ベラスケス「侍女たち」の風景(後篇)
[本稿は、「ベラスケス「侍女たち」の風景(前篇)」の続編(後篇)です。]
小生の手には余るので、ネットで見つけたあるサイト(「ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解」)の説明を援用させてもらう。
→ バンヴィル,ジョン【著】〈Banville,John〉 高橋和久 小熊令子【訳】 『プラネタリー・クラシクス ケプラーの憂鬱』(工作舎) 本書は小説である。「ケプラーの憂鬱-詳細」参照。「「初めに形ありき!」宇宙における調和は幾何学に基礎があると信じ、天球に数学的な図形を探し求めたヨハネス・ケプラー。本書は、天文学に捧げた彼の半生を追いながら、科学的真理は幻想から生まれることを描いたヒストリオグラフィック(歴史記述的)・メタフィクションである。1981年度英国ガーディアン小説賞受賞作」だという。ケプラーは、プラトンの立体の夢を追ったのだろうか。
「フーコーの『言葉と物』も、それに近いと言えば近いことを問題にしています。「言葉」と「物」の乖離です。われわれは、「物」を見ているようで実は「言葉」を見ている。そういう意味で、われわれが生きている世界は「表象の世界」です。フーコーさんは、われわれが生きるこの現実としての「表象の世界」を鮮明に語るために、ベラスケスやドン・キホーテを取り上げているのです。物なら物という実体的な裏付けを欠いた「表象」が浮遊し、そんな「表象」たちが互いに他を支えあう形で自己完結している世界。そこにどんな力学が働いて「権力」や「主体」や「知」が生まれるか。これを説明するためです。」という説明も面白いが、ここは飛ばす。
以下が肝心な点だろう:
美術史のご専攻ということなら、ベラスケスの関係で「フーコーの表象論」という言葉に出くわしたのではないでしょうか。おそらくそうだと思いますので、これで話します。 が、ベラスケスの『侍女たち』について話す前に、対比材料として「ふつーの絵画」を思い浮かべていただきたいと思います。フランドル派みたいな、わりと写実的な絵画です。風景画の場合、絵画の画面はいわば「透明なガラス板」です。画家は風景をキャンバスに写し取り、鑑賞者は写し取られた風景を、画家が見たのと同じ視線で眺めます。画家の「視線」と鑑賞者の「視線」は重なり、透明な画面を通して「見られる風景」と関係しあっています。
人物画だともう一つの「視線」が加わります。モデルの視線です。モデルは画面から画家/鑑賞者を見返しているかもしれません。または、画面内で別の何かを見ているかもしれません。が、前者の場合でもモデルと鑑賞者との間には「見る・見られる」関係があり、それは画面の内と外との間での関係です。いずれの場合にも、鑑賞者と画家は画面の外にいます。
風景画の場合でも人物画の場合でも、「見られる絵画」と「見る・見られる」関係の中で関わりあう別の項、「見る者」「描く者」は「画面の外にいる」。このことをご確認ください。これが対比のポイントです。では、17世紀スペインの宮廷画家、ベラスケスの『侍女たち』です。
絵画を言葉で説明するのは難しいのですが、kunstさんはおそらく図版をお持ちでしょうからご覧になりながら読んでください。図版をご覧になれない他の読者も、上に書いた「ふつーの絵画」と対比すれば何が問題かはわかると思います。
で、画面ですが、宮廷の一室です。人物は都合11人。それと犬一匹。
注目点はいくつかありますが、まず第一に「画家自身が登場している」ことが挙げられます。ベラスケスらしき画家自身が、画面左手に、絵筆とパレットを手にしてまっすぐこちらを見ています。「鑑賞者を見ている」ということです、いちおう。…「いちおう」と言ったのは、この画家が取り組んでいる絵画もまた画面に描かれているからです。画面左端に、大きく。ただしこちらから見えるのは裏側です。表側は当然画家の方を向いています。だから鑑賞者には見えません。しかし画家が何を描いているかは察しがつきます。これが注目の第二点です。
画面のほぼ中央、部屋の奥の壁に鏡がかけてあります。その鏡には二人の人物が映っています。スペイン国王フェリペ(4)世とマリアーナ王妃です。画家はこの二人をモデルに絵を描いているのです。そのモデルである国王夫妻は、実に「鑑賞者と同じ位置に」立っていることになります。
そして第三点。その鏡のやや下に、こちらを見ている王女マルガリータ姫が描かれ、彼女に視線を向ける若い侍女がその両脇に。画面右端にはオバサン侍女と子ども。オバサンはまっすぐこっちを見ています。ここで、王女マルガリータとオバサン侍女は「こっちを見ている」と書きましたが、彼女らが見ているのは「国王夫妻」です。「ふつーの絵画」なら「画面の外」にいる画家や鑑賞者を見返すはずの視線が、ここでは画面内に(反射して)登場している国王夫妻に向けられているのです。
さらに第四点。「鑑賞者」までもがこの絵画には描き込まれています。画面中央の鏡のすぐ右に開いた扉があり、この扉のところで一人の男がこちらを見ています。描かれた空間の一番奥から、こちら方向を見ているのです。すなわち彼だけが、描かれた空間全体を一望のもとに視野に収めているのです。「国王夫妻の肖像画を描いている現場の様子をちょっと見に来た男」として。← Diego Velazquez『 Las Meninas (1656)』 (画像は、「ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解」より)
フーコーはこの作品を分析して「代理表象の体系によって自己完結している」と評しています。この絵画を描いているベラスケス自身は「絵筆とパレットを持った画家」として「表象」され、真のモデルである国王夫妻は、本来なら画面の外にいるはずの鑑賞者の位置を占めつつも「鏡」に反射する形で「表象」され、国王夫妻に場所を奪われた鑑賞者までもが「様子を見に来た男」に代理「表象」されて画面に描かれています。
上記の「対比のポイント」を想起していただければ、フーコーが何を言いたかったのかはおわかりいただけると思います。すなわち、「ふつーの絵画」ならば画面の外にいて、描かれた事物・人物と「見る・見られる」関係を取り結ぶ画家や鑑賞者が、「代理表象」される形で画面の中に取り込まれてしまっている、ということです。絵画を成り立たせている制作・作品・鑑賞というすべての諸関係が画面の中にある。そういう意味で「自己完結している」のです。フーコーが何のためにこんなことを言ったのかについても軽く触れておきます。
鏡を2枚、向かい合わせに立てて、その間に立って鏡を見るとどうなりますか。「自分の姿」が無限に連なって見えて、とても不思議な気分になりますね。これと似たようなことなのです。つまり、「見る自分が見られる自分であり、見られる自分が見る自分である」というこの関係が、無限に連鎖している。この例では「前と後ろ」という二方向一次元でこういうことが起こっていますが、現実社会では多方向多次元でこういうことが起こり、その網の目が「主体」や「知」や「権力」を成り立たせているのだと、彼は議論しています。「見られること」で主体が成立し、その主体が「見ること」で他の主体を成り立たせる。こういうふうに相互に表象しあって映じているのが「世界」だということです。
ここで注目して欲しいのは、フランドル派の絵画を普通の絵画だとして前提していること。
つまり、「風景画の場合、絵画の画面はいわば「透明なガラス板」です。画家は風景をキャンバスに写し取り、鑑賞者は写し取られた風景を、画家が見たのと同じ視線で眺めます。画家の「視線」と鑑賞者の「視線」は重なり、透明な画面を通して「見られる風景」と関係しあっています」という。
評者は、彼のいう普通な絵に比べると、「人物画だともう一つの「視線」が加わります。モデルの視線です。」として、以下、縷々、丁寧な説明と解説を与えてくれるわけである。
→ リサ・ランドール著『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』(向山信治/監訳 塩原通緒/訳、日本放送出版協会 ) 「科学の歩みところどころ 第22回 太陽系の解明 鈴木善次」の「ケプラーの夢」なる項目はケプラーの正多面体の理解の上で参考になる。但し、末尾に「こうして、天体力学と望遠鏡の力によって太陽系の仲間は次々に増えていった。ケプラーがはじめ信じた幾何学に基づく宇宙構造は、彼自身の見出した諸法則を糸口にもろくもくずれ去ったのである」とあるが、確かにケプラーに即した夢は潰え去ったかもしれないが、リサ・ランドール著の『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』などを読むと、宇宙像を考え理解する上で、高度に抽象的な次元に高まっているとしても、今も宇宙の深奥に幾何学を見る、見てしまうという趨勢は変らないように思える。
が、そもそも、こうした「風景画の場合、絵画の画面はいわば「透明なガラス板」」だと言えるに到るには上記したような宇宙観(世界観・宗教観)の大転換があってこそ成り立ちえたものなのであろう。
その際、そうした<普通の風景画>においては、実は、そこに風景が描かれていると同時に、あくまで(当然のことながら)徹底して観察者の目が隅々に到るまで行き届いている。我々は世界を宇宙を眺めている。自然を眺めている。が、そうした自然はそこにあるだけではないだろう。人間の目と決して切り離しえない。一枚の木の葉に到るまで人間の目と不可分離にそこにある。目線が世界中に点在し偏在している。眼差しは人間特有のものなのかもしれないが(断定は避けるが)、常に人間の目に晒された自然が描かれる以上は、描かれ観察されている自然は人間の目そのものなのではないかという点を忘れるわけにはいかない。
近世に到っては普通の風景画であっても、「見る自分が見られる自分であり、見られる自分が見る自分である」というこの関係が、無限に連鎖している」こと、「現実社会では多方向多次元でこういうことが起こり、その網の目が「主体」や「知」や「権力」を成り立たせている」という事態が現出している。
だからこその近世の風景画なのではないか。
ベラスケスの『侍女たち』において、従来なら宮廷画であれば許されないだろう遊びの余地が効いているのも、中世までの絶対的な秩序の地盤からの崩壊があってのものだろう。
「国王夫妻の肖像画を描いている現場の様子をちょっと見に来た男」として鑑賞者が意識(自覚)されるというのも、風景画にあって無縁な事態ではないように思える。鑑賞者は、風景画を描いている現場の様子をもちょっと思い浮かべたりしないであろうか。自分(鑑賞者)も、描き手たりえる可能性を潜在させている。何故なら高踏的な、押し付けの、天から下げ渡された宗教的隠喩の巣窟ではなく、誰もが潜在的には可能な観察者(描き手)たりえることの証左が風景画のはずなのだから。
その意味合いは人物画と同じなのではないか。
← ミシェル・フーコー/著『言葉と物 ―人文科学の考古学―』(渡辺一民/訳 佐々木明/訳、新潮社) 読んでよく分からなかったが、イメージの喚起力がある!
風景画は人物画であっても同じことだが、従前の宗教的縛りからの解放と相関する宗教的恩寵や秩序の喪失とは、世界を徹底して自分の目で見ることを強いられる。自由という呪縛の始まりなのかもしれない。
世界は自分が、あるいは自分と同類の者達が観聴きしたその世界としてその相貌を現して来る。世界が貧しいとしたら、それは眺めるものが貧しいのであり、世界が豊穣に思えるとしたら観察者の目や心が豊かなのである。
この傾向を徹底したらニヒリズムに到るのか、通り一遍のリアリズムに終わるのか。
「教えて進路Q&A あなたの質問にみんなが回答する!Q&A フーコーの表象論について教えてください」で、上で引用した同じ人物が下記のようにコメントしている:
「絵画が表象するもの」というのは絵画の画面に見えているものを指し、「絵画によって表象されるもの」というのは画家が描こうとした対象物を指します。フランドル派みたいな写実的な絵画では、前回書いたように絵画そのものは「透明なガラス板」になることを志向します。画家は、自分が見たものと同じものを鑑賞者にも見せようとします。ここでは「絵画の中のもの」と「画家が見ているもの」とを一致させることが目標となっています。
それが19世紀には崩れてくるということでしょう。この過程は前回挙げた『闇の光』でも紹介されています。特に印象派の登場によって、絵画は「ガラス板」ではなくなって「絵画の画面そのものが自己主張を始める」ことになるのだ、と。印象派では、対象を忠実に描き取るばかりではなく、画家の「印象」も画面に投影され、ある場合はぼんやりと滲んだ画風になり、ある場合は微細な「点」に分裂・解体された画風になります。画家の印象を投下された画面(表象するもの)は、もはや「表彰されたもの」と一致しないのです。
ここまで来ると話が飛びすぎる。小生はまだ18世紀に留まっているのだし。
先走ってしまったついでなので(?)、本稿での話題からは離れるのだが、M.フーコーの『言葉と物』から、賛否などは別にして、誰しもが印象的な文章として銘記はしないまでも脳裏に残ってしまっている末尾の一節を転記する(Essais d'herméneutique フーコーの思い出」参照):
ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。比較的短期間の時間継起(クロノジー)と地理的に限られた截断面--すなわち、十六世紀以後のヨーロッパ文化--をとりあげることによってさえ、人間がそこでは最近の発見であるという確信を人々はいだくことができるにちがいない。知がながいこと知られることなくさまよっていたのは、人間とその秘密とのまわりをではない。そうではなくて、物とその秩序に関する知、同一性、相違性、特徴(カラクテール)、等価性、語に関する知を動かした、あらゆる変動のなかで--すなわち<<同一者>>のこの深い歴史のあらゆる挿話のなかで--一世紀半ばかり以前にはじまり、おそらくはいま閉ざされつつある唯一の挿話のみが、人間の形象を出現させたのである。しかもそれは、古い不安からの解放でも、千年来の関心事の光かがやく意識への移行でも、信仰や哲学のなかに長いこととらわれてきたものの客観性への接近でもなかった。それは知の基本的諸配置のなかでの諸変化の結果にほかならない。人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば--そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。
--M.フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物』(新潮社、1974年)。
それにしても、小生は初めてこの一文を読んだ時、一体、何に感じ入り衝撃を受けたのか、一向に思いだせない。
お蔭で……、時の流れは残酷なもの、でも、恩寵に満ちているものだということを痛感する。
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