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2007/11/26

織田一磨…消え去りし世を画に遺す

 横須賀美術館にて催されている展覧会「清宮質文展 生誕90年 木版画の詩人」を観に行ってきた。
(この展覧会が開催されていることは、拙稿「「清宮質文展 生誕90年 木版画の詩人」 ! !」で案内してあった。)

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→ 織田一磨《駿河台(自画石版画集「東京風景」より)》1916年5月 (画像は、「横須賀美術館」の中の、「イベント」頁より)

 この展覧会で感じたことそのほかは追々書いていくとして(日記風レポートは既に「「清宮質文展」:図録に始まりパンフレットに終わった一日でした」にてメモした)、今日は、この展覧会で得た収穫の一つである、織田一磨という名の版画家を採り上げたい。

 横須賀美術館では、「「清宮質文展」:図録に始まりパンフレットに終わった一日でした」の文末にもメモしたが、所蔵品展として、「小特集:織田一磨《東京風景》」が開かれていたのだ。

 足を運んだ動機である「清宮質文展 生誕90年 木版画の詩人」を見終えた後、同じ敷地内だが、渡り廊下(?)で繋がっている別館である谷内六郎館へ行くつもりだが、その前に、常設展を観ておこうと思った。

 常設展会場の一角にいろんな作家(画家)の部屋があった。それぞれの画家の作品が小特集風に展示されている部屋が幾つかあったのである。

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← 織田一磨   『東劇』 (木版画  1930年  23.5×33cm)  (画像は、「恩地孝四郎と織田一磨」より)

 その中の一つの部屋にそれと知らずに入っていったら、そこが「小特集:織田一磨《東京風景》」だったわけである。

 部屋(区画)に入って、最初に展示されている作品を見て、おおっと思った。
 小生は浮世絵が好きである。いろんな版画家の目と手を通じて、江戸の世を、そして明治の世相や風俗を見るのが好きなのである。
 なので作家が、あるいは作風やその世界が好きなのか、それとも、版画家らの作品を通じて、もう失われて還ってこない嘗ての世の中の世態風俗を偲ぶのが好きなのか、自分でも分からないってのが正直なところ。

 実際、これまで、川瀬巴水や高橋松亭、宮本秋風などを採り上げてきた:
霧の作家・宮本秋風の周辺
川瀬巴水…回顧的その心性の謎床し
高橋松亭…見逃せし美女の背中の愛おしき
歌麿の官能の美の奥深し

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→ 織田一磨  『外堀の雪』 (木版画  1928年  19×28.4cm  日本版画社) (画像は、「恩地孝四郎と織田一磨」より)

 川瀬 巴水 (かわせ はすい  1883-1957)や高橋松亭(たかはししょうてい、1871~1945)となると、明治のや大正、あるいは昭和の前半だったりする(宮本秋風氏のみ例外。1950年生まれ。描いた対象が失われた日本の風景なのである)。
 近いうちに採り上げようと思いつつ、着手できないでいる小林清親(1847-1915)にしても、明治から大正の初期。
 つまりは、小生の父や祖父、曽祖父の世代であり時代である。
 小生は富山で生まれ仙台で数年暮らし、東京で78年より今に到るまで(点々としつつも)居住している。
 特に東京に長年暮らすようになり、都内をウロウロするようになって、都心の到るところを知名の士が生まれ歩き回り死んでいったことを知る機会が増えてきた。

 無論、版画家らの画家に限らない。島崎藤村や夏目漱石、三島、太宰、蘆花…と、きりがないほど。

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← 織田一磨  『浅草の夜』 (木版画  1928年  19×28.5cm 日本版画社) (画像は、「恩地孝四郎と織田一磨」より)

 小生は十数年前まで高輪に暮らしていたのだが、歩いて十分余りのところに明治学院大学がある。島崎藤村がそこで教鞭を取っていたことを、高輪の地を離れてから認識したのだった。
 藤村の本は、高校のころからボチボチ読んできたはず(だから解説などで藤村が白金・高輪に縁のある作家だと知りえたはず)だが、90年代になってから何故か凝るようになった。
 そう、高輪を離れてから、ようやく気付いた始末。

 都内には有名な人が歩いた縁のある場所が数多くある。が、当然ながら無名の人だって生まれ育ち死んでいったのである。
 小生の先祖が有名だったとは言い難い。それでも、都内のあるいは富山の地を歩いた。土の上を踏み締めていたのだった。

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→ 織田一磨   『日本橋附近』 (木版画   1930年  23.3×33.4cm)  (画像は、「恩地孝四郎と織田一磨」より)

 今は、アスファルトやコンクリートに大地が覆われてしまって、同じ土の上を歩くのは至難の業である。隔靴掻痒という表現が当るかどうか覚束ないが、時間の隔て、さらにはご丁寧にも、コンクリートなどの隔てで、手の届かない世界に消え去ってしまっている。

 まるで、時の隔たりがコンクリートという物質に成り代わったようでもある。

 となると、昔年の地を歩くには、同じ土地の上に立とうが、版画や絵画などを通じて旅しようが、ネットで旅しようが同じようなもの、という感がしてならない。

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← 織田一磨   『不忍の雪』(木版画  1930年  23×32.7cm)  (画像は、「恩地孝四郎と織田一磨」より)

 ま、いずれにしても、自分でなくても、自分の父や祖父、曽祖父という決して遠いとは言えない世代の人が息衝いていた時代なのである。
 どんな町や村であり、山河であったかをこの目で見るように見てみたい。大正や昭和となると、写真が普及し始めてくるが、もっと日常的に人びとが暮らしていた町並みなどを見てみたいのである。
 
 例によって前置きが長くなった。
織田一磨 - Wikipedia」によると、「織田 一磨(おだ かずま、1882年11月11日 - 1956年3月18日)は明治期から昭和期の芸術家、版画家。織田信徳の4男」という。
 大阪、広島、東京を点々とするが、「昭和20年富山県福野町に疎開し、昭和24年まで同県で暮らす」とあったのが小生の目を引いた。

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→ 織田一磨   『墨田公園』 (木版画  1930年  23.3×32.8cm) (画像は、「恩地孝四郎と織田一磨」より)

 おお、織田 一磨は富山に縁故のある人じゃないかと、たった今、気付いた次第。

 富山に疎開した人というと、前田普羅や棟方志功久世光彦や宮本輝などを知っているが、そこに織田 一磨の名が加わるということだ。

 ついでながら、「織田氏 - Wikipedia」を覗くと、「信雄(信長次男)の末裔」らしい。
 つまり、織田信雄の「五男高長の系統が大和宇陀松山藩、後に丹波柏原藩の2万石の大名とな」り、「宇陀松山藩主織田高長の三男長政は3000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。明治期から昭和期にかけて活躍した芸術家の織田一磨は直系の子孫である」という(太字は小生の手になる)。

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← 織田一磨  『外苑』 (木版画  1930年  23×32.7cm) (画像は、「恩地孝四郎と織田一磨」より)

 織田一磨の年賦:「織田一磨

 なお、「織田文庫所蔵の絵入読本」というサイトをヒット。
「当部で所蔵する貴重図書に、葛飾北斎が絵筆を奮った多くの絵入読本があります。これらの絵入読本は、明治から昭和にかけて石版画家として活躍した織田一磨(おだかずま)(1882ー1956)のコレクションに由来します」とか。
 織田一磨は北斎のどんな絵入読本をコレクションしたのだろう。

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→ 織田一磨 『上野広小路』(『東京風景』の内)1916年 千葉市美術館) (画像は、「織田一磨展 -石版に描かれた都市風景- 」(ホームページ:武蔵野市立吉祥寺美術館)から)

 この春に終わってしまっている、「織田一磨展 -石版に描かれた都市風景- 武蔵野市立吉祥寺美術館」から一部、転記する:

(前略)33歳のとき、「東京風景」20景で本格的に石版画家として歩み始め、以後多くの都市風景を石版画で制作しました。遅咲きではありましたが、雑誌「方寸」への参加や大阪への転居により身につけた浮世絵、文楽の趣味、カフェー文化の影響などがここで花開き、古きよき東京とともに都市風俗の先端を描きました。関東大震災後は、震災や復興事業により変貌した都市の姿を記録します。それらの都市風景の中には、都市の景観とともにそこに生きる人間が描かれており、版画は民衆美術だとする織田の版画制作に対する姿勢がうかがえます。

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← 織田一磨 『屋台店』((『都会夜趣』の内) 1919年  町田市立国際美術館蔵 ) (画像は、「武蔵野市立吉祥寺美術館」から) (「町田市立国際美術館」って、「町田市立国際版画美術館」のことだろうか?)

 そう、「古きよき東京とともに都市風俗の先端を描」くとか、「関東大震災後は、震災や復興事業により変貌した都市の姿を記録し」、「都市の景観とともにそこに生きる人間が描かれて」いるということが嬉しいのだし、小生が惹かれる一番の理由なのである。

 写真機の普及していない世にあっては、版画家はあるいは過ぎし世がコンクリートジャングルの下に埋められることを予感して、思いを込めて都市風俗を愛し描いていたのだろうか。

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→ 織田一磨 『井ノ頭の池』((『画集風景版画』の内) 1919年  武蔵野市立吉祥寺美術館蔵 ) (画像は、「武蔵野市立吉祥寺美術館」から)

TAB イベント - 所蔵品展 小特集: 織田一磨 「東京風景」」によると、「所蔵品展では、横須賀美術館の所蔵品の中から、代表的な作品100点以上を展示します。今期は、織田一磨の石版画シリーズ《東京風景》全20点をご紹介しています」という。

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← 織田一磨 『福野町吹雪』 (画像は、「福野町吹雪 5-10 by 織田一磨 - Mita Arts Gallery」より) 富山の福野町に疎開したことがあるという織田一磨。なんとか富山に縁のある画像をと探したら、その名も「福野町吹雪」という作品が見つかった。「版画にみる富山の美術」参照。

 つまり、小生が観たのは、「代表的な作品100点以上を展示」する予定のうちの「石版画シリーズ《東京風景》全20点」を観たものらしい。
 そうか、あるいは、織田一磨展として代表的な作品100点以上を一気に展示するのは企画的に難しいということなのか。
 ちょっと惜しいけれど、まずは織田一磨という版画家の存在を脳裏に焼き付けることができたことで満足しておこう。

 それにしても、逸早く織田一磨の存在に、その版画の魅力に気付いておられた人がいたことに今更ながら気がついた。
 折々覗かせてもらっている方も既に採り上げていた。どうしてその時点で気付かなかったものか:
遊行七恵の日々是遊行 織田一磨の都市風景
 まあ、今頃になって気付いたのは小生の不明に尽きる。小生の勉強が足りなかったってことだね。
 
[織田一磨を話題の俎上に載せてくれている記事を発見。下記日記の「2003/11/02 (日) 平成日和下駄(51)―群衆のなかの孤独(2)」という日記(このブログの文章がいい(多分、人柄も含めて)。新しいブログに移行されているようである:「新・読前読後」):
さるさる日記 - 読前読後」]

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コメント

吉祥寺美術館の「織田一麿」の展覧会僕も観ましたよ。
大阪を第二の故郷と思い定めていたようですね。
で、記事中の町田の美術館とは国際版画美術館のことで間違いありません。
吉祥寺美術館で版画美術館の織田の回顧展図録売っていましたもの。
しかし吉祥寺の美術館は入館料百円で月曜もやっているから、母のホームへ行く途中にたちよるのにもってこいなのです!
12月は土門拳とか。
あ、弥一さんは行かれたわけではないのですね。
大田区立郷土博物館ですか、川瀬巴水の展覧会やっていますがいかれましたか?
東京都美術館の図書室で「今開催中の展覧会図録」で立派な図録ができていて驚いてしまいました。

投稿: oki | 2007/11/27 00:24

oki さん

さすがに吉祥寺美術館にも足を運ばれたことがあるのですね。小生は未だ行ったことがない。
入館料が百円ってのはいいね。でも、小生のところからは遠い。
織田一磨の作品を見たのも初めて(織田信長の血筋を引いている人が今もいるってことに妙に感動)。

大田区立郷土博物館には行ったことがあります。高橋松亭の図録が欲しくて足を運んだのですが、なかった。残念:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2006/10/post_87bb.html

大田区立郷土博物館:
http://inoues.net/museum2/ohtaku.html

大田区立郷土博物館で川瀬巴水の展覧会をやっているってのは初耳。嬉しいニュースです。


投稿: やいっち | 2007/11/27 08:04

こんばんは
TBなどありがとうございました。
織田の色んな画像が見れて嬉しいです。
織田は都市風景もよいのですが、妙に舞妓さんなどがいい感じです。
それはきっと色調の品のよさから来ているのかもしれません。

ところで横浜の埴谷雄高展には行かれたのですか。
わたしはその前日に横浜にいったので、諦めたのです。

投稿: 遊行七恵 | 2007/11/27 21:52

遊行七恵さん

TBだけにしようと思ったのですが、それでは失礼かなと、メッセージだけ残させてもらいました。

舞妓さんの絵、いいですね。屋台の絵とどちらを載せようか迷った挙句、屋台を選びました。
舞妓さんに惹かれつつも、自分が関われるのは屋台のほうかなと…。

埴谷雄高展には行っていません。23日の試験を控え、ずっと自宅謹慎同然の生活でした。
選んだのは、絵。清宮質文展だったのです。その美術館で織田一磨のミニ展に遭遇したというわけです。

投稿: やいっち | 2007/11/27 22:21

「織田一磨」を検索したら、やいっちさんのページがありました。
旧福野町は、ユキエ夫人の生まれ故郷ですね。私のブログで半生記を紹介した女性がどうして一磨氏と知り合いであったのかも知りたいところです。

投稿: かぐら川 | 2011/11/20 23:20

かぐら川さん

「織田一磨」を検索したら、小生の頁が上位に浮上するということは、彼の版画は、必ずしも、一般には知名度が高くないってことなのでしょうか。

旧福野町は、ユキエ夫人の生まれ故郷とは!
何処で、どういう契機で知り合ったのか、気になるところですね。

こんな記事もありましたが、やはり、隔靴掻痒の感は否めない:
http://tonamino.jp/shiru/post_83

投稿: やいっち | 2011/11/21 03:21

残念ながら、一磨の“評伝”というものはないようですね。どなたかに書いていただきたいですね。
図録などに詳細な年譜が載っているのでしょうか。

投稿: かぐら川 | 2011/11/21 23:03

かぐら川さん

織田一磨という版画家は、もっと知られていいし、きっと誰かが既に相当程度のことは調べているような気もします。
今後も留意しておきます。

投稿: やいっち | 2011/11/23 21:27

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» 織田一磨「沈黙の画室」 [めぐり逢うことばたち]
 その名も作品もなんどか目にしていながら、そしてそのたびに気にはなりつつも、いままでその人の前に立ちどまったことのなかった人。織田一磨。・・・情緒あふれる街風景をえがく版画家、というほどの認識がずっと深まらずに私のなかにありました。  あらためて立ちどまるきっかけを与えてくれたのは、先日も紹介した勝目テルさんの『未来にかけた日々――明治・大正・昭和を生きて (上)』(1961)の一節。ここに雑司ヶ谷時代の織田一磨がちょっと登場している。  で、少しばかりnet上を検索してみました。そこで... [続きを読む]

受信: 2011/11/26 20:13

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