雪の関越道あわや遭難事件(7)
[以下は、「雪の関越道あわや遭難事件」のあった翌日の夜に書いた日記である。
小生の記憶とは違う部分が結構ある。また、読み返して、ああ、そんなこともあったっけと思い出したことも。思えば随分、いろんな方に迷惑を掛け、あるいはお世話になっていたのだった。
文中の太字部分はこれまで書いた回想レポート(ドキュメント)とは事実関係が違う部分、あるいは記憶に全くない部分である。
今回は、予定では「雪の関越自動車道遭難未遂事件(7):これでエピローグにしたい!篇」をお送りするはずだった。
が、つい先日、当時の手書きの日記が見つかったため、当該の日の日記を転記した文を「完結篇:これが全貌でした篇」に代わるものとして提供する。
→ 手書きの日記の冒頭部分。レポート用紙だと6枚に渡って書いているのだが、活字にするとこんなものなんだね。当人が大騒ぎしていても、終ってみたら呆気ないエピソードに過ぎないってことなのか。
無論、その日の日記に「雪の関越道あわや遭難事件(7:完結篇)」なんて題名など付すはずもない!
実際、ほとんどが(7)として、期せずして「これでエピローグにしたい!篇」に相応しい総集編的記述になっているとも思える。
なお、思いつくままに思い出すままに熱に浮かされるようにして書いたものなので、文章的に変な部分もある。改行も原文のままである(まさに日記なので改行などする必要もない。というか、正直なところ、改行するもなにも、溢れ出る言葉を書き記すのに懸命だったのだ)。読みづらいことは重々承知の上で、できるだけ原文の雰囲気を残すためもあって、改行その他も読み手への配慮を欠いたままにアップする。
事情をご理解願い、寛恕を請うものである。
翌日の31日には、何ゆえこんな暴挙に走ったかや、こうして命からがらの旅から生還し(ちょっと大袈裟?)、自分の限界や愚かしさに否応なく向き合ったが故に心が剥き出しになり、恋話など赤裸々に延々と書き連ねている。
個人的には懐かしいが、野暮になるので手書きの日記のまま闇に埋めておく。 (転記の日に記す)]
「雪の関越道あわや遭難事件(7.完結篇:これが全貌でした篇)」
12/30(月)湯沢 雪. 富山.小雪 → 上る
とにもかくにも前代未聞の無謀なトライは終り、富山へ辿りついた。29日の関越の長いトンネルを抜けると一面の銀世界で、積雪しており、広い駐車場エリアでみんな車にチェーンをつけている場面に出くわした。チェーン乃至(タイヤ、4WDか否かetc.)を check している係員たちが何人もいたが、バイクのことは「いいよ」というばかりで、ほとんど無checkで高速の本線に入れたが、最初、ギアを調子に乗って2速、3速に入れたが、それこそ本線を数十mもいかないうちにいきなりバランスを失い転んでしまった。 とんでもない世界に踏み込んだ。それが最初の一歩だった。 後戻りのきかない前に進むしかない世界へ迷い込んでしまったのだ。 しかも最初に転んだときはバイクを起こしたのはいいが、方向転換しようとして、もしかしたら脇に側溝があるかもしれないと思いつつターンしていて、案の定、突っ込んでしまい立ち往生。どうにも抜け出せなくなった。それこそ何分となく往生しているところへ、家族連れの人が車を止めてくれて、何度ものトライの挙句、ようやく脱出できたのだ。 それからはローギアでそろそろと左手は半クラで、右手はブレーキレバーに手を掛けたまま、両足は常に路面につけたまま つっぱらかしたままで時速にしたら2kmもいかない――人の歩く早さの半分にも満たない速度でノロノロと走った。 しかしそれでもコケテばかりで、何度目かの転倒でとうとう右バックミラーが捥げ落ち、左のサイドガードのカバーが脱落し、散々こわれてしまった。 それでもまだ倒れたバイクを起こす気力だけはあったのだ、その頃は。 そのうちとうとう起こす気力がなくなってしまったとき、その時は人が車を止めて起こすのを助けてくれた。 それからまたソロソロと走り出したが、そのうち ――雪の高速に踏み込んで2時間ほど経ったろうか、路肩(?)で車を止めて chain を直している人がいたとき、それを見て、思い立ち、バイクのセンタースタンドをかけ、リアを開け、何かタイヤに巻く紐を捜し、まず荷物をかける網がみつかり、それを後輪に苦労しつつかけた。それは後輪の半分にも満たない部分をカバーするだけだった。 それから前輪にはバイクの(盗難防止用と)ヘルメットホルダー用を兼ねる chain があり、それをひっかけた。 それはそれこそホイールキャストの2個分にまたがるだけ。 ……さすがにそれだけでも効果が上り、2速に入れてメーター読みで20km近いスピードまであげて走ることができた。 シールドは雪で曇るので左手で拭いて(その拭う動作もゆっくりやらないと、その動作の反動だけで何回か転んだ)、時折シールドを開けて内側の曇りを拭い、とにかく明るいうちにせめて次のP.A.へとひた走った。 進んだ。 しかしS.A.を出て2時間以上経っていてもせいぜい数kmしか進んでなく、次のS.A.かP.A.まで20km以上はあるわけで、先は長く遠く遥かで、必死の思いで走って、そのうちようやく湯沢の超高層マンション、ホテル群の灯りが見えたときはホッとした。 やはり chain もどきを巻いて多少は正解だったのだ。時速が2km以下(転ぶのを入れると1km台)と10数kmとは大違いだ。そして5時すぎ頃、やっと次のP.A.に着いた。そこでそばを食べ、ひと息ついて ―― その前に、そのP.A.の駐車場に止めたとき、後輪のネットがズタズタになってその残骸だけが後輪のブレーキにひっかかっていた。 何か代わりのものを売店で探したが全く頼りになるものはなく、あきらめて走り出した。 そして高速の本線に入ろうとしたところで早速コケテしまった。起こす気力もなくなっていたが、そこへおまわりがやってきて起こすのを助けてくれた。そしてくらいから高速を出ろという。一般道には融雪装置もあるから、遥かに走るのはラクだとも。その言葉につられて高速を出ることにしたが、それが又、失敗のもとで、高速を出るところの料金所へ向かうところが長い登りのスロープになっていて、その中途で止まり、登れなくなってしまったのだ。というのは、後輪がスリップして登れないのである。
その料金所へ到る長い緩い登り坂だ。アクセルを吹かしても全く役に立たないのだ。押して登るしかなく、10mほど進んでは止り、進んでは止りを何度繰り返したことだろう。やっと料金所いたどり着き、一般道へ。しかし、一般道も積雪しているのは高速と同じだった。ソロソロと走り、脇をどんどん車に追い越されつつ、もう暗いし、すべるし、体力も気力もないし、これ以上は耐えられないと判断し、ホテルや旅館を捜した。スキーシーズン真っ盛りのこの湯沢で宿を見つけるのは至難の業だと思ったが、見つけるしかない。 すると 釣り人の宿『いなかっぺ』が目についた。宿とある以上、泊りもあるのに違いないと思い、そこへバイクを進入させた。軒先で店の人を呼んだ。最初に気付いた娘は可愛い娘だった(そういえばP.A.でそばを注文したときの娘も可愛かったっけ)。その娘は店のおかみらしい人を呼び、相談し、おかみさんが出てきて、ここはもう一杯だけど、といいつつも他の所に電話してくれて、泊るところあるから、ここで食事して、それからいかれ、と言ってくれた。 俺は釣り人の宿というくらいだから、魚の料理をと思い鮎料理をたのんだ。この心遣いは相手には通じなかったが。その店の主人らしい人に宿の場所を教えてもらい、いざその店の駐車場から出ようとしたが、それがまた大変で、ぐじゃぐじゃした雪のぬかるみにタイヤが埋まっていて、うまくバックできないのだ。 十分ほどかかったろうか、ようやく抜け出して、目の前の共石を気にかけつつ(chain や修理のことで―――それにもうバイクをこの地に置いて電車で帰省することを考え出していたのだ)一路その教えられた宿『旭屋』へ 2つめの信号を右折し、すぐ左折してすぐだというそこはすぐにわかった。バイクを明日出すとき苦労するだろうと思いつつ宿の脇のひさしのある車止めへ突っ込ませて止めた。
おばさんに、バイクをしばらく置かせてくれないかと早速たのんだが断られて、―――その前に、角にバイク屋があるのが目に入っていた。その日は日曜だからやっていないとしても翌日にはもしかしたらやっているかもしれない ――結局ははかない希望だったが)しょぼしょぼと部屋へ。 すぐに入浴し、缶ジュースを2本ほど飲んで それから食堂へ行った(おばさんがお茶を出すから食堂へこられと着いたときにいわれていた)。その場でも もう一度、バイクを置くことをたのんだが断られた。 仕方なく部屋へ戻り、すぐにフトンを敷いて入った。――部屋はセルフだし、お茶さえ用意してはくれない―――9時すぎだったが、ほんの少々29日の朝刊(東京の自宅から持ってきたやつ)を読んでフトンに入ってしまったのだ。消灯し、フトンの中で雪道で転んださいタイヤをとられバランスをくずすときの何ともいえない、不安で恐怖そのものの感覚が寄せ返す波のように蘇り、階下では(部屋は205号の角部屋)車が chain で走る音が断続的に聞こえてき、夜中には吹雪の音がすさまじく、明日どうしたらいいのか途方に暮れ、とにかく悪夢の一日だった――――。 そうしていつしか夜も明けた朝の7時前、8時前、そして9時前と何度となく目が覚め、起きよう、少しでも早く起きて、行動を起こそうとするのだが、体がいうことをきかないし、闘う気力が湧いてくれないのだ。 しかし、それでも get up して(9:15頃)外をちょっと覗いたら、なんと吹雪いているではないか。 今日一日ともてじゃないが晴れ間は望めそうもないのだ。階下へいくと、おばちゃんが食事にきなさいと呼んだ。 バイクが気になり外を見ると ない 聞くとバイクを脇へ止めたという――そのときはほんの少し期待した 脇へ止めたということは止めるスペースがあるということだから。だが、そこは屋根から雪の落ちてくる所で、とても何日も置けるような場所ではないのだった。 とにかく食事をし、もう一度相談したがダメで、こうなったらと見切りをつけ、とにかく出ることにした。バイク屋とそして共石のスタンドで何かの打開策が見つかるかもしれないと期待して とにかく出ることにしたのだ。出がけに主人が方々に電話してくれたが、ラチが開かず出発した。
バイク屋のことは その時の主人の電話で役に立たないと思い、パスし、共石へ向かった。2km弱の短い道のりがどんなに遠く思えたことか.それでもいつかはたどり着くものだ。 ソロソロとぬかるみ わだちの錯綜するスタンドのエリアへバイクを侵入させ、何かの人や責任者に chain のことや 針がねをくれとか 止め置いてくれとかたのんだが、まるで相手にされなかった。 その中で最後に一番頼りがいのなさそうに見えた男が近くにバイク屋があるからそこで聞いてみたら(あらかじめ電話帳で石打周辺のバイク屋にTel し ひきとってくれるのか 確かめたらとか)といい、とんかくその共石を離れた。 電話は通じて その教えられたひとつ目の信号を左折して、又すぐ左折してしばらくのところ、――国道からもそのバイク屋が見えるはず――を目指してノロノロ走った。 もしかしたらゆきすぎたのかと思うころようやく信号があり、見ると左手にYAMAHAの看板が雪に隠れかけながらも見えて、そこの店の前にバイクを止めた。表が暗く見え、休みのように見えたが、一ヶ所だけ開いているところがあったので、そこから覗くと、そこはバイク屋ではなくスノーモービル屋だった。修理工らしいのが見えた。 バイクを止めてくれないかというと、店の主人を呼んでくれた。しばらく立ち話して、主人が店のショールームらしいスペースに招じ入れてくれた。客と面談し、商談するカウンターに腰かけながら、バイクを止めることをしぶっていた主人も ようやく 止めてくれることを了解してくれた。最初はバイクを越後湯沢まで走らせ、その地下の駐車場に事情を説明して置かせてもらえといっていたのだが、そのうちその駅までの10kmの道がとても危ないと彼が判断したのだろうか、思いきって受け入れてくれたのだと思う。 ようやく、話がまとまって店の人が出してくれたコーヒーをすすりながら ひとごこち着いたのだった。 場合によってはワンシーズン置かせてくれるという。しかも、7,000円で。(自分としては数万円は覚悟していたのだ) そこの店の客とその彼の彼女らしい人がいて、その娘がまたとても可愛かったが――越後湯沢の駅までいくのをその店の修理工が送っていくところだったのを俺も相乗りさせてくれた。 とにかく親切にしてくれた。この恩義は忘れてはいけない。(下記注#参照) 湯沢駅までの道中も相手が話し好きだったこともあるが、ホッとしたこともあり、久しぶりにペラペラ途中の苦労などをお喋りした。 あとは 湯沢 → 長岡 長岡 → 富山と乗り継ぎして来て、4時前位にウチについた。
富山に着いたとき すぐ前にいた女が気になった。なんとなくオレを気にかけているようだったし―――
とにかく珍道中だった。忘れられない旅になるだろう。 am2:52
ガソリン 1,600
そば 400
高速代 3,500
いなかっぺ 2,000
旭屋 6,000
" ジュース 200
切符 7,000
立ち食いうどん 500
Taxi 850
おみやげ 1,800
(日記の欄外に「11:50頃、自宅出. 12時半すぎに関越入り.」というメモあり)
[(注#)ここにはバイクを置かせてくれた店の名前と店主の名前が記されている。現在も店は立派に営業している。店主も代わっておらず、ホームページで店主の顔を久しぶりに見たけど、懐かしい顔だ! お世話になりました!
翌年の春3月だったか、東京からこの店まで電車などを使ってバイクを引き取りにいったっけ。保管料と手土産などぶら下げて。不都合がなかったら、店名もご主人の名前も書くのだが、今はやめておく。
なお、画像は上から順に「手書きの日記の冒頭部分」「高速を降り一般道で見かけ入った料亭のパンフレット。鮎の塩焼き定食を注文」「同じパンフレットの表面」「裏面」「当日、関越道の少し手前、高坂S.A.で給油した時の領収書と塩沢石打I.C.
で降りた際の高速券」である。
最後の画像は、オマケ。「昨年9月帰省を終え上京する列車の車窓から富山の海をと撮った」もの。富山から越後湯沢に向かう列車から富山湾の東のはずれ付近を撮影した。こうした光景を愛でる間もなく列車はトンネル続きの道をひた走り、日本海の海はトンネルの合間に断続的に細切れに、時には眼下かのようになって見えるだけ。北陸自動車道だと26個のトンネルを通り抜ける。すると上越であり内陸部なのである。雪さえ降らなけりゃ、たまにはこんな穏やかな光景を見せてくれる北陸であり日本海なのである。74年に初めてオートバイで帰郷してから昨年まで、何十回、こうした光景と隣接しつつ北陸道を走ったことか。
この一連のドキュメントは今回で終わりです。
ここまで長い旅を付き合ってくださった方々、どうもありがとうございました!]
[全貌を見るため、目次を付します。 (07/11/14 記)]
[雪の関越自動車道遭難未遂事件(序):ノリック追悼記念レポート]
[雪の関越自動車道遭難未遂事件(1):希望的楽観も度が過ぎます!篇]
[雪の関越自動車道遭難未遂事件(2):高速道路の真ん中にも側溝がありました篇)]
[雪の関越自動車道遭難未遂事件(3):仙台でバイクと越冬篇]
[雪の関越自動車道遭難未遂事件(4):料金所通過が難関でした篇]
[雪の関越自動車道遭難未遂事件(5):高速道路のほうがましでした篇]
[雪の関越自動車道遭難未遂事件(6):番外篇:捜していた日記が見つかりました篇]
[雪の関越道あわや遭難事件(7):完結篇:これが全貌でした篇]
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コメント
「これが全貌でした篇」を結末とするこのシリーズ、
堪能しました。
改めて思いますが、本当に大変でしたね。
読んでいるだけでヘトヘトになりましたよ。
――それにしても、無事で良かったですね。
投稿: ゲイリー | 2007/11/09 17:50
娘っ子が必ず登場しますね。流石に30年前となると血気盛んな様子です。それにしても資料の写真などが古びて感じないのは私だけでしょうか?
「魔の山」の彷徨を思わせるようなものもありますね。普通なら早めに対策を考えたのでしょうが、こうした未知の経験では、先が判らないからあとの祭りになるんですね。目的地を目指す行為と未知の領域への誘いとが混同されている。デモーニッシュな誘惑というやつで、情念渦巻く文字通り雪をも熔かす転倒と彷徨でしょうか。
投稿: pfaelzerwein | 2007/11/09 17:57
ゲイリーさん
なんとか結末まで書ききることができました。
やはり、読んでくれる人がいると思うと、励みになりますね。質はともかく量は大作だし。
まあ、書くほうは意地でも書いていくけど、付き合う方は、そんな義理はないわけで、大変だったろうと思います。
最初の頃の原稿を読むと、へえー、こんなこと書いたっけと、我ながら驚いたりする。
嬉しい驚きは、やはり、少なくとも手元にはないと思っていた手書きの原稿が見つかったこと。
画竜点睛というと生意気かもしれないけど、いい結末、納得のいく総集編になりました。
これが、最初に手書きの日記ありだったら、若干の註を付してこの日記を載せるだけに終っていたはず。
>それにしても、無事で良かったですね。
そう、いのち、ありけり、が生還した夜の実感でした。
投稿: やいっち | 2007/11/09 20:35
pfaelzerwein さん
30年前じゃないですよ。
91年の12月29日です!
何処かに30年前って書いていたでしょうか。それならそれは単純な記述ミスです。掲載した領収書画像にも日付が記載されています。画像をアップすれば日付が読めると思うのですが。
なるほど、最初のほうでは91年と何度か書いているけど、あとは、その年度を前提にしていて、月日しか書いていない。誤解を生じる余地があるかな。
ポイントで娘さんが登場しますね。まあ、91年頃は三十代の半ば過ぎだし、ウエストも80を越えた程度くらいだったし?!
今だって意識はする。ただ、相手側から意識するっていう、当時は残っていた自惚れが摩滅したんですね、今は。
マンの「魔の山」の「雪」の章は実は今回、書いていて意識しました(でも、僭越なので口にはできない)。この<事件>があった頃は、どうだったか覚えていないけど。
「魔の山 雪」でググッてみたら、筆頭に小生が4年前だったかに書いたエッセイが浮上したのには我ながら驚き:
「マン『魔の山』雑感」
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/mann-manoyama.htm
当該箇所だけ転記します:
小説の筋にも関係するが、あるいは離れた形で読んでも実に素晴らしいのは、松岡正剛氏も語るように『魔の山』の第6章の「雪」と題された場面である。主人公であるカストルプが、無謀にもスキー板を履いて吹雪の山に向い、遭難しかけるのだ。その豪雪の中での主人公のカストルプの雪の無間地獄に溺れ込もうとする場面は凄まじい。また、美しい。死の誘惑。
恐らくマンは意図的に美しく描いている。小説としての必然性があるのだ。
が、読者たる小生は、一個の独立した何か象徴性に満ちた短編として読み浸ってしまったのである。そんな誘惑を仕掛けるマンは、罪な作家だ。ドイツ的な神秘性が骨の髄まで浸透しているということなのだろう。
(以上、転記)
=== === === ===
カストルプは自意識の上ではそんなつもりはないのに、無意識のレベルではあわや死の一歩手前まで行きそうな雪山の彷徨をやらかしてしまう。
深読みする人でなくても自殺願望(衝動)の為せる業だと思われても仕方がない。
小生も本稿の(1)で仄めかすように(半ばあからさまに)書いている:
実はこの無謀な旅、そして強行日程に至るには前史がある。会社での苦しい思い…。辛い恋…。そうした背景事情を書くと、今のメモ風なレポートの何倍も書かないといけなくなるし、まだ生傷状態なので、客観的にはなれない。且つ、当時書いた日記が所在不明。「雪の関越自動車道遭難未遂事件(序)」など参照)
(以上、転記)
=== === === ===
本稿は(総集編は別にして)回想でしか書けませんでしたが、とにかくドキュメントであり、同時に十六年前の出来事を記憶を辿って書いていたので、無難な範囲でのメモ的な<ドキュメント>に留まらざるを得なかった。
でも、手書きの日記が見つかり、この総集編で示した翌日に日記は生々しい告白が書いてあったりする。
よって、次に書く際は(十年はそうした機会はないと思うけど)、何故こうした暴挙に及んだのかを恋の話や仕事上のこと、私的な事情も含め、もっと多角的な目で表現することになると思う。
そこまで踏み込んで書くのは、資料的な裏付けもないし、あくまで雪の関越道での愚かな事件で留めるのが穏当だったろうと思っています。
ともかく、最後までお付き合いしていただき、ありがとうございました。
[あとで読み返してみて気付きました。
本稿の(3)ですね。
これは雪の走行から仙台時代のことを思い出した(連想の形で)という逸話が挿入されている。
これが74年の話。
多分、この辺りの記述が結果として全体が30年前の話と思われた事情ではないでしょうか。(10日未明追記)]
投稿: やいっち | 2007/11/09 21:12
日記の転記、ありがとうございました。
もう、手に汗握る、雪の関越道。
冷や冷やしましたよ~。
なにせ雪道の厄介さを知らないわけではありませんし、2輪の不安定さを知らないわけではありませんから。
・ ・ ・ ・ ・ 今の私は、4輪乗りですが。
スタッドレスおよびタイヤチェーン常備ですが。
4輪でも同じようなことがあるかもしれないっ!!!
と肝に銘じて、行こうと思います。
雪国、侮るべからず、ですね。
投稿: RKROOM | 2007/11/10 00:24
RKROOM さん
御蔭様で最後まで一通りのことは書ききることができました。ホッとしています。
こんな大作になるとはまさか思いもよらなかった。
こうなるという見通しがあったら、書こうという意欲があっさり最初からめげていたと思う。
めげずに書いたご褒美なのか、6回目を書こうとした直前の頃、靴箱の中を探し物(ガキの頃に描いた漫画類などの画帳探し)をしていて、当時の日記が出てくるというハプニングに恵まれたりして。
この告白風というか吐露調の日記が最初にあったら、このドキュメント、どんなふうな展開になったか。
それにしても、実話(肉筆の日記)は今読んでも我ながら生々しい。
特に一般道に降りてからの様々な細々したエピソードは、記憶を辿る形でのドキュメントでは、どうやっても出てこなかった事実に満ちている。
事実の重み。一つ一つのちょっとした会話なんて、なんてことないありふれた、忘れたってどうってことのない内容なんだけど、こうして書き起こしながら自分で読んで、そうだった!って、思い出されて、一瞬、胸キュンになったりして。
二輪も四輪も経験がある(三輪車の経験もある…Hな意味じゃないですよ。幼児の頃のことです!)し、仙台時代はバイクでの雪道走行はさんざんやったけれど、まあ、あの当時は覚悟の上でのことだし、出発時にタイヤに太い針金を巻くなんてこともできたわけで、思いもよらない形で訳も分からないうちに五十センチ以上の積雪の高速道路であわや遭難しそうになりつつバイクで彷徨するなんて、ね!
東京は(思いっきり寒かったけど)、出発時は空が抜けるほどに真っ青だったって記憶がある。
関越のトンネルに入るまで晴れだったし(路肩に時折、雪の塊にススと思われるクロっぽい埃が被さっていたのを見かけて、悪い予感のようなものがあったけど、意識しないよう敢えて目を背けていたような。
どこまでも愚か者な小生!
とにかく、現実って凄い。
一寸先は闇!
ごく有り触れた日常から地獄(逆の極楽ってことは死以外には滅多にない)へは、とてもスムーズなツルツルって感じの道があるばかり(メビウスの輪)なのですね。
とにかく、最後までお付き合いしてくださってありがとう。
読み手が入ると思うから情熱を失わず書ききれたのです。
投稿: やいっち | 2007/11/10 04:35
年末、日本海側や特に山間部で大雪というニュースを耳にすると、この時のトラブルを思い出してしまう。
関連する記事があることに今頃、気づいた:
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/12/post_46d2.html
↑ 文章だけの記事だけど、読んでほしいな。
投稿: やいっち | 2007/12/30 21:08
また、全部読んじゃいましたよ!
投稿: 石清水ゲイリー | 2009/08/19 10:57
石清水ゲイリーさん
小生にとっても、この一連のドキュメントは、思いで深い記事。
読み返してもらえて、とても、嬉しい!
次は、青梅マラソンへ挑戦した思い出をドキュメント風に書きたいのですが、その余裕がないし、当時の資料が見つからないので、手が出さないでいます。
まあ、課題の一つ、ということです。
投稿: やいっち | 2009/08/19 18:07
いやあ、すごい経験をされましたね!
よくぞ、ご無事で。
チェーンのないバイクは、高速入り口でシャットアウトすべきなのではないでしょうか。
親切な人が何人もいましたね。
いざというとき、見知らぬ人に助けてもらうと、本当にありがたいと感じます。
きっと、やいっちさんもまた、別の人を助けて恩返ししていくのでしょう。
それにしても、雪は怖い…。
投稿: 砂希 | 2013/01/13 11:51
砂希さん
古い記事を読んでいただき、さらにコメントまで寄せてくれて、どうもありがとう!
いま読み返しても、自分の無謀さに呆れます。
よくぞ無事で生還したと思います。
高速に入ったのは、東京でした。
関越トンネルの入口までは晴天。
が、出た途端、雪国!
関越トンネルの出口にチェーン装着場があったのですが、そこで係員がいたので、止めてくれればよかったのですが、彼は小生を見ても、無言で見過ごしました。
止めてくれよ! という泣きそうな心境だったのに!
親切な人に出会ったことは事実で、今でも感謝しています。
でも、高速道路の真ん中の溝にバイク(のタイヤ)が落ち込んだ時、小生は懸命に引っ張り上げよう、引っ張り出そうとしたのですが、その間、数百台以上の車が黙って通り過ぎました。
親切な人は、ホントに稀でしたよ。
そのことも思い知りました。
雪の中などで困った人を助ける、それは雪国の人なら当たり前にすること。
その思いは、タクシーのお客さんで、お年寄りの乗降の際などに介添えするなどの形で活きているのかも。
投稿: やいっち | 2013/01/14 20:58