獰猛なる信仰の行方
S.グリーンブラット著の『驚異と占有―新世界の驚き』(荒木 正純【訳】 みすず書房)を暇に飽かして一気に読了。
出版社の内容紹介によると、「新大陸を発見したコロンブスの「驚き」は、なぜ必然的に、その「土地の占有」と結びつくのか?多くの記録文書や報告、物語を解読しつつ、植民地化への心理機構をみごとに分析した出色の論考」だって。
1994年の刊行なので、新著とは言えない。
→ S.グリーンブラット著『驚異と占有―新世界の驚き』(荒木 正純【訳】 みすず書房)
本書を読んで、改めて感じたのは、世界を席捲し支配するのは、信仰と権威の強さなのかなってこと。思い込みの強さがある限り、どんな野蛮も合法化されるし正当化できてしまう。
世界支配は、富への欲望もあるけど、世界の風景を己が信仰の色に染め上げてしまおうという、獰猛なまでの信仰心こそがエネルギー源のように今更ながら思える。
本書については、「逸脱の修辞学 推薦図書」(ホームページ:「STUDIA HUMANITATIS」)の中の、「グリーンブラット『驚異と占有 ―― 新世界の驚き』(みすず書房)」なる項を参照するのがいいだろう:
新歴史主義を代表するグリーンブラットによるヨーロッパの異世界表象の歴史。マンデヴィル、マルコ・ポーロ、コロンブス、ラス・カサス、ベルナル・ディアスらによる外部の世界への関わりにドのような変化が見られるかを、とりわけ初期近代を分岐点として鮮やかに浮彫りにする。新歴史主義に特徴的なことだが、本書でも近代初期における表象の成立は、「言説」(discourse)を中心にして分析される。非ヨーロッパ圏との関わりにおいて最も大きな相違は、商人ないし旅行家として、その土地その土地の言語や土地の名称を記録に留めて行った(あるいはそう自称する)マンデヴィル、マルコ・ポーロと、国家の威信を背景として、侵略する土地に新たなヨーロッパ風の名前を刻印して行ったコロンブスとのあいだに認められる。かつては交換であり放浪であり、中心からの逸脱であった旅行が、収奪としての占有へと偏向していく。しかしこの両者は、元を正せば、「驚き」という、未知の他者に出会ったときの衝撃に端を発するという点では同じである。
(中略)
コロンブスの占有もまた、他の世界、未知の民族に対する称讃を含んだ「驚異」の言説によって彩られているからである。他者を他者として尊重するかどうかという当人の意図にはかかわらずに発動してしまう文化装置こそが問題なのである。したがって、マンデヴィル、マルコ・ポーロ対コロンブス、ベルナル・ディアスといった対立も、本書の最後では宙吊りにされてしまう。
← ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄 上 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(倉骨 彰訳 草思社)
この手の本を読むと感じるのだが、「最終的に示唆されるのは、占有の文化の中にある脱占有化の可能性、「仲介者」ないし「媒介」の果たす役割である。この辺の方向も、「脱構築」の思想家たちに大きな影響を受けている新歴史主義らしいところだろう」という点。
記述と分析は眩いのだが、最終的にはどれを読んでも同じ本の延長という感を抱かされてしまう。
歴史の事実を、という望みは最早、過去のもの。可能なのは「言説」(discourse)を弄くることだけなのか。
分析の鮮やかさが際立つだけに、小生のような古臭い、歴史の中に現実がいつか浮かび上がってくることを期待する、未だに(古風な言い方をすると)素朴実在論の蒙の域を出ないロートルには、何か目先がチラチラ眩く明滅するばかりで、立ち尽くし、置き去りにされていることを改めて痛感させられるばかりだ。
コロンブスの他の世界、未知の民族との出会い、驚異(あるいは驚異を飼い馴らしての、それとも自己瞞着して占有化)については、上掲書にも書いてあるが、例えば、下記の論考が参考になる。
一部だけ転記するが、長くはないので全文を読むべし:
「コロンブス500年:平等のなかで差異を生きる」:
ブルガリア生まれの記号学者トドロフは,その著書『他者の記号学』(法政大学出版局)において,コロンブスがどのようにインディオ(つまりヨーロッパ世界から見た他者)を見ていたかを分析している。コロンブスは,一方で,インディオを肉体的に美しく,精神的に善良だと称賛する。彼の筆にかかると,「この土地の者は男も女も,(……)これまで出会ったうちでもっとも美しい人だち」であり,「この世でもっとも善良で穏やかな人々」だということになってしまう。だが,まもなく,彼の評価は正から負へと文字通り180度転換する。ジャマイカ島で難破したとき,コロンブスは「残酷で,われわれに敵対するおびただしい数の未開人に取り囲まれている」と書いた。「もっとも美しく善良な人々」から「残酷な未開人」への大逆転である。
かくも簡単にコロンブスのインディオ評価が逆転してしまったのはなぜか。トドロフは,それが,「(相手を)認識しようとする欲望にではなく,状況についての実用的な評価にもとづく」ところからきていると言う。つまり,コロンブスの関心が,他者を理解することにではなく,相手が自分にとってどのような利用価値があるかという点にあったということだ。
→ ラス・カサス著『裁かれるコロンブス』 (長南 実 訳 アンソロジー 新世界の挑戦 岩波書店) 「「新世界」インディアスの発見者から被壊者へと転落してゆくコロンブスを、彼の同時代人が、きびしく糺す、異色の「コロンブス伝」」…。この手の指弾の書の手厳しい批判をかわすには(懐柔するには?)、「言説」(discourse)を駆使するしかないのだろうね。どのように懐柔しているかって?「コロンブス500年:平等のなかで差異を生きる」などを読むと分かる。日本において南京大虐殺やら従軍慰安婦問題やら沖縄戦での自決問題やらの瞞着の仕方と次元は違うが、欧米の流行の論客の言説を稚拙に真似ているってことなのかもしれん。
(ここでは参照できなかったが、下記のブログがコロンブスに関連して参考になる:
「世界史の授業 『1492』(1992年、アメリカ、リドリー・スコット監督)」)
まあ、それはともかく、昨年夏からのサブプライムの破綻に端を発する金融パニック寸前の騒ぎも、高度な金融工学の巨大な敗北の結果なのだろう:
「ビジネス・サブプライム問題・金融工学敗れたり」
こうした金融破綻も、いずれは乗り切っていくのだろうが、人文科学の分野が一時期は(今も?)「言説」(discourse)流行だったように、今は、経済の分野では金融工学一辺倒だ。
結論が見えているような気がしてならないのである。
驚異の世界に遭遇しても、独特の「言説」(discourse)の金融工学版かとも思える、金融における数学テクニックで「国家の威信を背景として、侵略する土地に新たなヨーロッパ風の名前を刻印して」いくというパターンを、今度は、マネーの世界全体に拡大して金融工学の色合いを、数式と記号を強引に刻印していくのだろう。
(08/01/26作)
「ザビエルや死して大分走らせし」
「歌舞妓人探しあぐねて木阿弥さ」
「歌舞伎の日阿国の踊りベリーに見ん」
「「茶の湯とキリスト教のミサ」に寄せて」
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