三途の川と賽の河原と
前回に引き続き、「さいたま川の博物館」での、「平成11年度第2回特別展「三途の川」」を道案内に、三途の川のこと、そしてできれば、賽の河原について幾分かでも学んでおきたい。
← 陸信忠(りくしんちゅう)筆本『十王図』(絹本着色 各縦83.2 横47.0(cm) 中国・南宋時代) (画像は、「奈良国立博物館」より) 「人が死後に赴く冥土(めいど)には、亡者の罪業の審判者として閻羅王(えんらおう)(閻魔王)など十人の王が」いる。「十図はいずれも王が冥官たちを伴い、椅子に掛けて机に向かい罪状を調べており、前には裁きを受ける亡者や、あるいはすでに有罪とされた亡者が様々の刑罰を受ける様子などが獄卒の鬼たちと共に描かれる」。個人的には、「壺中水明庵」を舞台に風景画をテーマにブログ記事を綴っている小生、「なお王の背後の衝立(ついたて)にはどれも水墨山水図が描かれ、日本への水墨画導入にこれら画中画が一つの役割を果たしたと考えられる」という点が関心の的。「奈良国立博物館」に所蔵されるという「騎象奏楽図」を見てみたい。
こんなことを学んでどうなるというのか、どんな意味があるのか、少なくとも小生にはさっぱり分からないのだが、何故か惹かれるものがあるので(そろそろ呼ばれている?)、ひたすらに好奇心に駆られるままに、かといって、あまりに深入りして、それでは、自分で訪ねてみようとばかりに、往って(逝って)還らぬ人にならぬよう、浅瀬を選び、できれば、三途の川の中に足を浸さないだけではなく、飛沫さえ浴びないように、用心を重ね、不摂生なる日頃の生活をほんの少しは慎みながら、まあ、表面的なこと、触りのところだけを、無論、差し障りに至らぬ程度に、触れてみよう。
さて、以下、前稿に引き続き、「平成11年度第2回特別展「三途の川」のご案内」を参照する:
いきなり人の力を借りるのも、顰蹙モノかもしれないが、三途の川に行ったことがないのだし、その世界に不案内なのだから、仕方ない。上掲の頁の冒頭にかのようにある:
日本人は、むかしからこの世とあの世を分ける境界として川を意識してきました。その川が日本仏教に取り込まれ「三途の川」になったと考えられます。
確かにその通りで、宗教の世界には御無沙汰気味の小生も、そんな話を漏れ聞いたことが遠い昔の記憶として残っている。一体、誰に聞いたものなのか、今となっては定かではない。
→ 「平成11年度第2回特別展「三途の川」のご案内」の案内パンフレット (画像は、「三途の川図録紹介」より)
父や母がそんな話を幼い小生にしてくれたような記憶がない。
祖父は、小生が物心付く前に亡くなっているし、祖母も物心付いたかどうかの頃に亡くなっていて、とてもじゃないれど、抹香臭い話をするに至ったとは思えないのである。
では、葬式とか、あるいは近くの我が家が檀家とされているお寺に誰かに連れられていって、坊さんのありがたい話を伺ったのか。
なかったとは断言できないが、印象には薄い。
法事などのときにお坊さんが我が家にも回ってくる。事が終わると、さも当然の如く、我が家の茶の間に来て、お茶を飲み、お菓子などを摘み、世間話に打ち興じていく。
小生は、来客がそもそも嫌いだったが、さりとて、別の部屋に逃げる才覚もなく、時に黙ってお喋りが終わり坊さんが去っていくのをじっと待っていたことが幾度かあったことは覚えている。
が、そんな時に、込み入った仏教の話などをしていたかとなると、覚束ない。あったかもしれないが、仮にあったとしても、聞き流していたことは、間違いないように思う。
というのも、あまり話が上手だとは感じなかったのだ。ひたすら退屈していたのは間違いない。それは断言できる。退散するのをジリジリしながら待っていた、そのイライラは毎度のことだったのだから。
← 「平成11年度第2回特別展「三途の川」のご案内」の案内パンフレット (画像は、「三途の川図録紹介」より)
罰当たりな人間である。
では、一体、どんな場面で仏教的な世界への馴染みを持ったのか。恐らくは幾つかの場面、様々な機会にあったのだと思うのだが、その中の、これだけは間違いないと言える光景というと、それは、地獄絵図だったと思う。立山曼荼羅に限らず地獄の様を描いた絵図は、幾度となく見せられたものだ。あるいは、そこここに絵図が貼ってあるので、嫌でも目に付く。
それに、何かの童話か昔話を読んだりすると、そうした仏教説話から援用したような話の内容と同時に、地獄の閻魔様の怖い姿の絵や、八大地獄の絵図などを見たような気がする。
八大地獄とは、「等活地獄」「黒縄地獄」「衆生地獄」「叫喚地獄」「大叫喚地獄」「焦熱地獄」「大焦熱地獄」「無間地獄」などである。それらの地獄の有り様をありありと描いた絵図が挿絵として使われていたしていたようだ。
小生の田舎は、なんといっても、真宗王国なので、尚のことだったかもしれない。
「立山曼荼羅の解説」というサイトを見てもらいたい:
「「立山曼荼羅の解説」 富山県[立山博物館]学芸員 福江 充」
ガキの頃とて、説明の詳細などは右の耳から左へ抜ける前に、何処かで滞ってしまっていたと思うが、絵図の印象は鮮明であり、強烈だったようである。
小生は、小学校に上がる前に、一時期、夜毎、地獄の世界を彷徨っていた。無論、家を脱け出て、どこかの地獄をうろついていたというのではなく、夜、眠りに就くと、決まって、焦熱地獄とでもいうのか、炎の燃え上がる崖の上を逃げ回っていたりする自分がいるのだった。
特に幾度も繰り返し見た光景は次のようなものである。
誰かに包丁か何かで足の脛か脹脛の肉が抉り取らる(不思議なのはその犠牲者が自分なのかどうか、覚束ないことだ。なんとなく他人の悲惨な光景を眺めていたようにも思える…)。その肉片を取り戻そうと追い駆け、苦労の果てに、なんとか追い着いて取り返す。
そして、その肉片を肉の削げ落ちた辺りに宛がってみる。
ところが、どう合わせてみても、合わないのである。もしかしたら他人の肉片を間違って持ってきてしまったのではないか、という疑念が脳裏を掠めている。
しかし、そんな<事実>をこの期に及んで認めるわけにはいかない。で、いつまでも、未練がましく、合いもしない肉片を脛か脹脛に宛がいつづけながら、途方に暮れている……。
そんな呆然たるところで、目が覚めるというわけだった。
→ 「平成11年度第2回特別展「三途の川」のご案内」の案内パンフレット (画像は、「三途の川図録紹介」より)
あれは、自分の運命だったのか、それとも人の悲惨を垣間見てしまったトラウマが悪夢の形で現れたのか、今もって分からないでいる。
とにかく、仏教説話や地獄・極楽信心の濃厚な風土の地に生まれ育てば、思わず知らずのうちに、仏教的観念の類いが体に脳味噌に沁み込んでしまう物なのだろう。
さて、話は三途の川に戻る。一体、何時頃から、この三途の川という観念が我が国の風土に浸透したのだろうか。冒頭に示したサイトによると、【三途川の真実】の項に、次のように記されている:
江戸時代に民衆教化を目的として絵解きされた十王図を中心に、立山曼陀羅や熊野観心十界図などに描かれた「三途の川」を紹介し、縄文時代から境界として意識された川が仏教に取り 込まれて「三途の川」になった過程を検証します。
戦国時代末期に織田信長らにより一向宗など権力に歯向かうような民衆の宗教は徹底的に弾圧を受け、たとえば、浄土真宗など、徳川の御代に西と東に分断され、やんごとなき方との姻戚関係を持ったりして(誇ったりして)、とことん、牙を抜かれていった。
そう、葬式仏教が定着したのである。権力には無難な、それどころか、民衆のエネルギーを吸収し脱力し、イージーな意味での他力本願の傾向というか体質が民衆にも、坊主たちにも植え付けられていった。
キリスト教(キリシタン)についても、悲惨な歴史があり、歴史の表舞台から消え去ったことは周知の事実だろう。権力者の判断で国家に不都合な宗教は圧殺されていったのだった。
よく言えば、宗教と政治の分離を宗教教団に徹底して強い、仏教の徒は、政治向きのことにはタッチしない、純粋に宗教行事に専心するようになったわけである。それどころか民衆や先覚者に政治への憤懣があっても、それを<浄化>して、牙が政治や権力に向わず、何事にも拘らない姿勢こそが美しいものとされていった。
江戸時代、江戸の町に置かれた寺の多くは、幕府の権力(探査)機関の末端としての役割を果たしていたとも言われる。相手が民衆に限られたわけではないのだろうが。
[ 江戸時代の宗教機関(寺社)、特に仏教がどのような運命を明治維新に辿ったか。これは別の話になる:「出発は遂に訪れず…廃仏毀釈」「廃仏毀釈補遺」 (05/07/29 追記)]
← 「平成11年度第2回特別展「三途の川」のご案内」の案内パンフレット (画像は、「三途の川図録紹介」より)
地獄の絵図なども、悪いことをしたら地獄に落ちるという説法の陰で、政治や暮し向きに不満を持つような尖がった精神の持ち主も地獄に落ちるかのように諭されてきた。まさに民衆が権力に歯向かったりする発想や、そもそも真の宗教に目覚めるようなことのないように、<教化>されていったわけである。その典型の一つが富山などに根強い風土として現在も残っているのだろう。
ああ、賽の河原どころか、三途の川の岸辺にも辿り着けない。
稿を改めて、いつか、続きを書きたい。
(04/10/11)
[本稿は、旧稿に画像を付したもの。本文は執筆当時のまま。画像(に付したコメントを含む)のみ、アップ(08/01/26)に際し掲げてみた。この旧稿をアップしたのは、「観仏三昧的生活 立山曼荼羅を学ぶ」を読む機会に恵まれ、ちょっと懐かしくなったので、旧稿に日の目を見せることにした。 (08/01/26記)]
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コメント
いつも興味深く拝見しております。三途の川についての情報です。川の正式名称ではなく、俗称なのですが、また、渓谷の形容詞的に使用されるだけかも知れませんが、
秋田県湯沢市の雄物川の支流に高松川がありますが、その川に三途川渓谷という名所があります。さらに上流に河原毛地獄という名所があり、紅葉シーズンには、三途の川から地獄に行くのが私の楽しみのひとつになっています。
以上、小さな雑情報でした。
投稿: mitleben | 2008/01/28 08:33
mitlebenさん
春が待ちどおしい気分ですね。
富田木歩の件ではありがとうございました。
>秋田県湯沢市の雄物川の支流に高松川がありますが、その川に三途川渓谷という名所があります。さらに上流に河原毛地獄という名所があり、紅葉シーズンには、三途の川から地獄に行くのが私の楽しみのひとつになっています。
情報、ありがとうございます。
ネットでは群馬、千葉、宮城、青森に三途川があるという情報はありましたが、さすがに俗称となると地元の人しか知らないのかもしれないですね。
あるいは、他の地域にもあるのか。
それぞれの地域の三途の川という名称(俗称)の謂れを知りたいものです。
三途の川から地獄へ行くなんて、よほど、そういったことを思わせる風景なのでしょうか。
投稿: やいっち | 2008/01/28 10:42
こんにちわ。
わたくし九州福岡で真宗は特に盛んということはありませんが、親鸞、真宗の抵抗と妥協の歴史など興味あります。
オヤジは20年ほど前亡くなりましたが、死の直前臨死体験を語ったことがあります。
典型的な三途の川と賽の河原が出てきました。
オヤジはけして信仰心の厚い人ではなかったですがやはり無意識にもイメージは定着していたのでしょうね。
宗教の恐ろしさというか根強さを思いました。
文化的には地獄や三途の川、とても興味あります。
投稿: KOZOU | 2009/07/25 10:40
KOZOUさん
コメント、ありがとう。
今はともかく、一昔前は、父母が、あるいは祖父母が、親戚の者で宗教心の熱い人が、まだ幼い子どもに地獄の話、閻魔様の話をすることが多かったようです。
絵本などでも、地獄の業火の絵とか、針地獄などの絵が載っていて、心底に印象付けられた気がします。
一方、天国の様子も、こちらはあまりリアリティはなかったけど、語られたような。
三つ子の魂、百まで。
切羽詰ると、そんな描像が我が身に迫ってくる。
小生も、ボチボチ、そんな年頃に近付いているのかなと思ったりします。
投稿: やいっち | 2009/07/25 19:32