銀嶺創作メモ
「ある種のアゴニー(agony:苦悶)?」
引き裂かれた感じとしか言いようのない感覚。気がついたら、物心付いたら既にもう開くべきでない、開くはずのない場所にポッカリと口が開いてしまっている感覚。
掌編ではいろんな世界を描いているが、半分以上は<ボク>モノだろうと思う。
自分で書いてきたのに無責任ということになるのだろうが、丁寧に数えて見たことがないので、自分でも断言できない。
初期の頃はそうでもなかったのに、段々、ガキもの、ボクものが増えてきているようで、近年は大半がボク(ガキ)ものの短編となっているようだ。
何故なのだろう?
創作に限らず書きたいという気持ちが止まないのは、時に寝る時間を削っても、あるいは疲れた体を引きずってでも、書くネタがあろうとなかろうと机に向うのは、向わせるのは、自分ではどうしようもない、引き裂かれているとう感覚、空白の崖下へと呑み込まれ落ち込んでいってしまっているという実感めいたものが、根源的に自分の中にあるからだ。
空っぽな穴に蓋をしたいから、その空白を埋めたいから、書くのだろうか。
それとも、そのブラックホールのように近付いたものは何でも引きずり込むその際限のないパワーに圧倒されている?
そのぽっかりと空いた穴に呑み込まれ奈落の底に引きずり込まれるその恐怖を打ち消すために書いている?
もしかして、目を背けたい一心?
ズルズルと後退していく、懸命にそこらじゅうの岩やら柱やら雑草やらに掴まり、それとも土かコンクリートか分からない地面に爪を突き立てて、ガリガリやって、顔を体を地に押し付けて、体中がズルズルと掻き削られて、ぞれでも後退していく、その際の摩擦熱と恐怖感が創作のエネルギー源なのだろうか?
子供の頃の体験・思い出、中学や高校、そして大学生になっての経験、フリーター時代のあれこれ、サラリーマン時代の和気藹々の雰囲気が一気に窓際族に成り果てるその天と地の隔絶、一年半の失業時代の迷い、逡巡の挙句のタクシードライバー生活。
個人タクシーを目指し、学科試験にも受かったけれど、最後の最後になって資金面と家庭の事情で頓挫した苦い体験。
三十年以上に渡るライダー生活での数々の冒険・異変。数々の失恋。 病気のこと。不毛な追っ駆け時代のこと。などなど。
そのどれをもネタに話は書けるように思う。
多分、適当な事実関係の変更などの処置を施しての上だろうが、将来、何か話を仕立てることもあるだろう。
けれど、小生が一番書きたいものは、冒頭に曖昧な表現で示したある種のアゴニーの感覚なのである。
一体、どこから手を付けていいのかまるでわからない。
表現の形式を既存のどんな作家の手法や作品に借りたらいいのか分からない。
徒手空拳で自分でも得体の知れないアゴニーに対面するしかない。
それでいて、アゴニーと言っているけれど、正体がまるで分からないのだ。
物心付いた時には既に心が引き裂かれてしまっている感覚、何か心の肝心な部分が押し潰されてしまった感覚、引き裂かれ千切れてしまったものを間に合わせの形で縫合はしてあるけれど、それこそボタンを一つか二つ違えたままに縫合してしまったので、歪な直り方をし、傷口も残り、その後の人生を齟齬に満ちたものにした…。
でも、アゴニーは、その以前のことなのだろうと思う。
口がポッカリ空いてしまって、そこを衆人環視されてしまったのは、物心付く以前のことなのだろう。
そこには一体、どんな事態があったのか。
何も分からない。
祝福されない誕生。
目を背けたい気持ち。
表情を曇らせながらの心にもない祝福。
潰れてグジャグジャの心。
それとも、そんな訳の分からない事態など放置、あるいは棚上げしておいて、物心付いてからの具体的な諸々をネタに他人に理解が可能な話を地道に書き綴るべき?
ま、慌てることはない。事は自分のことなのだ。
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コメント
タクシーも車輌のみならず操業資金もいるでしょうから、資金繰りも容易ではないのですね。個人的な財政状況とは別に、そこで試算される営業収益自体も厳しいと言う事実でしょうか。(-この部分は個人的感想ですので消去して頂いて結構です)
創作メモとなっていますので、「無難なことは書けない」のでまたまた「拘りの一人称の虚構創作」を勝手に検証します。上に挙げられたようなエポックの叙述は、ここの熱心な読者にはある程度事象は周知されてますね。ここでも例えば写真(先日のマラソンの写真などは過去への時差もあって健康的な意外性で現実感が強い)なども交えて、読者には「やいっち像」が出来上がっているのです。
だからそうしたエピソードが今ここで客観視によって創作に関連付けられて得られるのは、創作の中での虚構ではなくて、BLOG読者の「やいっち像」の虚構化でしかないのではないか。そして、年末年始でなんらかの環境の変化とか時の不連続とかが告知されていると、そうした「ディズニーランド効果」(やいっち像の現実化)が逆転して、虚構創作よりもこのBLOGにこそ虚構性が生じます。そうしたドラマトュルギー効果は、一人称創作シリーズ単独では生まれ難い。もちろん日常環境の変化などで、BLOG筆者自身に、それ以前の連続状態が虚構性を浴びると言うことは一般的な現象です。
そうしてそこからもう一つ空想を働かすと、実は「やいっち」は東京でも富山でもなくてロスでこれを書き綴っているのではないかとするような虚構が生じるように思うのですが、面白くありませんか?
追記:電車の写真撮影中に線路に落ちないように気をつけてくださいよ。
投稿: pfaelzerwein | 2008/01/22 02:55
pfaelzerwein さん
さすがの分析です。一方において断固、平穏で、でも、ちょっとだけ冒険かなというような現実にしがみついている小心者の、でもすこぶる健全な小生が居ます。
つまり、いわゆる現実の中にリアルなものを根付かせたいと希求して、淡々となんて言いながら足掻きまくっている自分は、大きな意味での現実の中に断固居る。
それでいて、ガキの頃、物心付いたころにサバイバルの術(すべ)として培った(?)隠遁の術に長けた自分が居る。
それは物心付く頃に、もうこれ以上、傷付きたくない、現実とは接触も軋轢も避けたいという、とても臆病な自分、蓑か殻の中に閉じ篭って、現実から目を背けている、土中の穴からこっそり現実の様子を窺っている自分も居る。
山紫庵での小生はとにかく健全な自分像を幻想であろうと信じたい自分でもある。きっといわゆる現実という場に足場を持っているに違いないと信じたい自分(でも現実感がまるでない自分のまま、ずっとある)。
だからこそ、実際にあった(はずの)ことは、小説(虚構・創作)の形では書かない。あくまでエッセイかレポート(ドキュメント)の形にこだわる。
方丈庵では、もっと物心付いた前後への遡及を常に念頭においている。生きている今の現実感のない、でも、他人からは存在感のない(隠遁の術がうまく行き過ぎている)自分を救い出す(?)べく、物心付く以前に遡って現実とか非現実とかいった配慮の類いを取っ払った、もっと根っこのリアルを追い求める。
けれど、物心付く以前なんて想像の範囲外のはずってのが常識。
一体、どうやって根源へ遡及することができる?
この辺り、下手すると、エッセイやレポート・ドキュメントでリアルに描いている自分で、個々の実際あったはずの、記憶よりも記録に数字や日付・順番などとして残っている、いわゆる現実の自分のほうこそが、ある観点からしたら、虚構の自分なのではないかと思えてきたりして、愕然とする。
まあ、そういった縺れたこんがらがっている珍妙な、どっちが現実でどこからが虚構なのか分からない、不毛な弁証法に足を絡め取られているようなのです。
で、ロスの話になるけれど(実際的には、プライバシーをネット荒らしの存在から守るという意味もあるのはさておいて…散々迷惑を被ってきた)自分の立脚点が宙に浮いているってのもある意味、多少は図星。
いいように言えば、ロスか上海で書いているってことだけど、実際には自分でも居場所が見えていないってことかもしれない。
いずれにしても、ますます混迷の度を深める小生です。乞うご期待!
個人タクシーのほうは、資金繰りもそうだけれど、むしろ小生自身の将来展望の甘さで敗北です。
ま、いつかこの頓挫話もネタにするんだろうなって、ほくそ笑んでいる…(一体、誰が?)!
投稿: やいっち | 2008/01/22 04:37