空と山を眺め描くのみ…ラスキン
一昨年、「ノルウェーの画家エドワード・ムンクが代表作「叫び」の背景を赤く描いたのは、火山噴火のせいで本当に空が赤かったから?」という話題を巡って、あれこれ綴ったことがある:
「番外編「山焼く」」
→ ジョン・ラスキン 「早くから聖書と詩にめざめていたが、少年ラスキンをとりこにしたのは鉱物だった。天保2年の12歳のころ、鉱物に熱中して一人で鉱物事典を自作している」という。(文章・画像ともに、『松岡正剛の千夜千冊『近代画家論』1・2・3 ジョン・ラスキン』より)
ムンクが友人との散歩中に血のように赤い空を見たこと自体は、ムンク自身の下に示す言葉もあって、事実のようだ。問題は、その背景であり、その空を見ての感じ方の如何なのである:
夕暮れ時、私は二人の友人と共に歩いていた。すると、突然空が血のような赤に染まり、私は立ちすくみ、疲れ果ててフェンスに寄りかかった。それは血と炎の舌が青黒いフィヨルドと街に覆い被さるようだった。そして、自然を貫く果てしない叫びを感じた。
こうした天災、自然現象が社会や政治・経済・文化に及ぼす影響は甚大なものがある。
18世紀の日本での噴火に限っても(「18世紀の後半は異常気象」参照):
宝永4年(1707)に富士山大噴火
安永4年(1775)に三原山の噴火
安永8年(1779)に櫻島の大噴火
天明3年(1783)に浅間山の大噴火
これらのどの噴火も甚大な被害を人びとに与えたことは言うまでもない。天災が飢饉へとつながり政治的不安定や社会不安にも直結した。
結果として、社会や政治・文化も含め全てにおいて根底から変ることを強いた。
← ジョン・ラスキン John Ruskin 『Chamouni 1843』 (画像は、「A John Ruskin Gallery Drawings and Watercolors」より)
上掲の噴火の中で最後の天明3年(1783)に発生した浅間山の大噴火などは、その前後の「天明の大飢饉」の被害をこれでもかと拡大させたのは想像に難くない:
「天明の大飢饉 - Wikipedia」
「天明の大飢饉(てんめいのだいききん、1782年-1788年)」とは、「江戸四大飢饉の1つで、日本の近世史上では最大の飢饉」なのである。
この時の浅間山の大噴火は日本のみならず地球規模で影響を及ぼしたという。
実は、浅間山の大噴火の前には同じ年、アイスランドのラキ火山の噴火があった:
1783年、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山が噴火(ラカギガル割れ目噴火)。この噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した霧は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ低温化・冷害を生起し、フランス革命の遠因となった。影響は日本にも及び、東北地方で天明の大飢饉を引き起こした。
そう、1783年には、浅間山の大噴火の前にラキ火山の噴火があって(日本では同年三月、岩木山の噴火もあった)、天明の大飢饉を未曾有の規模にさせたわけである。
日本において18世紀の後半の異常気象が社会不安を引き起こし、黒船の来航に象徴されるような欧米列強の到来と相俟って、幕末の政治的混乱そして明治維新へ到ったと考えても極論にはならないだろう。
→ 気球 (画像は、「気球 - Wikipedia」より)
科学的な発達もあり技術の進展もあって、空への関心が18世紀にはヨーロッパでは高まっていたという。
象徴的な技術というと気球の発明がある。
「気球 - Wikipedia」によると、「1783年6月5日: モンゴルフィエ兄弟が無人の熱気球の実験成功」とある。
「水素を使った無人のガス気球の飛行実験に成功」を経て、「1783年11月: モンゴルフィエ兄弟が熱気球の有人飛行に成功」、「1783年12月: シャルルがガス気球による有人飛行に成功」と、何故かこの年の気球の技術開発のスピードが凄まじい。
空の雲。
その雲を眼下で見たい。地上世界をも睥睨したいという欲求。
「一七八三年十一月の最初の有人気球飛行は、ヨーロッパ人の想像力に深い影響を与え、二世紀近くあとの最初の有人宇宙飛行と変わらない衝撃を与えた。一七八三年十二月、ロベール兄弟の最初の水蒸気球がチュイルリー・ガーデンから空に上がったとき、四十万を超す観客――パリ人口の半分――が、見物にやってきた。これまでで世界最大の、見物人数だった。なんといっても、人が空を飛ぶという長年の夢に、心を動かされないものなどいるだろうか?」(リチャード・ハンブリン著『雲の「発明」 気象学を創ったアマチュア科学者』(小田川佳子訳、扶桑社)より)
← ジョン・ラスキン John Ruskin 『Rheinfelden』 (画像は、「A John Ruskin Gallery Drawings and Watercolors」より)
人類が初めて宇宙へ飛び立った時の感激や興奮は、ガキだった小生も少しは共有している。
小学校の終わりごろ、天体望遠鏡のキットを買ってもらって、組み立て、夜になって家の庭に家族らと立ち、月を眺めたときの感動は今も鮮明である。偶然にも満月だったことも感動を深いものにした。クレーターがクレーターだと確認したのだ。
この同じ年、一七八三年にアイスランドのラキ火山が噴火がヨーロッパを、それどころか遥か地球の裏側の日本をも震撼させていたのだった(少なくとも日本の場合はラキ火山の噴火といった原因など想像も付かなかったろう。しかし人知を超えて、人知にお構いなしに天災の影響は時に世界に及ぶ)。
一七八三年の噴火の際に、ヨーロッパの人びとはどんな空を眺めたのだろう。
→ ジョン・ラスキン John Ruskin 『Study of Thistle at Crossmount』 (画像は、「A John Ruskin Gallery Drawings and Watercolors」より)
小生は未読だが、越 宏一氏著『ヨーロッパ美術史講義 風景画の出現』(岩波書店)などに見られるように、風景画自体は17世紀ヨーロッパで既に誕生していたようだ:
17世紀ヨーロッパにおける風景画の出現は,美術史のなかでどのような意味を持つのだろうか.絵画の画面から人物が消えてゆくプロセスを,古代壁画,聖堂壁画,タピスリー,中世書物の挿画,暦の飾画などをつぶさに見ながらたどってゆくことで,<風景>が芽生える長い道程が解き明かされる.ユニークな西洋美術入門
が、技術の進展と相俟って、18世紀の後半、特に終わりごろから19世紀に掛けて、風景画が絵画において主役(の一つ)に躍り出てきたのだろう。その後、カメラ技術の登場と発達が生れたばかりの風景画(や人物画)を描くことに根底からの問い掛けを齎すのだが、それはまた別の話だ。
← ジョン・ラスキン John Ruskin 『Study of Stone Pine at Sestri』 (画像は、「A John Ruskin Gallery Drawings and Watercolors」より)
自然科学することへの渇望が18世紀そして19世紀と人びとの間で高まっていた。半ばは見世物(興行)のようにして科学の最新成果が公表され話題を読んだ。
ニュートンの虹の解体(プリズム)の衝撃は記憶に新しかったし、地理学の発達もあった。気象学もルーク・ハワードらを端緒に急激に発達していた。植物学への関心もあって、世界中の山野をヨーロッパ人が歩き回った。どんな山岳地帯でも躊躇うことはなかった。
そう、風景画の誕生は既にあったとしても、広く人びとの間で「風景」が主役として現れたのは18世紀の終わりであり、19世紀の前半には一気に関心が高まったらしい。
「考える葦笛 風景の発見……ジョン・ラスキンの赤い糸」など参照。
→ ジョン・ラスキン John Ruskin 『The Glacier des Bossons, Chamouni』 (画像は、「A John Ruskin Gallery Drawings and Watercolors」より)
そう、ここにターナーがラスキンが登場する。あるいはフリードリッヒ。
時間がないので、ジョン・ラスキンについては後日、改めて採り上げることにしたい。
皮肉なことに、「同じ風景画家ターナーをことのほか評価したラスキンは、その反動として他の風景画家をおとしめる評価をしました。 ラスキンは、コンスタブルの絵は効果的でない彩色がされているとして、その著『近代画家論』の中で完全に無視してい」(「消えゆく田園風景を描き続けた「コンスタブル」と「大下藤次郎」」より転記。「大下藤次郎」については後日、採り上げるつもり)るというのだから、稿を改めてじっくり扱わないとまずいだろう。
← ジョン・ラスキン著『風景の思想とモラル―近代画家論・風景編』(内藤 史朗【訳】、(京都)法蔵館) 「ターナー、ワーズワース、ミケランジェロなど、画家や詩人の実例もふんだんにラスキンが大胆に論じ尽す『近代画家論』第3巻からの待望の翻訳」
今は、例えば、「絵の解説02 ジョン・ラスキン 坂本 勲」(ホームページ:「短歌結社 水甕」)を覗かせてもらう:
風景画家は、特に現場を前にして、形あるものと無定形のものを、はっきりと捉える眼を要する。そして外界の無数の物質を、画面の中に<表徴>として表現する時、否応なく原初的なものを目指すことになる。
画家はそこで<宇宙>の成り立ちを、恐らく全身でもって<視る>という<行為>を果たそうとするのだ。ラスキンは<視ること>に関して、こんな風に言っている。
「他人のスタイルを受け入れることは、他人の眼を通して自分の主題を見ることであり、他人の眼で見たものを紙の上に移すことでしかない」と。
上掲の頁は是非、一読願いたい。
[ジョン・ラスキンについては、いつ採り上げられるか分からない。よって、以下、本文にても参照したサイトも含め、参考になるサイトを示しておく(特に「硬い皮膚感覚の世界観」は、参考になる記事そして情報を得ることができる) (07/11/15 追記)]:
「硬い皮膚感覚の世界観」(Wein, Weib und Gesang)
「風景の発見……ジョン・ラスキンの赤い糸」
「ラスキンという人……ラスキンの赤い糸(2)」
「日本の山の「発見」……ラスキンの赤い糸(3) 」
「日本の風景画……ラスキンの赤い糸(4)」
「装丁の世界……ラスキンの赤い糸(5完)」 (考える葦笛)
「ジョン・ラスキン『近代画家論』1・2・3」(松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇)
「財団法人ラスキン文庫(THE RUSKIN LIBRARY OF TOKYO)」
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コメント
「自然科学することへの渇望が18世紀そして19世紀と人びとの間で高まっていた」 -
リンク先の「考える葦笛」さんの所でも話題としたのですが、この表現はいささか言葉が足らないかもしれません。自然科学の観察とかの面では18世紀に例えばアルプスの氷河などでも既になされています。だから19世紀の傾向は中産階級のビーダーマイヤー的な傾向と現在に通じる科学趣味がある一方、近代合理主義への懐疑とこれまた英米文明となるあらゆる商業化があると思うのです。
その中でラスキンの態度は上のどれにも辺るからこそ同時に否定もするのですが、そのような矛盾した主観的な態度が彼の性癖にも現れているような気がします。それにターナーなどはそんな客観的な自然にはもともと興味がなかった訳でしょうから。
PS.
先日の年度の件、リンクから直接戻れるのが「雪の関越道あわや遭難事件(3) 」までだったので間違いました。
投稿: pfaelzerwein | 2007/11/13 07:46
pfaelzerweinさん コメント、ありがとう。
「自然科学することへの渇望が18世紀そして19世紀と人びとの間で高まっていた」という文言が舌足らずってのは、ご指摘の通りですね。
「19世紀の傾向は中産階級のビーダーマイヤー的な傾向と現在に通じる科学趣味がある一方、近代合理主義への懐疑とこれまた英米文明となるあらゆる商業化があると思うのです」というのはまさにそのとおりです。
18世紀の終り、フランスなどを筆頭とする政治的変革(革命?)の嵐が吹き荒れている最中、一方では民間レベルでの科学的探究への欲求が現象として如実に現れてきていて、それは例えば本書(雲の誕生)では、イギリスでの事情を例に挙げて示されています。
初期の「アスケジアン・ソサエティ」での会合で、従前の王立科学研究所での会合とは違って、新たに示された理論や仮説がその確実性が徹底的に検証されたり、講演者の主張に質問が投げかけられたりした。
コーヒーハウスやパブでの演説同様、専門家のみならず関心のある熱心な聴衆が集ったとか。
実験が演じられると、入れ換え制で繰り返したりすることも。
何世紀にもわたる先覚者の科学的探究の流れが、そうした庶民レベルでも高まっているという話を書き込みたかったのですが、あっさりはしょってしまいました(山野への志向も、ちょっと触れただけ。以前、他の稿で扱ったことがある)。
錬金術の分厚い伝統もあるし、これに触れないのはあまりに片手落ちでしょうね。
(『レナードの朝』や『妻を帽子とまちがえた男』などで有名なオリバー・サックスに『タングステンおじさん―化学と過ごした私の少年時代』という本は、小生の愛読書なのですが、本書を読んで少なくとも二十世紀の半ばに到って、欧米には錬金術の伝統が脈々と生きていたってことに驚きました。錬金術とは呼ばず、「化学」と呼称すべきなのでしょうけど。)
要はこうした現象が(雲の話題もあり)、18世紀から19世紀に頻発した噴火で後押しというか刺激を受けたというちょっとした話題を提供するのが本稿の主旨です。
科学の庶民化は、社会の秩序が根底から覆ったことと相関しているように思えます。
あと風景の発見についていえば、なんといっても「コペルニクス的転回」という用語で示される世界観・宇宙観の根底からの大変革があることを話の前提に置かないと、話は見えないってことも示しておくべきなのでしょうね。
見上げる空の雲のその先に天を、つまり神や神の秩序を思うのではなく、宇宙を見る、永遠の沈黙を感じ取る、無際限の無と未知を予感する。
となると、風景を眺めても、森の奥に得体の知れない妖精や魔物をではなく、人間が分け入って調査・研究の対象となり、探求の手を待つ諸々の生物や未知を予感する。
そこには神の神秘ではなく、探求の余地のある沃野を見る。
宇宙も森も山も海も空も、人間が、人間の認識がその触手を伸ばし、万物の原理を探り出そうとし、万物に命名し、分類し、神の秩序ではなく、人間の認識(科学)で以て知的に構成された秩序を宛がっていこうとする。
空に神の秩序ではなく、この無限の空間の永遠の沈黙にただ怯えるだけでなく、いつかは人間が分け入ることの可能な世界として再認識し始める。
風景に、ターナーやフリードリッヒではなく、コンスタブルやラスキンらの姿勢で対しようとする、そうした姿勢の前提には、紋切り型になりますが、「コペルニクス的転回」ってことを大きく捉えておくのがいいのだろうと思うわけです。
但し、ラスキンはなかなか一筋縄で行かないので、後日、別な形で扱ってみたいと思います。
PS:「雪の関越道あわや遭難事件」については、読まれる方への配慮が欠けていたと反省。
(序)と(7:総集編)の末尾に目次を付しました:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2007/11/post_a17f.html
投稿: やいっち | 2007/11/14 14:20