銀嶺創作日記
昨夜、久しぶりに掌編(短い小説)を書いた。
PCに向った時には既に夜半を回っていた。
何を書くあてがあってPCに向うわけじゃない。
というより、エッセイやレポートなどは一応はテーマがあって画面に向う…こともある。
→ 霙(みぞれ)のような小雪の降る中、いつものように自転車でスーパーへ。買物を済ませて自転車のほうへ向ったら、小鳥が一羽、スーパーの敷地でエサ探ししていた。自分のエサなのだろうか、それとも、この鳥は親鳥で、ヒナのためのエサを探してる?
(実際には、タクシードライバーの現役をやっていた時も、ほとんど徒手で画面に向っていた。書くテーマは机に向かい、PCを立ち上げ、あちこちのブログやらミクシィやらを見て回って、さんざんジタバタした挙句、ようやく覚悟を決めて書く…いや、書こうとしていた。何か書くことがあろうがなかろうが、書くってのがノルマだった。しかも、翌日は仕事を控えているので、テーマの決定から資料・情報集めの、そして執筆の時間を含めてタイムリミットは2時間。夜半を回った二時にはPCを閉じるのだ。絶対に寝不足でタクシーの営業はしない。これは鉄則である。)
が、創作となると、全く徒手空拳である。何もテーマは決めない。今日は書くと決めたら、書く。創作する。話を構想する。
いや、実際には構想などしない。
最初の一行を決める。それだけだ。
あるいは、何か、その日、その時、気になった、あるいはふと浮んだ一言、何かのイメージ。それだけが頼りだ。
とにかく、一行を書いてみる。一行にもならないで、ホントに何か分からない場面、光景、フラッシュバックのようなオレンジ色の焔の揺らめき、脳裏に一瞬浮んだ幻覚にも似たイメージ、それだけがモチーフとなる。
でも、幾ら掌編(原稿用紙で数枚の作品)に仕上げるといっても、PCの画面は空白である。
自分に与えた時間は二時間。その与えられた時間の中で書き上げねばならない。
幾つかのバラバラの場面が浮ぶ。あるいは思い出なのかもしれない。それとも、誰かに聞いた話なのかもしれない。
浮ぶ、というより、搾り出すといったほうが実状に近い。
実際、掌編をこれまで250個ほど書いてきた。星新一ほどの才能があるわけじゃなし、そういろんな話を創作できるわけがない。
まして、読者がほとんどいない。ほんの数人、いるかどうか。
いても、コメントをもらえるのはめったにない。
徒手空拳というより、時々、孤立無援を感じる。
誰も居ない野原で大声を出して鬱憤を晴らしているわけじゃない。
話は読まれて初めて話なのだと思う。生れた赤ちゃんが親に抱かれて初めて命が保障されるように。
空っぽの脳味噌から搾り出す。二時間という与えられた時間。その中で書き上げる。構想を練る時間が長ければ実際に書く時間がそれだけ減っていく。
出だしの一行を搾り出すために許される猶予はだから三十分が限度だろう。
以下、昨晩の創作を事例に書いてみる。
思い出なのか聞いた話なのか分からない断片的な場面が浮ぶ。
「ガキの頃、父の後に付いて土間に行った。」
「ネズミ捕りの金網が土間にあった。」
「土間の入口に祖父のさび付いた短剣があった。」
「ネズミ捕り用の毒団子を我が家の飼い犬が食べて死んだ。」
「家の近くのドブ川で犬の腐乱死体があった。」
(金曜日、居眠りしていて夢の中に小麦色に肌の焼けたビキニの、サンバか何かのダンサー?が現れた、もう少しで手が届くところで目覚めた!)
よし、これらのうちの幾つかを落語ではないが、三題噺のようにつないで掌編を仕立てよう、そう決める。
<ボク>もののジャンルで行こう。
ここまで三十分ほどだろうか。
二時間というタイムリミットを決めて創作するのは、ダラダラ、創作に取り掛かる時間を引き延ばしても、結局は創作に取り掛からないからだ。
怠惰なのだ。
同時に大袈裟な表現をすると産みの苦しみがあるのだ。
ネタがないのに書く。
まして、創作意欲が湧かないのに書くって、しかも、読んでもらえる見込みはまずないというこれまでの厳然たる事実があるにも関わらず書くって、結構、しんどい。
そもそも、この数年、創作するような状況ではなかったのだが(この点は今日は書かない)。
手応えのない執筆活動。何のために書くなんて、仰々しいことを言っても、素人の戯言に過ぎないだろう。文筆で一円たりとも稼いだことのない人間が書く悩み、なんて言ってもお笑い種であろう。
産む楽しみ。創作するという営為。虚構の空間を生み出すこと。
とにかく一行目をPCの真っ白な空間に記(しる)す。
すると、その一行が不思議なことに命を持つ。まるで一個の生命体であるかのように、虚構空間の中で生き物となる。
それは最初は路傍の石ころに過ぎない。川面に投げる石ころだ。
が、命のない石が水面に波紋を描く。複数の大小の波紋が点々とできる。それぞれの波紋は徐々に輪となって波となって広がっていく。
一行を画面に記したなら、一灯を投じたなら、刀を振り下ろしたなら、その一閃は時空を切り裂く。あるいは、時空に真空の時空を生みだす。
無の時空との立ち合いの一瞬。武士が誰か仇に立会いを、あるいは仇討ちを申し込まれたなら、本人の心の在り様や体の状態など、まるで関係ない。自分が失恋の極にあって心がボロボロで、呑んだくれて道端に突っ伏してしまいたい心境だろうと、そんなものは相手は知ったことじゃない。
やるしかない。書くしかない。
創作で生みだす時空は、ほのぼのしたものからギャグ的なものから恋愛モノから、スプラッターまではいかないが、えげつないもの、我輩は猫である風なものまでいろいろ。
不思議なことに落ち込んでいるときほど妙に滑稽な路線に走るような気がする。
← 目の前の白い物体をじっと眺める小鳥。エサなの? ゴミなの? って、首をかしげている。
啄ばまん餌か屑かは運任せ (や)
昨年もだけど、今年は一層、創作する気分とは遠い。生活状況も時間的なものも余裕はますますなくなっている。
そんな中、時間を掻き削るようにして創作する。
ああ、もっと心豊かなものを作りたい。
でも、実際にできるものは、多分、自分の心情の実際を裏書きするかのような情けないモノばかり。
仕方がないか。
とにかく一つは時間内に仕上げたんだし。
なんだかんだいいながら、創作している瞬間が一番楽しいんだから苦労も楽しみのうちってことなのだろう。
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