「ケプラーの夢(ソムニウム)」再び
昨年の秋口、「ケプラーの夢(ソムニウム)」と題した記事を書いた。
題名にあるとおり、「ケプラーの夢(ソムニウム)」が話の焦点なのだが、いかんせん、小生のこと、例によって例の如しで前置きが長い。
肝心の話に入るまでの導入部が本文の半分を占めている。
なので、ここに肝心の部分のみを若干の加筆の上、転記する。
何を今更と思われるかもしれないが、拙稿「月探査機「かぐや」 打ち上げ迫る」のコメント欄に記したように、「「かぐや」ハイビジョンカメラによる映像「地球の入り(Earth-set)」」といったニュースが最近、ちょっと話題になったからである。
→ 『ケプラーあこがれの星海航路』(平成16年 「カナリーホール」にての公演のチラシ画像) 詳しくは本稿の末尾近くを参照のこと。
「ケプラーの夢(ソムニウム)」
渡辺正雄著の『文化としての近代科学』(講談社学術文庫)から話題を一つ。
日曜日、列車中で読んでいて興味を引いたので、是非ともメモしておきたかったのだ。
それは、表題にあるごとく、「ケプラーの夢」である。
ケプラーとは、ヨハネス・ケプラーのこと。ソムニウムとは「夢)」の意。
さて、ジョン・ミルトンの『失楽園』やヘンリー・ムーア、サムエル・バトラー、ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズらに影響を与えた「ケプラーの夢(ソムニウム)」とは。
これについては、同氏による訳書がある。
ヨハネス・ケプラー著『ケプラーの夢』(講談社学術文庫)という格好の本があるのだ。
商品の説明によると、「月の上から見ると地球は太陽を中心にまわっている――本書は、天動説が主流の17世紀に、ケプラーが太陽中心の地動説に基づいて書いた史上初の近代科学的「月旅行物語」である。主人公は、精霊の力を借りて月にたどりつき、地球では経験したことのない天文・気象現象、地形、生物に遭遇する。未知の世界に想像の力で挑むという精神は、ジュール・ベルヌ、H・G・ウェルズらに受けつがれ、彼らの宇宙旅行物語に多大な影響を与えた。」というもの。
今夏、「ジュール・ヴェルヌ著『月世界旅行』」なる本を読み、結構、ジュール・ヴェルヌの世界に魅入られた小生としては、読み流すわけにはいかない話題である。
「ケプラーの夢」という本ではないが、松岡正剛氏もケプラーには早くから注目していて、「松岡正剛の千夜千冊『宇宙の神秘』ヨハネス・ケプラー」なる記事をものしている。
できればこの書評を読んでから、以下の記事に進んでもらいたいが、いずれにしろ、ケプラーという人物はガリレオに負けず劣らず、桁外れの天才なのである。
← ジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館) 本書は最近(07年秋?)、重版となったとか。小生は未だに手にしていない。「私たちは20世紀に生まれた 夢遊病者たちの確執」が本書の書評として秀逸。
ヨハネス・ケプラーは、一時、彼の師であったティコ・ブラーエから得た膨大な惑星観測記録から有名なケプラーの三法則を導き出したことは知られている。が、数字の羅列の記録から法則を導き出すには、ケプラーの天才と、同時に新プラトニズムの哲学に拠って立つこと、同時に何らかの法則があるはずだという信念(むしろ、可能性としては妄想に過ぎなかったかもしれないのに)などがあって初めて可能となった。この経緯の一部に付いては、上掲の「松岡正剛の千夜千冊『宇宙の神秘』ヨハネス・ケプラー」を参照願いたい。
「ティコ・ブラーエは、当時ヨーロッパでもっとも著名な天文学者の一人で、はじめて組織的な天文観測を行なった偉大な経験主義科学者であり、科学の近代的手法をうち立てた創始者ともいえる。彼の40年間の惑星観測記録には、ケプラーの歴史的発見の鍵が隠されていた」以下、「ジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館)」に見られる勘繰りさえ、萌させるほどに至難の業だったのである。
ヨハネス・ケプラー著『ケプラーの夢』(講談社学術文庫)については、「西村昌能の業績一覧」の中の、「月の発見」、その「3.最初の月旅行計画」項を参照する。
ここにあるように、本書は、「月を題材にしたSF小説」なのである。
「人が月に向かいそこから地球を眺めるとどういう様に見えるかというものでした。
その本の題名は「夢(ソムニウム)」といい、最初の手稿は1609年に書かれ」、「理論家らしく、正確に月から見た地球の様子・宇宙旅行の困難さ・カリレオが見た月の様子を細かく書いてい」るのである。
→ ヨハネス・ケプラー著『宇宙の神秘』(大槻真一郎・岸本良彦 訳、1982 工作舎) (画像は、「松岡正剛の千夜千冊『宇宙の神秘』ヨハネス・ケプラー」より。この頁は読むべし) 『機械の中の幽霊』などで有名なA・ケストラー絶賛の古典的名著! 尚、「宇宙の調和 ヨハネス・ケプラー著 2008年刊行予定」ということで、「『宇宙の神秘』も同時に復刊予定」だとか。→ 「これからでる本 工作舎」参照。
ただ、「月へは悪魔(精霊)に連れて行ってもらったことにしてい」る点が問題だった。さすがにどうやって月へ行けばいいのかについては、アイデアが浮かばなかったということか。
その結果、「その正確さと登場人物の様子から、彼のお母さんは魔女としてとらわれの身になってしまったのです。ケプラーの母親カタリーナは、つむじ曲がりの寡婦の老人で、町の貴族たちに議論をふっかけて困らしていたのでした。おまけに幻覚剤も売っていたので、彼女を疎ましく思った有力者によって魔女であると訴えられたのです。彼女が74歳のときでした。 ケプラーは母親がとらえられたのが、自分の本のためであると考えしまったのです。そこで、ケプラーは母への魔女の疑いを晴らすため膨大な注釈を後に書いているのです。ケプラーの論理的で理性的な弁護で、母親は解放されます。」
母親は解放されたが、拘留生活中のひどい扱いがもとで、救出直後に亡くなっている。
さすがケプラーで、「憤懣やるかたない思いのケプラーは復讐を決意する。復讐とは、この『夢』を出版して、あの悪意ある人物がそれをいかに歪曲・悪用したかを暴露することである。出版するために彼は、一六二二年から一六三〇年までかかって、二二三項目の「註」と「付記」および「付記への註」とを書き加えた。そうすると、その分量は本文の四倍くらいになってしまった。」のである。
惜しむらくは、「彼の生存中に『夢』はついに出版をみることがなかった。遺族たちの並々ならぬ努力によってそれが世に出たのは一六三四年のことであった。」(以上、本書p.157-8より)
このSFの土台となったのは学生時代に書いた論文だった。学生が論文を書いて、それを教室で発表してディスカッションすることがヨーロッパの大学では行なわれていたのである。
「月の上の観察者に天文現象はどのように見えるか」と題するものだった。
← アーサー・ケストラー 著『機械の中の幽霊』(日高 敏隆 翻訳 , 長野 敬 翻訳 筑摩書房) 本書が「ただ今、復刊投票受付中!」だとは驚いた。
実は、「このテーマにはもうひとつの意味もあった。教室でのディスカッションでケプラーがぜひ取り上げたいと思っていたことなのであるが、月の上では、地球上よりも天文現象は複雑である。月の上の住人はそれを、対象となっている諸天体がそのように複雑な動きをしているものと受け取るであろう。というのは、月の住人は当然、自分たちの月は止まっていると思っているからである。ところが、その月が実は地球の周りを回っているのだということがわかれば、すべての天文現象ははるかに簡単に説明されることになるだろう。このことを教室の誰もが認めたならば、次に、それと同じ理由で、もしも地球が公転しているものとすれば、諸惑星の順行や逆行もずっと簡単な体系で説明できるではないか、というように論じて、まだ一般には受け入れられていなかった太陽中心体系について、クラスメートを納得させることができる。そういう効果をケプラーは期待していたのである。」(本書p.155)
この論文は採用されなかった。そこでSF『夢』と題して月旅行物語に仕上げたのだった。
上で、「「月へは悪魔(精霊)に連れて行ってもらったことにしてい」る点が問題だった。さすがにどうやって月へ行けばいいのかについては、アイデアが浮かばなかったということか」と書いている。
ケプラーの名誉のためにも、若干の補足の必要を強く感じる。
「ケプラーのこの著作には、未知の世界に挑んで、手探りで、想像の力によってでも、何とか知識を広げていこうとする彼の意気込みが随所に感じられる。そして、それにまじって、彼のユーモアもあればペイソスもある。(中略)精霊が人間を月へ連れていく道中での呼吸の問題は、水をふくませた海綿を鼻孔に当てておけばよいという簡単なものになっているが、人間を地上から宇宙空間へ発進させるときのショック軽減上の注意やら、途中ではいわば無重力状態での慣性的な運動になることがあるといった想定や、月面に軟着陸させる配慮などもあって、まだ近代力学も成立していなかったこの時代にどうしてここまで考えられたのか、不思議なほどである。」(本書p.161-2)
→ 渡辺正雄著『文化としての近代科学―歴史的・学際的視点から』(講談社学術文庫)
人間臭さがプンプンするケプラーに惚れこんだ人は多いようで、上で松岡正剛氏を紹介したが、ほかに、たとえば、「ケプラー あこがれの星海航路」なる芝居の原作を書いた、劇作家の篠原久美子さんもその一人のようだ。
「下村健一の「眼のツケドコロ」にて、彼女へのインタビュー記事が読める。
ここでは言及することはなかったが、「科学の歩みところどころ 第22回 太陽系の解明 鈴木善次」は、ケプラーら、惑星発見と太陽系の解明の歴史の大枠を理解するのに参考になる。
さらに、「ビデオ『COSMOS(コスモス)』 紹介」なる興味深く面白いサイトを紹介しておく。
カール・セーガン著の書籍版ではなくビデオ版『COSMOS(コスモス)』(全13話)の「第3話『宇宙の調和』の後半30分が,ケプラー物語になっておりこれが,非常に面白く,詳しい内容になってい」るという。
ビデオはともかく、とりあえずこの頁で解説を読むだけでも興味深い。
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コメント
プラトン、コペルニクスからガリレオ、そして観測や実験結果から導き出したことは、嘗て触れたワイン樽を測量した按配で、特に驚くべきことでもないのですが -その精密で厳密な観測をティコ・ブラーエに学ぶ訳で-、むしろ自然哲学的に体系化していく典型的な中世風の学者であることが注目されますね。
ニュートンが錬金術を目指していたのとは異なり、宗教改革の揺り戻しで自らも追われているだけでなく、母親への魔女裁判などもありながらも、コペルニクス的な独特の世界観に拘っていた事が瞠目されます。ガリレオの「それでも地球は動いている」よりも、ケプラーの世界観はなぜか灰汁が強いように思われます。恐らくある種の新教の影響力なのでしょう。
投稿: pfaelzerwein | 2007/11/18 05:18
pfaelzerwein さん
「松岡正剛の千夜千冊『宇宙の神秘』ヨハネス・ケプラー」にありますが、「 若きケプラーは「太陽が宇宙の中心だ」というコペルニクスの大胆な仮説に、6歳年長のガリレオがなおその仮説の同意に迷っている時期に、いちはやく賛成する。ここまでは優れた科学者の資質のままである。そしてすぐさま、では、その太陽をめぐる惑星系において、惑星が10個や100個ではなくてきっかり6個だけになっているのはなぜなのかということに着目する。そして、その理由を考えはじめた。ここまでも科学だ」から、「しかし、実際の太陽系はあきらかにこんなふうにはなってはいない。ケプラーの試みは完全にまちがっていたのである。どこから科学の推論は非科学の推論にすり替わったというのだろうか。飛躍なのか、陥穽なのか。
ところが、この誤解がなければケプラーの第1法則も第2法則もけっして生まれなかった。というよりも、この逸脱の幾何学こそが科学史上最初の宇宙に関する法則、すなわちケプラーの法則を生んだのである。
そうだとすれば、誤謬の仮説が新たな真実の科学をつくったという、この信じがたい逆転をおこした『宇宙の神秘』こそはケプラーの科学の萌芽を物語るすべての鍵になる」辺りの叙述はドラマチックです。
科学の凄み、ケプラーの凄みを感じます。
それでも地球は…なんて能書きなんかより、とにかく、自分の直感と推理・推論で強引なほどに結果的に正しい洞察と結論を導き出してしまう。
自然の驚異とかを思うと同時に、人間自体の驚異を感じる瞬間です。
「コペルニクス的な独特の世界観に拘っていた事」の背景や土台に「ある種の新教の影響力」が作用していたのかもしれないけれど、小生には分かりかねます。
後日、オランダ派の絵画を採り上げるつもりなので、その際にこの辺りのことに触れることになると思います。
カルヴィン派の国、スピノザやデカルトの居住を許容した国オランダは、やはり特殊な国ですね(マラーノの系譜とか)。
小生がこの旧稿をお色直しして、今回、再度、当該の部分をアップさせたのは、本文冒頭にあるように、「かぐや」が地球の出や入りの画像をハイビジョンで送ってきたってこともありますが(それにしても、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」は今更ながらに凄い映画だ!)、実は、他に(隠れた?)意図があってのものです。
それは、「空と山を眺め描くのみ…ラスキン」に寄せていただいたpfaelzerwein さんのコメントへの小生のレスに関係しています。
西洋画の歴史における<風景>の発見は、越宏一さんの著などにあるように、もっと古くからの宗教画などの積み重ねがあっての結果なのでしょうが、結果的に風景画が主題としてリアルに描かれるようになる歴史的背景というか風景画を描かしめるマグマの噴出のマグマ溜まりというのは、<コペルニクス的>転回があったればこそであり、その哲学的宗教的文化的大革命・大転回というのは、東洋人とりわけ日本人には想像を絶する革命だったと思えます。
それが、民衆レベルからの世界観の転回に到るには百年単位の時間を要したのでしょう。
その結果、上掲の記事へ貰ったコメントへのレスに書いたような仕儀に到ったと、単純な構図過ぎますが、小生には思えるわけです(以下、「空と山を眺め描くのみ…ラスキン」に書いたレスからの転記):
見上げる空の雲のその先に天を、つまり神や神の秩序を思うのではなく、宇宙を見る、永遠の沈黙を感じ取る、無際限の無と未知を予感する。
となると、風景を眺めても、森の奥に得体の知れない妖精や魔物をではなく、人間が分け入って調査・研究の対象となり、探求の手を待つ諸々の生物や未知を予感する。
そこには神の神秘ではなく、探求の余地のある沃野を見る。
宇宙も森も山も海も空も、人間が、人間の認識がその触手を伸ばし、万物の原理を探り出そうとし、万物に命名し、分類し、神の秩序ではなく、人間の認識(科学)で以て知的に構成された秩序を宛がっていこうとする。
空に神の秩序ではなく、この無限の空間の永遠の沈黙にただ怯えるだけでなく、いつかは人間が分け入ることの可能な世界として再認識し始める。
(転記終わり)
日本の<風景画>は、特に戦国時代から安土桃山時代の屏風絵(襖絵も含め)を見ると、その辺り、なし崩しに、つまり、西洋でのコペルニクス的転回など飛ばして、西洋画の歴史で風景画が発見され描かれ始めた絵画(構図)の影響をモロに受けているように思えます。
まあ、これはまた別の話になりますね。
とにかく、ケプラーやガリレオ、ブラーエ、パスカル、デカルト、世界観・宇宙観が大変貌しつつあった時代の精神の大変貌も想像を絶して鬼気迫るものがあったのでしょうね。
投稿: やいっち | 2007/11/19 00:18
「自分の直感と推理・推論で強引なほどに結果的に正しい洞察と結論を導き出してしまう。...人間自体の驚異を感じる瞬間」 -
これが要点と私も思います。「正しいと思い込む」驚異は、勿論、脅威です。それはアインシュタインのみならずニュートン自身らも覚めた眼で見ていた筈なのです。これは認知能力の限界設定もしくは世界観以外の何ものでもありません。するとリンクにあるように「誤謬の仮説が新たな真実の科学を」といった表現自体が全く可笑しい。
ケプラーの場合も、「踏襲」されたイメージは初めから決まっていた訳ですから、ワイン樽を測るように狡い気持ちでしこしこと進めて行くだけです。これは何も今日の研究者と何一つ変わらない。ただ違うのは、その信仰の拠り所ですね。
ですから、
「誤謬の仮説が新たな真実の科学をつくったという、この信じがたい逆転をおこした『宇宙の神秘』こそはケプラーの科学の萌芽を物語るすべての鍵」
の叙述に流石に「宇宙の神秘」と鍵括弧がついてこそいますが、このとんでもない記述こそが、ラスキンではありませんが、独特の信仰を持った「髭面文化人」の似非科学か科学趣味を表わしていますね。恐らくアニミズム的な多神教的な信仰告白なのです。ここで話題としたロボット信仰も、こうした逸話を天才話にしてしまう天才信仰も大変滑稽なものです。
ある程度、そうした形而上に通じる魔力的なものを認めるとしてもです、そうしたものが不明瞭な「信仰」に向っている限り埒が明かない。ケプラーの場合も、そこがハッキリと見えないかぎり鍵どころか、その思考を追うことすら不可能でしょう。
ついでながら、
「万物の原理を探り出そうとし、万物に命名し、分類し、神の秩序ではなく、人間の認識(科学)で以て知的に構成された秩序を宛がって」
は、まさに科学の進歩とは正反対の理念で、これでは上で言う認知の閉じられた領域を出ないようですが、どうでしょう。これをして「例外の発見」等々色々ありますが、それはここで言う「直感と推理・推論」の発想とはまた異なる対象ですね。
「(隠れた?)意図」、楽しみにしております。
投稿: pfaelzerwein | 2007/11/19 16:53
pfaelzerweinさん
アインシュタインや排他律などのパウリ、ハイゼンベルク、数学だとガロアとか、ニュートンやケプラーらが二十歳前後など若い頃に得てしまった洞察。
それが断固、間違いないと明晰に見えてしまっているということ。
世の人がどう思おうと、正しいという確信。
そうした彼らにとっては、おっしゃられるように、「「踏襲」されたイメージは初めから決まっていた訳ですから、ワイン樽を測るように狡い気持ちでしこしこと進めて行くだけ」なのでしょうね。
ただ、それが周りの多くのものには(あとで俯瞰してみない限り)見えない。
当人たちは、苦しい状況や時期があったとしても、案外と淡々と、コツコツと研究を進めていったのかもしれない。
「空に神の秩序ではなく、この無限の空間の永遠の沈黙にただ怯えるだけでなく、いつかは人間が分け入ることの可能な世界として再認識し始める」の辺りは、コペルニクス的転回以後の時代の要請だったのではないかと思っています。
つまり、既にある長年蓄積されてきた、けれど、崩壊しつつある宗教的地盤と相俟った土台の上に立ってではなく、土台自体を含めて再構築を迫られて、新たな万物の根源を見る梃子を得ようとする(いずれにしても、人は、神が不在なら、神に代わるもっと抽象度の高い座標軸の原点を得たいと思うものらしい)。
「万物に命名し、分類し、神の秩序ではなく、人間の認識(科学)で以て知的に構成された秩序を宛がって」というのは、常に閉じられた体系になりがちな危険を伴っているのは事実でしょうね。
なので、あくまで常に検証と批判の目のもとに晒されての体系構築が目指されているように思えます。
それでも、リンネの自然分類じゃないけれど(その批判軸や論理的つながりの検証(検証可能・再現可能)の基準は、従前の自然学とはまるで違うのは当然として)、現今の科学に到るまで、閉じた学的系になる危険性を孕みつつも、個々の、あるいは集団の研究者らの「直感と推理・推論」で以て、新たな体系の構築に向かっているような気がします。
但し、常に根底から基盤が揺さぶられる可能性を排除しないという前提の上で、でしょうが。
「(隠れた?)意図」は、まあ、17世紀に風景画を今日に到りターナーやコンスタブルらに繋がるものにしたオランダ派の画家を誰か採り上げ、その作品を覗いてみようと思うものです。
その論理や洞察、土台となる哲学的見地の分析などは他の方の力に依存しつつとなるでしょうが。
でも、フェルメールやレンブラントは巨匠過ぎるので、誰かとっつきやすい画家に脚光を浴びてもらうつもり。
17世紀のオランダ派の絵画。どうしてあの時代に一気に風景画が変貌を遂げたのか。カルヴィン派の勢力が強かったから?
ルターは保守的な人間だったようだけど。
いろいろ知りたいこと、教えてもらいたいことがあります。
但し、これまでに書きアップさせたものの続編その外を書き上げ、アップさせるほうが先になります。
投稿: やいっち | 2007/11/20 00:22