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2008/02/29

ちょっとだけ東奔西走:続篇?

 昨日の記事で書いたように、26日の午後、東京から富山へ移動。この場合、東から西への移動になるのだろうか?
 NTTやJRだと、東京は東だし富山は西の縄張りになっている。
 文化や経済、地域間交流ということになると、同じ富山県でも富山市内をも流れる神通川近辺で東西に分かれたりして、結構輻輳していてすっぱりとは色分けできないところがある。
 なかなか微妙なのである(ここではこの辺りの話題には深入りしない「天神様信仰と梅の花」など参照)。

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→ 市街地を流れる川に架かる橋の欄干に寄り、北アルプスの山々を望む。川の水は、降雪で水量も多く濁りがち。

 地理的というか気象などを鑑みると、あくまで対比の上での話だが、やや南から北への移動と感じる人もいるやもしれない。
「トンネルを過ぎるとそこは雪国…」と叙されたりする関越の国境のトンネル。

 小生は特に冬など、トンネルの手前は寒く乾いた風が吹いているものの晴れ渡っていたものが、列車の窓に車内の光景が突然のように車外からの光の洪水に呑み込まれたと思った瞬間、それは陽光の濁流などではなく、一面の銀世界の眩い照り返しだった…、そんな経験を幾度してきたことか。

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2008/02/28

テラ・アマータ

 昨日26日の午前、最終的に部屋を引き払って明け渡し、昼前には、東京駅へ向い、正午12分の列車で富山へ。
 身には、パソコンと貴重品とを会社への自転車通勤の際に背負っていたデイバッグに詰め込んで。
 帰宅した夕方からは早速、家事を始める。

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← J.M.G.ル・クレジオ著『愛する大地 ~ テラ・アマータ』(豊崎 光一訳 新潮社)

 今日27日の午前には転入の手続きを済ませ、午後には25日に発送していた引越し荷物が届いた。ほとんどの荷物は納屋に当面、仮置きし、前の部屋で使ってきた机と椅子、ロッキングチェアーなどはこれから住み暮らすことになる部屋へ運び入れた。
 自分のための箪笥も棚もないので、荷物を納屋から出して整理しようにも、置き場所がない。
 なので下着を含めた衣類でさえ当分、荷解き出来ないのである。

 午後の4時頃には最低限、暮らせる体制にすることが出来たし、それ以上に引越しのための荷造りなどを含めると、十日以上に渡る連日の作業や事務手続きなどの心労の疲れがドッと出たし、取りあえずは段取りに頭を悩ませつつも、引越しを終えたことでホッとしたこともあり、部屋のど真ん中に鎮座しているロッキングチェアーに腰を深く沈めて瞑目…する間もなく睡魔に襲われた。

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2008/02/26

その人の名はマタ・ハリ

 それは衝撃的な出会いだった。
 実際には、そして結局は擦れ違いに終わったのだとしても。
 サンバダンサーのダンスをこの数年見てきた。
 多くは打楽器の演奏とボォーカルとの饗宴だった。
 書くことでの自己表現を細々ながら続けてきた小生だが、自己の身体のみを使ってのパフォーマンスは嫌いではない。

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 今は体が鈍ってしまって自分で試みることがやや億劫になっているだけであって、自分であれこれ出来なくなると、逆に身体表現への憧れが増すようである。
 身体を使ってのパフォーマンスといってもいろいろあるが女性の身体美ということでサンバに始まりベリーに到ったというわけである。
 何かを思う、何かを言いたい、何かを伝えたい、何かを表現したい、自己表現を通じて人に喜んでもらいたい。
 肉体を使っての感覚的快感や満足感を追い求めるなら、それはそれでいいし、ある意味それだけでも充足するあり方に終わっても十分でありうる。

 しかしそれだけでは飽き足らないと思うような人も居る。

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2008/02/24

祈りでもなく

 無難ながら、それなりの歳月を生きて、若い頃とは違う意味で肉体を感じ、自然を感じ、世界を感じる。物質とは、究極の心なのだと今は考えている。別に根拠はない。直感的なものに過ぎない。
 心というものがあって、肉体にも物質にも経済にも制度にも世界の終わりにも関わらず永遠に存在する……。それは魂という呼び方しか出来ない何ものか……。

Unga

 そんな風に思った時期もある。そう思いたかったのだろう。
 この世への、あるいはあの世への憧れ。満たされない魂。叶えられない夢。果たされない願望。理解されない望み。誤解と曲解と無理解の泥沼。無慙にも奪われた命。生まれいずることもないままに闇から闇へ消え行った命。芽吹いたその日から岩の下で呻吟するだけの命。どうしてこの世はこうであって、このようではない風ではありえないのか。理不尽極まるじゃないか。

 だからこそ、心とか、魂とか、情念とか、怨念とか、幽霊とか、とにかくこの世ならぬ存在を希(こいねが)う。永遠の命。永遠の魂。穢れなき心。


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2008/02/23

厄介な荷物?

[過日の日記(備忘録)より]

引越しのための荷造りやら片付けも、ようやく先が見えてきた。
なんたって過日、四囲の壁が見えたのに続き、今度は床が見えたのだ!

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→ とってもすっきりした部屋。梱包を終え業者に寄る運び出しを待つダンボールが山積みに。荷物がないと案外、我が部屋も思ったより広い。真ん中に鎮座するこのロッキングチェアー(二代目)で幾夜、夜明かししたことか。これと机だけは郷里へ送るつもり。奥の書棚は四半世紀使ってきて愛着があるのだが、この際に捨てる決心である。問題は、非力な小生一人で階下へ運べるかどうか。

日曜日から本格的に作業を開始して、あと残すところは生活必需品や貴重品、衣類など少々(←と思ったのは大間違いだったことが後で分かるのだが)。
これらは、引越し当日に片付けるしかないので、梱包するわけにはいかない。

こうなると連日の、小生には過ぎた肉体労働や神経の使いすぎ、そのために張り詰めていた緊張の糸もちょっと緩んで、疲労がどっと出てきてしまう。

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2008/02/21

第7回国際アビリンピック:誰にも秘められた能力がある

 年のせいなのか、どうも涙もろくなってきているような気がする。
 話をテレビ番組だけに限っておくが、「「フルスイング」にフルウルウル!」も「人間国宝3人が弥生の木器の復元に挑む」も番組を見ている最中に、涙ウルウル。
 何かの番組を見てウルウルするたびに記事にしていたのでは切りがないほどである。

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← 「第7回国際アビリンピック」 (7th International Abilympics Shizuoka, Japan November 13 - 18, 2007)

 それでも、特筆したくなるような番組を水曜日にまた観てしまった。
 ふつうなら観ていない時間帯なのだが、引越しの作業があるので、ついテレビをつけっ放しにしてしまう。
 そのうち作業の手が見入ってしまうというわけである。

 小生の目と耳を釘付けにしたのは、下記の番組である:
NHK クローズアップ現代 誰にも秘められた能力がある」(司会:国谷裕子

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2008/02/20

人間国宝3人が弥生の木器の復元に挑む

 日曜日の夜、引越しの作業の手を休め、職人技に見惚れていた(再放送だったようだ)。
 もっと言うと、現代の木製品の名人たち(人間国宝3人)と、言うなれば弥生時代の名工との真剣勝負を目の当たりにしたような、緊迫した空気が漂い、おごそかな気持ちさえ抱かされた。

 その番組の内容は下記:

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→ 「青谷上寺地遺跡を代表する木製容器」 (画像は、「NHKおはよう鳥取-とりネット-鳥取県公式サイト」より)

番組 ETV特集 (NHK教育 2008-02-17 2200)」(ホームページ:「チャンネルガイド」)によると:
ETV特集弥生人が残した謎の木製品・現代の人間国宝3人が復元に挑む▽美しき器に隠された二千年前の歴史ロマン」(NHK教育 放送日時: 2月17日(日) 22:00-23:00 【語り】野田 圭一)

鳥取県の弥生遺跡・青谷上寺地遺跡の謎を解明する。同遺跡は土壌が特殊な粘土質のため、普通なら腐ってしまう木器や鉄器、人骨が大量に出土し「弥生のタイムカプセル」と呼ばれる。1万2千点もの精巧な木器の出土は考古学界の注目を集めている。なぜこれらの木器は作られたのか。謎の解明に挑む3人の人間国宝の木工芸作家と、協力を名乗り出た気鋭の考古学者たちを紹介。木工芸作家らは、遺跡出土鉄器の復元品である工具を使って木器の復元に取り組む。その作業から弥生人の木への造詣を読み解くことができ、日本人の木の文化の原点も浮かび上がる。一方、学者たちの研究ではこの遺跡が高い技術を持った日本最初期の職人が活躍する場だったことや、材木など原材料の搬入と加工品の海上輸送の機能を持った工業村だったことが明らかになりつつある。

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2008/02/18

お引越し

[過日の日記(備忘録)より]

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← 引越し作業三日目にして片付けもようやく先が見えてきたような。

引越しの準備に大童の日々である。

とりあえず田舎のほうは受け入れ態勢が(不満はあるが)完了。
次は東京のほうに取り掛かる。

今の住居に十七年。東京では三十年。郷里を離れての生活は合計で三十六年である。
長年の垢も溜まろうというもの。

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2008/02/16

屋根裏部屋の秘密

 過日、郷里と東京を往復する機会がまたもあった。
 移動の時には必ず本を持参。
 今回は、前回のやや分厚い本の厄介さに懲り、文庫本を選択。

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→ 『ちくま日本文学007 江戸川乱歩』(筑摩書房) 主な収録作品は、「白昼夢 二銭銅貨 心理試験 屋根裏の散歩者 人間椅子 押絵と旅する男 防空壕 恋と神様 乱歩打明け話 旅順海戦館 幻影の城主」で、解説は島田雅彦。ちょっと物足りない解説だったね。

 今回、選んだのは、久しぶりに江戸川乱歩
 図書館の新刊コーナーにあったので、即、手に取った。

 今更、江戸川乱歩が新刊?
 観ると、「ちくま日本文学」の中の一冊として今年一月に刊行されたばかりなのである。
 
 懐かしさ。
 本はあまり読まない小生だったし、特に推理小説は好まなかったのだが、ポーと特に江戸川乱歩は別格。
「怪人二十面相」やら「少年探偵団」やらを(あるいは江戸川乱歩の手によりリライトされたポーの作品なども含め)近所の貸本屋さんで借りて読み漁ったものだった。

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2008/02/15

病院へ

[過日の日記(備忘録)より]

お袋は月に一度、病院へ行く必要がある。
詳細は書かないが、体調の経過を診てもらうためである。

お袋には三十年以上の通院歴がある(手術も含め)。

自分では歩行もようやくなので(家の中は手すりを使ってなんとか、外は車椅子)、当然、介添え役が必要になる。

これまでは主に父がやっていて、タクシーで病院へ。

姉が都合が付いたら姉が車で。

父も体が弱っているので、これからは小生が付き添いの役目をやる。
家事も含めこのために小生が帰省したようなものである。

今日は姉の車で姉に一緒に行ってもらい、病院内でのノウハウを教えてもらったのである。

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2008/02/14

ちょっとだけ東奔西走

[以下は、某所で数日前に書いた日記。プライバシーの問題があるので一部、事実関係を変えてある。日記というよりメモ、あるいはただの呟きかも。]


 今、郷里にいる。引越しが間もなくなので、その下準備。
 要は東京から引っ越してくる(出戻りする?)ので、貨物を置くスペースを確保するなどしている。
(家事(買物などの炊事)は当然、やっている。掃除もちょっとだけ)

 家には蔵がある(凄い?)。
 といっても、お宝は一切なし。

 尤も、農作業や使えなくなって、仕舞った什器類は埃まみれになっているけれど、我が家的には宝物かもしれないが。
 ほとんどが捨てるにしのびない灯油のストーブやら扇風機やら藁縄やら、机、長持ち、古い板戸(今日、見て、懐かしかった。ああ、こういう板の戸が昔、あったよなー。家の中の部屋の仕切り戸はこれだったよなー)、ガラス戸、農具、甕(多分、大根か味噌製造のため)ほかもろもろ(薄暗くて中に何があるか、よく確認できない)。
 不思議なのは、新聞の折込広告チラシ類が何束も。何故、蔵に保存してあるのか理解不能。
 誰のものやらスケボー一式。

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2008/02/13

焼け野の雉(きぎす)

 昨日の記事「キジも鳴かずば打たれまい」で書いたキジに付いての諺(トリビア)が、今日になっても気に掛かっていた。

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→ キジ(雄) (画像は、「キジ - Wikipedia」より)

「頭隠して尻隠さず」ということわざは、草むらに隠れたつもりになったキジの様子に由来している」(「雉の隠れ」とも)とか、「キジも鳴かずば打たれまい」といった諺である。
 国鳥なのに、どうしてこうした諺に引き合いを出されてしまうのか。
 しかも、「キジ - Wikipedia」によると、「頭が良くない」だなんて、あんまりな言われ方さえされている。

 が、昨日の記事の末尾近くに書いたが、キジの愚かしいかのような生態は、「オスの飛び立つ姿は力強く男性的,メスは「焼け野のきぎす」のたとえにあるように非常に母性愛が強い」という面とは、実は裏腹のように思えてきた。

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2008/02/12

キジも鳴かずば打たれまい

 先週末、トイレの窓を開けて用を足していたら(出すのに、どうして用を足すなのか)、隣の家の庭木の枝に不思議な鳥が止まるのを見た。
 左やや上方から、真っ白なものがふわーと飛んできて、枝先に止まったのである。

Inko

← 「セキセイインコ」(by Kei

 なんだ、あの純白の鳥は?!
 
 図鑑や写真でならともかく、肉眼では観たことのない種類の鳥のようだった。
 色は白地にやや青味がかっている。大きさはツバメほどだったか。
 枝先に止まったのだが、曇天なのに、その白さが眩しいほどに鮮やかなのである。
 飛び立つ瞬間だったか、ギギッと鳴いたような気がしたが、定かではない。
 野鳥に詳しければ、すぐに名が分かるのだろうが、生憎、そんな風流な知識は持ち合わせていない。

 急いで用を足したらデジカメを持ってこようと思っていたが、グズグズしているうちに飛び去っていってしまった(どうも、切れが悪い…)。

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2008/02/09

DASEIN…そこにある

[気分は昨日と同じなので、やはり旧稿から。題名だけ変えました。]
Unga
 だだっ広い世界にポツンと一人、放り出されている。
 一人って、自分で言っているけど、自分が一人なのかさえも分からない。
 自分では自分の姿が見えないから。
 迷子になった心が疼いている、ただ、それだけのことなのかもしれない。
 誰かに触れたい。誰かに触れて欲しい。
 何の拘りもなく、ただ、触れ欲しい。触れてみたい。
 たった、それだけのことが、どうしようもなく難しい。

 誰のせいでもなく、私は、やはり、独り、闇の中でポツンと、いる。
 通り過ぎた電信柱に貼られたチラシ、それとも白い壁にペイントされた落書き。
ガード下の薄暗い壁の剥がれ切れないでいる広告。
 私は、そういったものほどにさえ、確かに生きているとは感じられない。

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2008/02/08

想いは消えない

 一体、この世に何が残るのだろうか。そもそも何か残したいのだろうか。
 あるいは残さないほうが潔い?

 この掛け替えのない自分。確かに自分というのは一人しかいないし、段々自分のことを気遣うのは自分しかこの世にないのだと、しみじみと感じてきている。
 だから、その意味で世間に迷惑を掛けないよう自分のことは自分で始末をつけたいとは思うけれど、さて、それも生きている間のことで、その後のことは、どう思えばいいのだろう。

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← 『Blue Myth』 (from 「La Moon」)

 ここで思うのは、一頃流行ったカオス理論でのバタフライ効果って奴である。
 まあ、正確さなど一切、度外視して説明すると、逐一の些細な差異が、継続して加算・加重されると、後に至っては非常に大きな違う結果に到る、という理屈である。

 で、敢えて卑近にも自分のことを思うなら、ここ、この世の片隅に一個の平凡なる人間がいる、それは極小の小宇宙に過ぎない。
 その取るに足りない人間のささやかな思いや願いや祈りや期待など、それこそ蝋燭の焔であって、気紛れな風の一吹きで掻き消されるような、存在自体があやうい、あれどもなきが如きものでもある。

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2008/02/07

冬に幽霊考?

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→ 丸山応挙『幽霊画』(バークレー美術館蔵) (画像は、「第126話落語「応挙の幽霊」の舞台を歩く」(ホームページ:「落語の舞台を歩く」)から)

 幽霊に付いて、当り障りのない考察を試みよう。
 小生、怖がりなので、幽霊の気の障るような考察はしないつもりである。幽霊さんに気が付かれないよう、こっそりと、そして不意に幽霊さんが現れて絡まれないよう、辺りの気配を十分に探りつつ、あれこれ意味のない探求を試みたい。

 それにしても、まず幽霊について先ず気づくことは、幽霊には足のないとされること。

 幽霊は、江戸時代の怪談ものだと、柳の枝の垂れる薄暗いお堀端で不意に現れる。牡丹燈篭は別として、そうした状況で現れる幽霊さんというのは、決まって足がない。というか、下のほうが曖昧模糊としている。

 よく、幽霊には、足がないって言うけど、何処までがないんだろう。

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2008/02/06

たまゆら考?

(前略)
 さて、ちょっと前置きが長くなった。やっと本題に入る。
 ちょっと入りづらいが、以下の一文は、「たまゆら」という言葉から、昨夜、小生が真っ先に浮かんだことなので、逸するわけにはいかないのである。
 人によっては、余談だ、冗談だという人もいるかもしれないが、小生の話は、もともと全てが余談なのだ! と開き直るというか、居直ることで、そんな揶揄を遣り過すことにする。
 小生、ぶっちゃけた話、ラジオで最初に「たまゆら」という言葉を聞いた時、実は、恥ずかしながら、「たまずら」のように聞こえた。

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 小生にしても、「たまゆら」という言葉は知らないわけではなかったのだが、そう聞こえたので、聞きとがめたというか、ついつい、リッスン ツーしてしまったのである。
 玉ずらとは、何か、どういう意味なのか、と聞かれても困る。そんな言葉は恐らくは、ないはずである。別に広辞苑を引いて調べたわけではないのだが… (でも、調べて、あったら、どうしよう)。

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海の宇宙ステーション:シーオービター

 フランク・シェッツィング著の『知られざる宇宙 海の中のタイムトラベル』(鹿沼博史/訳、大月書店)を読んでいたら、「シーオービター」の話題に出会った。
 今日も海に関わる話題だが、どうも、海という言葉を(無論、本物の海を前にするともっと!)心が騒ぐ。

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→ 『海の宇宙ステーション シーオービター(Sea Orbiter)』(Illustration: Jacques Rougerie) (画像は、「Gemini - Research news from NTNU and SINTEF」より) このイラストも建築家のジャック・ルジュリさんの手になるものらしい。建築家も画才が必要だと痛感させられる。あくまでイラストとしての。その出来で行きすぎる人の目を一瞬でもオヤッと立ち止まることに成功するかどうかも、成功の鍵を握るのだろう。上掲書を読んで興味を抱いたのだが、ネットでこうした画像を見て、とりあえず記事に仕立てようかなと思ったのだ。ただ、子供の頃なら単純に夢物語であったのだが、漁業が乱獲で先行きが危惧されつつある中、これで、海の中が探査され尽くしたら、海は一体どうなるのかって、余計な(?)懸念を出だしてしまう。時代というものか、年齢なのか。

 それでいて、眺めている分にはいいが、海は怖いような気もする。
 母なる海、でもあるが、未知なる海、いまだ闇の海と感じられてならないのだ。
 なので、これから紹介する話題も、ちょっとアイロニカルに感じつつ、それでも惹かれるものがあってと、なんだか複雑な心境。

 そうした心境になるのは、小生には海は宇宙そのものに感じられるから、なのかもしれない。


 

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2008/02/05

知られざる宇宙 海の中のタイムトラベル

水、海、と来ると、次は雲である!」の中で、「いつ、この本を手にすることができるだろう…」などと心細げに言及していたフランク・シェッツィング著の『知られざる宇宙 海の中のタイムトラベル』(鹿沼博史/訳、大月書店)を案外と早く手にすることが出来た。

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← 本書で知った海の底の生物『カイロウドウケツ(偕老同穴)』 「カイロウドウケツには「偕老同穴」の字を充てるが、「偕老」及び「同穴」の出典は中国最古の詩篇である詩経に遡る。前者は邶風・撃鼓、後者は王風・大車に登場する。これらを合わせて「生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる」という、夫婦の契りの堅い様を意味する語となった。この語がカイロウドウケツ中のドウケツエビのつがいを評して用いられ、後に海綿自体の名前になったと言われている」。本書では、「カイロウドウケツ」についての記述もしっかり。(画像は、「カイロウドウケツ - Wikipedia」より)

 そろそろ半年(あるいはそれ以上)になろうとする(多分、あと数ヶ月は続くはず)、ブログでのマイブームテーマである、「水、海、雲、霧、空、川…」の一環で、読書も記事も主にこれらのテーマを巡るものになっている(但し、緩やかに、ゆったりと)。

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2008/02/04

梁 石日著『タクシー狂躁曲』未満

 梁 石日(ヤン・ソギル)著の『タクシー狂躁曲』 (ちくま文庫 )を今頃になって読んだ。
 今頃とは、小生、これでもタクシードライバーの端くれだったのである。

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→ 梁 石日(ヤン・ソギル)著の『タクシー狂躁曲』 (ちくま文庫 )

 ドライバーになろうと思ったのが95年の三月末、実際に走り始めたのは95年の9月になって。
 以来、昨年末に退社するまでタクシードライバーだった。
 12年3ヶ月。
 タクシードライバーとしては、96年の春先だったか初夏だったか覚えていないのだが、進路変更違反で失点した以外は、大過なく過ごした。
 まあ、至極、無難な、平穏無事なドライバーだったと言えよう(少なくとも数字や経歴の上では)。
 ゆえあって一時、中断しているが、事情が許せば続けるつもりでいる。
 
 タクシードライバーになりたての頃は、タクシー関連の本を片っ端から読んだ。
 といっても、そんなに数があるわけもなく、めぼしいものを読破するのにそんなに歳月を要しない。

 正直、読んでいて、うんざりした。あまりに退屈か、そうでなかったらあまりに荒唐無稽で現実離れしている。

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2008/02/03

「日教組、全体集会開催を初めて中止へ ホテルが使用拒否」に関連して

中国製冷凍食品、健康被害959人・入院8人 厚労省」や「道路特定財源の暫定税率 延長か廃止か 意見さまざま - AGARA紀伊民報」などの報道が目立っているその蔭で、「日教組、全体集会開催を初めて中止へ ホテルが使用拒否」(ホームページ:「asahi.com:朝日新聞の速報ニュースサイト」)なんて由々しき事態が起きていた。
 小生は、この事態をテレビやラジオなどの報道ではなく、新聞を読んで初めて知った。
 以後、テレビのニュースで少しは採り上げられるかと思ったが、小生が気が付かなかっただけなのか、今日(土曜日)のところは全く報道されなかった(あるいは扱いが小さかった)。

 日教組と右翼(の街宣車)というと、小生には思い出すことがある。
 小生は、78年4月から81年3月まで落合近辺に暮らしていた(初め西落合、ついで上高田)。
 最寄の駅は、西武新宿線の新井薬師前駅
 上高田に引っ越してからだから、80年前後だったと思うが、正確な日にちは覚えていない。

 或る日、目覚めるとアパートの外から煩いだみ声が聞こえてくる。
 午前中だったと思う。
 あるいは通勤前だったか、土曜日か日曜日の朝だったのかは覚えていない。
 カーテン越しに外の様子を窺うと、晴れていた。

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2008/02/02

もしも月がなかったら

  2005年に開催された「愛・地球博」の「三菱未来館」で、「もしも月がなかったら」という企画展が催されていた:
三菱未来館@earth

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← 画像(壁紙素材)は、「La Moon」より。拡大したほうが画像の見事さが分かる。

 上掲の「三菱未来館@earth」の中の「三菱未来館@earthもしも月がなかったら EXPO 2005 AICHI,JAPAN」なる頁によると:

三菱未来館は、身近でありながらまだ未知の部分を多く残した「月」に着目。「もしも月がなかったら、地球はどうなっていただろう?」という素朴な疑問を入口に「いまこの地球に生きている不思議、その奇跡へのまなざし」というテーマで出展します。パビリオンは、映像シアターで米国メイン大学天文学・物理学部教授ニール・F・カミンズ氏の著書「もしも月がなかったら」をベースに映像物語が展開されます。

 月がなかったら、月見が出来ないとか、風情がなくなるとか、まあ、科学の門外漢たる小生なら考えそうなお「もしも」像はいろいろ考えられる。
 が、実は、月がなかったら地球は想像を絶する世界となっていただろうという。

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2008/02/01

『新・京都迷宮案内』:この世でたった一冊の本

新・京都迷宮案内」(パート5)は、都合さえ付くと比較的見ている番組である。
 橋爪功扮(ふん)する新聞記者が京都を舞台に活躍する新シリーズ(以下、敬称は敬愛の念も込めて略させてもらう)。
 小生は前にも書いたが、橋爪功という役者(の演技)が好きなので、彼が主演でなくて脇役であっても、出ると分かっていたら見るように心がけている。

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→ 「新・京都迷宮案内」(2008)のポスター。画像は同番組公式ホームページより。

 彼の関わる番組の中でも「新・京都迷宮案内」は、それぞれの回ごとに趣向が凝らされていて、見飽きないし、見終えても見たという手応えもある。
 今日は、今年の第一回目の放送でもあるし、「盗まれた恋愛小説!“忘れえぬ女”の謎」の回をストーリーを追いつつ、追体験してみる。
 ドラマの最後のどんでん返し的な話にしてやられたということもあるが、ゲスト出演していた水前寺清子の演技に感じるものがあったので、ちょっと採り上げてみたくなったのである。

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