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2008/01/04

太田神社は市野倉にあります

 昨年、「帰郷していた際に、郷里の神社に初詣しそびれたからというわけではないが、東京での地元の神社である太田神社へ初詣に行ってきた」のだが(「初詣太田神社で決まりです」)、今年も二日、天候に恵まれたことだし、太田神社で初詣してきた。
 三日は箱根駅伝の復路をチラッと観戦。箱根駅伝観戦レポートは、後日、書くかもしれない。共に自転車を駆ってのお出かけ。

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← 正月二日、地元の太田神社で初詣。昨年、太田神社の画像は幾つか載せているので、ダブらない画像を選びたい。「昭和7年に氏子により奉納された御影石の鳥居」に注目。

 太田神社のことは上掲の記事を参照してもらおう(太田神社の名前の由来や、大田区という区の名称の由来など興味深い話を書いておいた)。
 今回は、太田神社は「市野倉と言われた武蔵野台地」にあるということなので、この「市野倉」や近くを通る池上通り(池上道)の周辺を探ってみる。

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→ 参道の石段の上り口付近にある石碑。神社の由緒などが書いてある。「太田神社由緒」を参照。

 武蔵野台地のはずれといっていいだろうが、「大森の山王から馬込にかけては、九十九谷といって坂の多い地域」で、この界隈の坂巡りと紹介をしてくれる恰好のサイトがあった:
馬込の坂」(ホームページは「SUZUKI's Homepage」か?)

 今回は「太田神社」についてのあれこれは省くので、関連するサイトを紹介だけしておく。
伝説では那須与一も武運を祈ったという」「太田神社」については、何度か覗かせてもらい紹介もさせてもらった下記がいい:
那須与一伝説のため、戦時中に武運長久の祈願者がお参りした太田神社」(ホームページ:「大田区史跡と歴史 デジカメ散策」)
太田神社由緒

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← 昨年は撮り損ねた「明治34年に氏子より奉納された狛犬」(神社に向って左側)。今年はしっかりと収めた。狛犬像の後ろに見える建物は、社務所。その背後の裏山は「那須原」と呼ばれていて、「太田神社と那須与一宗隆公との関係が深いことが分か」る。

 念のために断っておくが(断るまでもないが)、「伝説では那須与一も武運を祈ったという」「太田神社」が近くにあるから、その那須与一にちなんで小生が国見弥一と名乗っているわけではない。
 そもそも「学問的には与一の実在すら立証できていない」のだが、弥一はここに居る!
(尤も正式に弥一という名前を決め執筆活動を開始した時、「弥一」という名前から語感的に「与一」を連想しなかった、と言えば嘘になる…。)

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→ 同じく狛犬(右側)。「左右とも子供を抱いた雌の狛犬らしく、口を開けた阿像(あぞう)である、左右とも阿像とは珍しい」…。きっと何か事情がある ? ! 

 但し実在が立証されていないとしても、与一の子孫がいるという説はある(墓所だってある!)。「梶原氏といさかいをおこしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女をもうけ(息子は越後那須氏の祖となる)たという」のだから、越後ではなく越中生れの小生、まんざら無縁ではないのかもしれない。
 この辺りの真偽はDNA鑑定に任せたいところだが、生憎、那須与一の遺髪が見つかっているわけでもなく、当分、謎は謎のままなのだろう。

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← 同じような画像は昨年も撮っているが、やはり拝殿の中の様子は気になる。

 冗談はさておき、且つ、前置きはそろそろ止めて、本論に入る。
 市野倉(町)や池上道については、「旧市野倉町小史」が非常に参考になる(ホームページは「★城南神輿と御会式の街★ 市野倉四丁目」か?)。
 
 さらに、ビデオで市野倉のあれこれ(「新春郷土芸能和のしらべ」や「太田神社例大祭」など)の模様を見せてくれる「市野倉 video clips Travel Videos 365」なるサイトがある!

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→ 昨年、気になりながら撮り損ねた境内の見事な木。

 さて、「旧市野倉町小史」によると、「市野倉」とは、現在の東京都大田区中央4丁目の一部・中央5丁目の一部・中央6丁目のほぼ全域・中央7丁目のほぼ全域・池上1丁目の一部からなる、太田神社氏子町の旧地名です」というが、以下の記述が非常に興味深い:

市野倉のほぼ中央を横断する「池上道」は、東海道の青物横丁から川崎平間に通じ、「平間街道」とも呼ばれます。東海道五十三次宿駅伝馬制度が制定される以前は、江戸と京を結ぶ重要な街道の一部としての役割を担っていて、同じ池上道沿線の新井宿・春日神社付近にある碑には、「古の東海道」と刻まれています。東海道五十三次宿駅伝馬制度が制定された後も、東海道沿線の鈴ヶ森刑場(現在の鈴ヶ森大經寺)前を通ることを嫌い、池上道に迂回する旅人が多く、沿線の市野倉は大変賑わったと伝えられています。このように、池上道は東海道の間道としての役割を担っていたことは、大石内蔵介が討ち入りのため江戸に入る際、池上道を通ったという史実が物語っています。

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← 去り際に神社の全景を。途切れることなく、といって来訪する人が二組重なることは稀な程度の参拝者。

 文末に「大石内蔵介が討ち入りのため江戸に入る際、池上道を通ったという史実」とあるが、小生が旧市野倉に越す前は、泉岳寺の近くに居住していた。
 なんだか、また、赤穂の話に縁を感じたりする。
 その前に、転記文中に、「古の東海道」という言葉があるが、小生が居住していた地はまさに古代の東海道の間近にあったのである。古代の東海道はの東側は、古代は(江戸時代もだが)すぐそこまで海だった。

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→ 境内の上から石段を見下す。神社が高台にあることが分かる。
 
 この古代の東海道についても、下記サイトがとても参考になる:
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_ootajin.html">八景坂から古い東海道を本門寺に向かって歩く-1 ■「大化の改新」頃からある古い街道…平間街道(旧池上道)」
池上バス通りから分かれ、古い池上道を池上本門寺 まで歩く-2
(いずれもホームページは、「大田区史跡と歴史 デジカメ散策」)

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← 文中、冒頭付近で、「市野倉と言われた武蔵野台地」に太田神社があると書いている。この画像を見ても眺望の良さが分かる。だからこそ、神社の創建の場所に選ばれたのだろう…か。

旧市野倉町小史」の説明は懇切丁寧である。
 その中でやはり気になるのは、「市野倉」という地名の由来だろう:

「いちのくら」という地名の由来は、大田区史によると、8世紀頃各地に「市の座」が設けられ、古代の新井宿駅に隣接する当地にも市が設けられた、という説があります。また品川区史によると、元久元年12月の大井実春譲状案に、大森郷の四方角について「西は一木に限る」と記され、この一木が当地ではないか、と推測されます。

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→ 高橋松亭 『市野倉(いちのくら)』 「(1922.2 Size (H x W) cm:24.0 x 36.4 Image Source: Robert Muller) (画像は、「Shôtei.com   Shôtei Gallery」より。高橋松亭のことなら画像も含め、ここ!) 昔は、市野倉辺りも真冬になると雪景色は当たり前だったのだろう。洗濯物(?)が表に干してある…? 凍り付いてしまうんじゃないかと、気になってならない。

「いちのくら」という地名が記された最古の公文書は「北条分限帳」で、一節に「一貫八百文六郷の内、一之倉、蒲田分、太田新六郎知行」と記されています。以後の公文書にも、「いちのくら」という地名ががはっきりと記されるようになりました。


 転記文中、「太田新六郎」という名前が出てくる。
那須与一伝説のため、戦時中に武運長久の祈願者がお参りした太田神社」にも書いてあるが、「太田神社の名は小田原北条の家来太田新六郎から名付けられたと」言われているようである。

 小生の居住している地域も馬込の外れなので、馬込に付いては一方ならぬ関心があり、愛車(真っ赤なミニ自転車)を駆って探訪(?)を試みたことがある:
馬込文士村…あれこれと思い秘めての散歩かな
 また、武蔵野台地のまさにはずれの地域もやはり愛車と共に見て回ったことがある:
カラスの森?!

 ん? で、神社で何を祈ったかって? それは内緒。

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コメント

明けましておめでとうございます。遅いんですが…。

太田神社に初参りですか!山下の鳥居からみた階段の風情がとても好きです。
春日神社に比べると閑散としておりますね、確かに。もっと皆さんお参りに行けばいいのに、って私もまだでした!

あの丘が武蔵野台地の果てということは、その下は昔は海だったんですね~。

長勝寺の裏山に古墳があるらしいですし、この辺はもっと調べれば色々とおもしろいものが出てくるかもしれませんね。

投稿: サラス | 2008/01/09 00:51

サラスさん
明けましておめでとうございます。
昨年は、川瀬巴水のことなどで縁を持つことが出来ました。
今年もよろしくお願いします。

風邪、もう大丈夫ですか。

そう、まだ帰省できていないので、東京での地元の神社で初詣です。
まだ、二日の午後だったのに、参拝する人が少なくて、びっくりでした。
明治神宮とか行くのもいいけど、地元って大切ですよね。

そう、この神社はやや高台にあって、ほぼ直下に海が一望できたらしい。

長勝寺の裏山に古墳があるってのは初耳でした。そのうち、探訪してみます。

投稿: やいっち | 2008/01/09 04:06

ありがとうございます、風邪は完治いたしました。

>長勝寺の裏山に古墳があるってのは初耳でした。そのうち、探訪してみます。

たまたま郷土史料を読んでいて発見しました。正確な位置はちょっとわからないのですが、寺の墓地の後ろあたりではないかな?と思ってます。

投稿: サラス | 2008/01/09 23:27

サラスさん

風邪、直ったそうで、よかったですね。
風邪は万病の元と言いますし、用心、用心。

丁寧にも再度のレス、ありがとうございます。
長勝寺と太田神社の関わりについては、昨年、初詣した際にもレポートは書いたのです:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2007/01/post_c140.html

でも、調べが甘かった!

話題の古墳かどうか分からないですが、蓬莱坂(ほうらいざか)の「坂上の東方二百メートルほどはなれた高台の裏崖はかつて横穴古墳群があったところで、台上には十日森(とうかもり)神社がある」とか:
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/magome_shiomizaka.html
やはり高台だと、古代の遺跡がいろいろあるんですね。

それにしても、開かずの踏み切りのあわやという<事件>、結果、何事もなくてよかったです。
そうした踏み切りは特にご老人には辛いものですね。

投稿: やいっち | 2008/01/10 03:39

長勝寺裏の崖も横穴古墳群でした。
ただ、「台上には十日森(とうかもり)神社がある」の十日森神社は黒鶴稲荷神社を指すようですので、位置的に違うようです。

この周りには色々とまだマイナーな遺跡があるようなので、調べていきたいです。
やいっちさんも見つけましたら教えてください!

投稿: サラス | 2008/01/13 12:49

サラスさん

情報提供、ありがとう。
地元のことなのに、小生、知らないことばかり。
逆に言うと、これからの探訪の楽しみがあるってことだと思って、日和が暖かくなったら、ゆっくりあちこと回ってみるつもりです。

やはり、実際に自分で見て確かめないとね。
これからも、面白い情報があったら、教えてくださいね。

投稿: やいっち | 2008/01/13 16:30

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