない。
今の時代に即したドラマもありえるのだろう。
がごく日常にこそ、タクシー業務の醍醐味があるものと思う。踵を接する戦いが今も繰り広げられていることに変わりはないはずなのである。むしろ、社会的規制の強まった中での営業の厳しさは破滅型の時代の営業とは違う(そもそもそうした連中は締め出されてしまうから)ドラマのないドラマの形でドライバーはひしひしと感じているのではなかろうか。
[関連する拙稿に、「ディアスポラ…書くことが生きる場所」がある。「徐氏は、在日朝鮮人でハンセン病を負った金夏日氏の歌を紹介している」という話題なども参照されている。]
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