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2007/11/06

阿久(あきゅう)なる縄文遺跡をいつか見ん!

 縄文時代観をくつがえした遺跡というと、筆頭に上がるのはやはり「三内丸山遺跡」(さんないまるやまいせき)だろうか。
三内丸山遺跡 - Wikipedia」によると、「遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている」という。
特別史跡 三内丸山遺跡」なるサイトでは、三内丸山遺跡の紹介を動画の形で見ることができる。

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→ 「三内丸山遺跡」で復元された「大型竪穴式住居」(画像は、「三内丸山遺跡 - Wikipedia」より)

 さて今日は、小山 修三【著】『美と楽の縄文人』(扶桑社)を読んでいて、たまたまその存在を知った長野県は原村柏木にある「阿久(あきゅう)遺跡」のことを話題にしたい。

天竜川水紀行:遺跡I 縄文時代観くつがえす資料 ~阿久遺跡~」(記事は「長野日報 (Nagano Nippo Web) - 信州のニュース -」より)によると:

 三十万個もの石を集めて築いた、巨大な環状の祭祀(さいし)場。その中央に立つ立石からは、北に向かって二列の石列が伸び、間に蓼科山を見通した―。「環状集石群」と呼ばれる同祭祀場跡など、学術的な新発見が相次いだ原村柏木の国史跡「阿久遺跡」。貴重な遺構は「縄文時代観をくつがえす発見」とまでいわれ、全国規模の保存運動を経て今に残された。

 さらに興味深い記述が続く(是非、当該頁を読んでほしい)が、最後の部分へ飛ぶ:

 規則的に配置された集石群は、”阿久ムラ”が一定の計画に基づき造られたことを物語る。平出さんは「集石群の規模と当時の平均寿命を考えても、構築には数百年の時間がかかっているはず。その間に生きた何代もの人々が、脈々と意思を受け継いで造り続けた。まさに、悠久の世界です」と感慨を深める。
 文化の高さを裏付ける遺跡は、原始的な生活を想像しがちな現代人の縄文時代観をくつがえす資料となった。調査段階から住民ぐるみの保存運動が始まり、全国へと波及。調査終了の翌七九年、異例の早さで国史跡に指定された。

「同遺跡は、中央道建設に先立つ一九七五―七八年の発掘調査で重要性が明らかになった」というが、小生が学生時代の後半を謳歌(?)していた頃。
 この話題に関心を抱いたという記憶がない。この頃はアパート暮らしでテレビがなかったし、新聞も多分とれなかったから(但し、新聞配達は一時期やったはずだが…。哲学への関心が何よりも勝っていたこともある?)、世間で話題になっていたことに疎かったのだろうか。

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← 小山 修三【著】『美と楽の縄文人』(扶桑社) 縄文時代に脚光を浴びせるのはいいけれど、ちょっと美化し過ぎという気もする。縄文時代像については、冷静に客観的に評価・判断すべきだろう。この点はいつか改めて考えてみたい。

 若い頃は日本の遺跡や考古学より、エジプトのピラミッドやインカ帝国など世界の古代遺跡などへの関心のほうが強かったことは確かだが。
 日本の古代史や考古学への関心も、自分の中では80年代の終わり頃から強まった。三十代の半ば頃である。

 さて、「環状集石群」(直径120メートルに及ぶとか!)という一事に惹かれてしまった小生、せっかくなので「阿久遺跡」のことをもう少し見ておきたい。
 まずは、遺跡のある原村の「原村ホームページ」を紹介しておくべきだろう。
 カウンターの数が「644631」を示している!
 人気のあるサイトなのか。いずれにしても、一見してサイトの責任者(ら)が熱心にサイトの更新を行なっていることが分かる頁である。
 この原村辺りについては、「市町村コンシェルジュってどうよ 縄文時代に触れる」によると、以下のような記述を見出す:

地元の方に聞くと、原村には阿久遺跡だけでなく多くの遺跡があり、どこを掘っても土器が出てくる!!場所があるとか。
「子どもの頃、土器の破片で遊んだ。」なんて聞くと、なんとももったいないと思うのは私だけ?

 いえ、けっしてあなただけではありません!

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→ 「住居址と方形柱穴列1」(画像は、「デジタルミュージアム」より。本文参照)

原村ホームページ」の中に、「デジタルミュージアム」なる頁への入口がある。凝った仕組みだ。
 更にその中に、「国史跡阿久遺跡」なる頁がある。
 さすがに、説明も詳しいし、画像も豊富である。
「現在、貴重な遺構は盛り土で保存され、中央道の下で眠っている」だけに、こうした工夫がされているのだろう。
 冒頭の頁から改めて「国史跡阿久遺跡」についての説明を得る:

 柏木区の西に位置する遺跡で、中央自動車道建設に先立つ発掘調査で、縄文時代前期の環状集石群など従来の考古学知見をくつがえす新発見が相次ぎました。貴重な遺跡を後世に残す保存運動が全国規模で展開され、発見した住居址などは砂で埋め戻し、大幅な計画変更をしたうえで中央自動車道を通す方法がとられました。昭和54年7月2日付で中央自動車道部分を含めた55,948.87平方メートルが国の史跡に指定されました。
 その後も史跡の隣接地では、県営圃場整備、阿久川改修、村道改良などの開発に先立つ発掘調査を行い11次を数えます。


 ネット検索したら、タイムリーというべきか、下記のような最新ニュースが浮上してきた:
阿久遺跡保存運動30周年記念シンポジウム 原村」(記事は「長野日報 (Nagano Nippo Web) - ニュース -」より)
 更新の日時は「2007-11-5 6:00」である。ということは、まさに昨日の記事だ。
「国史跡阿久遺跡(原村柏木)の保存運動30周年記念シンポジウム「阿久遺跡が語りかける縄文の心」(実行委員会、村主催)が4日、同村払沢の村中央公民館で開かれた」とした上で、「シンポジウムでは、発掘調査の経過について、保存運動によって中央道の工事が遅れることを大きく心配した当時の理事者や、保存をめぐって村民の間に温度差があった状況などが報告され、「工事を止めてまで進めた調査は、当時としては大変なことだった」と意義の大きさを語った」といった話などが載っている。

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← 「環状集石群1」(画像は、「デジタルミュージアム」より。本文参照)「上層の露呈した環状集石群と呼んだ祭祀場で、阿久遺跡を最も特徴付ける遺構です。それは立石と列石を中核に外の向かって土壙群、集石群、住居群を同心円状に構築してい」たというのだが、やはり、ある程度でも復元された姿を見てみたいものである。

 まさに現地ならではのエピソードであり、苦労があったのだろう。
(関連情報として:「八ヶ岳美術館だより 阿久遺跡シンポジューム、収蔵庫無料公開のお知らせ」)

 上記したように、「現在、貴重な遺構は盛り土で保存され、中央道の下で眠っている」(小生は90年前後くらいから、東京から富山への帰省には、従来の関越自動車道で長岡を経由して北陸自動車道から、中央自動車道から信越自動車道へ、というルートに切り替えた。何も91年末の「雪の関越道であわや遭難事件」に懲りたからではない。ということは、この遺跡の上を幾度となくオートバイで通過していたことになる!)。

 この点についてシンポジウムでは、「地元の柏木区は「遺跡を訪ねて来られても、埋没保存されているので説明のしようがない」と、遺跡公園としての整備を望んだ」とある。
「三内丸山遺跡」は、最近でこそ若干、観光客は減りつつあり、減少を少しでも食い止めようとさまざまな工夫が凝らされている最中と仄聞したことがあるが、それでも、今も観光スポットであることに変りはない。実際、行けば何かしら見るに値する復元建物などの目玉がある。
 
 小生のようなミーハーな素人であっても、「直径120メートルに及ぶ」という「環状集石群」と聞くと、見物しに行きたくなる。
 が、「貴重な遺構は盛り土で保存され、中央道の下で眠っている」のでは、どうしようもない。
 仮に、「阿久遺跡」がもう少し後の頃、90年代に見つかっていたら、もっと話題になり、国の史跡として見物に訪れるに値する工夫がもっとされていたのだろうか。

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