その人の名はマタ・ハリ
それは衝撃的な出会いだった。
実際には、そして結局は擦れ違いに終わったのだとしても。
サンバダンサーのダンスをこの数年見てきた。
多くは打楽器の演奏とボォーカルとの饗宴だった。
書くことでの自己表現を細々ながら続けてきた小生だが、自己の身体のみを使ってのパフォーマンスは嫌いではない。
今は体が鈍ってしまって自分で試みることがやや億劫になっているだけであって、自分であれこれ出来なくなると、逆に身体表現への憧れが増すようである。
身体を使ってのパフォーマンスといってもいろいろあるが女性の身体美ということでサンバに始まりベリーに到ったというわけである。
何かを思う、何かを言いたい、何かを伝えたい、何かを表現したい、自己表現を通じて人に喜んでもらいたい。
肉体を使っての感覚的快感や満足感を追い求めるなら、それはそれでいいし、ある意味それだけでも充足するあり方に終わっても十分でありうる。
しかしそれだけでは飽き足らないと思うような人も居る。
日常は日常で楽しみを追い求めるとして、もっともっと十全なるものを追い求めたくなる人が居るのだ。
ダンスすることがひたすらに快楽であり、踊っている最中にこそ自己と世界との一体感を覚える人。
さらに貪欲ならば己を見る人の前でこそ燃える人。
見る人の目に見聞きして楽しんでいる、現に今、この自分を見て夢を見ている、見ている人と踊りを見られている人とが一体感をさえ覚えている、そのことにこそ無上の快感を得られる、そんな人。
自分のパフォーマンスで人を楽しませることが出来るなんて!
物書きでさえない雑文書きの小生だけれど、これでも殊勝にも自分の書き物で読む人がほんの一瞬でもほんの少しでも楽しんでもらえたらと思わないではない。
ただ、能が足りないのが残念である。
物書きとして自立できないのは、弁解というわけではないが、自分の力不足をも駄文の中で書き散らしてしまうってことも一因としてあると自覚している。
書くエンターティナー足りえないし、自己の世界を孤独に耐えて徹底し得ないのである。
言葉を駆使すべきところを、つい、説明し弁解し、あまつさえ正当化さえ試みてしまう。
逃げることばかりを考えすぎるのかもしれない。
人前でパフォーマンスする。
そこには失敗はゆるされない厳しさがある。ミスは即、落第か退場の宣告を意味する。
プロの厳しさである。
観客を呼べないし来てもただ黙って去っていくだけだろう。
その厳しさに耐えてまでプロとしてショーに出る。
踊ることが好きだから、なのだろうとしか言いようがない。
が、自分には衝撃的な出会いだった(相手にとっては多くの観客の一人に過ぎなかっただろうけど)ベリーダンサーには、踊ることが楽しい、だから頑張って練習するし工夫もする、ということ以上の何かを直感した。
ベリーダンスが自分には未だ目新しかったからではなかった。
少しはらしき踊りを見たことがあったし。
僭越ながら、そして失礼になることのないことを祈りながら、誤解を怖れず書くと、何か同質のもの、同類の何かを嗅ぎ取ったような気がしたのだ。
それは肉体的接触への渇望の衝動と共に現実的接触への恐怖乃至忌避の念。
小生の場合は、物心付いた時には既に自分ではどうしようのない醜貌恐怖の念が骨の髄まで沁み込んでいた。自分にとって世界は、つまりは世間の人々は透明な分厚い板の向こう側なのだった。
無論、実際には自分のほうこそが蓑か殻の中に閉じ篭っている状態だったわけだが。
この辺りは他でも書いたのでここでは贅言を避ける。
ただ、そうであっても、殻のなかで心が平安であったはずもなく、実際には間近なのに精神的には遥かに遠い人々との何気ない交わり、交流を欲する気持ちがあった。声を掛け、お喋りすることを渇望していた。
なのに、醜貌恐怖の念と言語障害とが自分と世界とに架橋することをゆるさないのだった。
誤解されると拙いので大急ぎで書き添えておくが、衝撃的な出会いだったその人は美しい人である。
小生はその人のことは知る由もないが、知的にも優れていると仄聞する。
綺麗で頭がいいとなったら、小生に限らず雲上人である。
「何か同質のもの、同類の何かを嗅ぎ取ったような気がしたのだ」といっても、頭脳の面でもなければ顔を含めた肉体的美しさの面でもないのである。
こうした点では比べること自体、失礼に当たる。
小生には全くの謎なのだが、何が原因なのか(実際には、むしろ、小生の全くの誤解乃至単なる勝手な思いいれなのだろう)、そのダンサーには、小生とは全く違った何かに起因してなのだろう、「肉体的接触への渇望の衝動と共に現実的接触への恐怖乃至忌避の念」を嗅ぎ取ったような気がしたのである。
まあ、彼女には失礼な話、迷惑千万な話であろうこと間違いない。
→ 「マタ・ハリ」 (画像は、「マタ・ハリ - Wikipedia」より)
さて、本題はここから始まる。
世界に触れたい、世界と触れ合いたい。
その世界とは一体、何だろう。
分からない。
真実? 快楽? 美? 善? 悟り? 禅? 愛? 無?
日常においてはともかく、小生なら書く過程で、特に虚構作品を作るモードになった時は、ある種のハイな感覚の世界に没入する。
というより、滅多に遭遇することのないその瞬間に出会うためにこそ、日々辛気臭い作業に興じているとさえ言える。
かのダンサーの踊りを見ていたとき、「肉体的接触への渇望の衝動と共に現実的接触への恐怖乃至忌避の念」といった後ろ向きの念ではなく、他の手段では永遠に触れ得ない、実現できない、まして言葉にはなりえない、そうした何かへの希求の思いがそのままに形となっているように思えたのだ。
恐らくは最初に彼女の踊りを見た瞬間、そんなことを直感したのではなかったか。
マタ・ハリという名の世界で最も有名な女スパイがいた。娼婦でありダンサーだった。
二重スパイだったとも言われている。
本当に凄いダンサーというのは、(素人だからこその無謀な言い方をすると)天上の世界と地上世界との二重スパイなのではないか。
舞うのは地上のフロアーに他ならないが、その肉体は地上の全ての人々との交歓、そして更に貪欲に天上の世界の鬼神をも酔わせ、あわよくば地上の世界に引き摺り下ろしてしまい、一緒に踊り狂わせて仕舞おうとする、そんな茶目っ気さえたっぷりな、そんなダンサーとの出会いだったのである。
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コメント
また遊びに来させて頂きます^^
投稿: ベリーダンス 大阪 | 2008/05/28 20:06
この記事にコメントがあったこと、今頃、気付いた。
…でも、商売系のコメントなのか。
ま、いいや。
久しぶりにこの文章、読めたし。
投稿: やいっち | 2009/01/09 02:36