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2007/11/30

ベラスケス「侍女たち」の風景(前篇)

「furiae」…ベルグクヴィストの周辺(前篇)」でも書いたけど、「「ケプラーの夢(ソムニウム)」再び」で言及していたジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館)を読了した。

 本書はいろんな理由があって手にしたのだが、その一つは、西洋における風景画の誕生、あるいはその画法などの変遷の歴史との絡みがある。
 西洋において風景画がどのように変遷してきたか。

Velazquez

← Diego Velazquez『 Las Meninas (1656)』 (画像は、「ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解」より。この記事は後出する。本文共に参照のこと。)

 その全貌など小生には語るすべもない。せめて少しは勉強をと思い、越宏一著の『風景画の出現 ヨーロッパ美術史講義』(岩波書店)も過日、読了している。
「17世紀ヨーロッパにおける風景画の出現は,美術史のなかでどのような意味を持つのだろうか.絵画の画面から人物が消えてゆくプロセスを,古代壁画,聖堂壁画,タピスリー,中世書物の挿画,暦の飾画などをつぶさに見ながらたどってゆくことで,<風景>が芽生える長い道程が解き明かされる.ユニークな西洋美術入門.」といった内容。

 越宏一著の『風景画の出現』を読んで学んだことは多々あるが、同時にちょっと物足らないような気もしたのは事実。
 絵画の宗教的側面や時代を追っての徐々に風景が全面に出現していく、その移り変わりが分かるのは有り難いが、何故にそのように中世から近世へという時代にあって絵画における風景(画)の位置付けが変ったのかの、肝心の背景の説明が物足りないのだ。

 あるいは学問的に裏付けるのは難しい課題なのかもしれない。専門的に資料で足場を固められる記述に徹するということなのだろうか。
 当然といえば当然の話だが。
 巨視的な視点というのは、この手の専門性のやや高い本(何たって、ヨーロッパ美術史講義なのである!)にはないモノねだりなのかもしれない。

 小生は、風景が絵画において(も)前面に出てくるようになり、家屋も含め人間さえ、風景の中に現れない、あるいは現れ描かれても、あくまで風景の中の一齣として、点在する事物と同等に、同価値で、あるいは同等の距離感で描かれるに留まるようになったのは、コペルニクス的転回、つまりは、宇宙の中心に地球(あるいは人間の立つ大地、もっと言うとキリスト教徒の大地)があるのではなく、世界の中心に太陽があり、その周りを地球も含めた天体が転回しているという世界観の、従前の世界観(宇宙観)に対する凌駕の歴史という時代背景が一つある。

 さらには大航海時代となり海の向こうにも大陸があり他の世界(地域)があり、海を渡っても、突然、奈落の底へ落っこちるのではなく、次々と違う世界が現れ出で、ついにはもとの出発地へ戻ってくる、つまり、地球は丸いってこと、地球は球体だということを大航海時代のさまざまな冒険を通じて知見したこと。
(これは地球が太陽の周りを回っていることとの相関を連想せざるを得なくさせる決定的な土台となる事実でもあったろう。)

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→ 越宏一著『風景画の出現 ヨーロッパ美術史講義』(岩波書店) 「一七世紀ヨーロッパにおける風景画の出現は、美術史のなかでどのような意味を持つのだろうか。絵画の画面から人物が消えてゆくプロセスを、古代ローマの壁画から、中世末期の壁画・板絵・写本画・タペストリーを経て、アルトドルファーの板絵までつぶさに見ながらたどってゆくことで、「純粋な風景画」が芽生える長い道程が解き明かされる。ユニークな視点による西洋美術入門」。いろいろ勉強になった。でも、消えていった人物像は一体、どういう性格や意義があったものなのか…。

 空を眺め、その青い空の彼方、雲の上には神様が憩っているわけではなく、空の上に天体が地球を巡ってあるのではなく、まして、天体のさらに上には<天>があるわけではない。
 つまり、ティコ・ブラーエの徹底した数字と観察に基づいた、そうした実証的な土台から空を、天を眺めると、天によって地球が囲繞されているのではなく、天には穴が空いている。その穴は何処まで深いのか計り知れない。
 神は宇宙の何処かにいるのかもしれないとして、少なくとも見上げる空や天の上や中には見出せない。
 天や空は、数々の既知の天体があるとしても、その移動の原理も含め実は人間には何も分かってはいないのだという、震撼させる現実。

 既存の宇宙観・世界観・宗教観が根底から再構築を迫られているという焦燥。
 宗教的予定調和と神の知恵と宗教的慈愛の象徴化としての絵画ではなく、宗教的メッセージとしての絵画では飽き足らなくなり、旧約聖書やキリストの教えの比喩・隠喩が濃厚に漂うだけの従前の絵画では、足元が揺らぎ始めた世界を、目の前にしている光景を描ききれないという予感、差し迫り切迫した予感を胸にしている人びとには到底、間に合わないという現実。

 風景。人の生活の背後にある風景。自然の中に囲まれ宗教的秩序があると信じられた旧世界の崩壊。
 一旦、旧世界の化粧、分厚い、濃厚で息が詰まるほどの化粧が剥がれてしまうと、そこには剥き出しの風景が現前していることに気付かせられる。

 何もかもが違った風景を露わにしてくる。全ての点景がそれぞれに人間と同等の価値、同等の存在感を示し始める。動物(獣)でさえ、人間と同等の存在感を持っていること、草花は神の恩寵を飾るオーナメントに過ぎないものでは決してないこと。顕微鏡と天体望遠鏡とが、一滴の水にも宇宙があることを、天の一角を眺めただけでも、そこには際限のない奥行きと未知と深遠があることを思い知らせ、人間もそうした万物が、その大小や見かけの美醜(従前の価値秩序から測っての美醜や高貴さ下賎さの度合い)など関係なく、人間と同等にその謎を知り探り調べ極めるに値する、未知の広野として現前してくるということ。

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← ジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館)ケプラーのなんという奇矯な人物像。ケプラー自身、自分を自制心のない人間として分析している。そばには決して居たくない人間。それに比べ、ブラーエの忍耐強さ。二人の人物のぶつかり合いがどんな小説よりもドラマチックだ。やはり、ケプラーがブラーエを毒殺したのか…。この世に神がいるなら、神はケプラーという人間に目茶苦茶な要求を突きつけたのだ。或る日、ケプラーにとんでもないビジョンに目覚めさせる(天球に数学的な図形を観た! この洞察は古代ギリシャより連綿として続き、今日の最先端のビジョンの根底にも流れは続いている…)。彼はそのビジョンを証明するため、ティコの蓄積したデータが何が何でも欲しいと思う。場合によっては亡き者にしてまでも。やる(殺る)しかない。目的を果たすためには!

 そう、人家の密集する町の背後には森がある。山がある。河が森の源泉から流れてくる。海へと。
 その森や山には、妖精が住むわけではない。悪魔が住むわけでもない。旧態依然たる宗教的登場人物や騙られて来た天使や魔物が住むのではなく、人間が分け入ってその裸眼で、裸の目と心で眺め観察し記録し省察しないことにはその正体の片鱗さえも垣間見えることのない、生の自然がある。
 風景は人間と同等に主題として描かれるに値するのだ。もしかしたら、空の雲や霧や靄や雫の一滴のほうが人間より興味深い主題たりえるやもしれないという予感。
 風景画の出現というのは、そうしたヨーロッパにおける世界観・宇宙観・宗教観の大変貌と相関しているものと理解される。
 
 その上で、古代からの絵画の背景に飾りのようにしてついでに描かれるだけの空や雲や山や川が徐々に前面に現れやがては主題そのものとなる、そうした絵画における風景画の出現と変遷の歴史を描いてくれないと、単なる技術的なあるいは美術史の中の専門的な、あまりに専門的な叙述に終わってしまうと感じられるのだ。

 ジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館)を読んだのも、天に風穴を開けたティコ・ブラーエ、そして太陽(を焦点の一つとする楕円)の周りを地球などが回っているという現象をケプラーの3法則をという決定的な形に齎したヨハネス・ケプラーとの、あまりに人間的な確執のドラマを読みたかったからなのである。

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→ Johannes Kepler (著), Edward Rosen (翻訳) 『Kepler's Somnium: The Dream, or Posthumous Work on Lunar Astronomy』(Dover Pubns) 邦訳は、あるが(『ケプラーの夢』(ヨハネス・ケプラー (著), 渡辺 正雄 (著), 榎本 恵美子 (著) 講談社学術文庫))絶版の状態。ケプラーの本文自体は短い。注釈が凄いし面白い! 関連書籍は「「ケプラーの夢(ソムニウム)」再び」参照。この小説の内容そのものに付いては、「ケプラーの「夢」」が参考になる。

 理由はどうあれ、太陽の周りを地球などが回っているのは否めない事実らしい。でも、どうしてでは地球が世界の中心ではないのか。大地の上に天がなかったら、天は、その前に大地はどうやって安定してこの世でありえるのか。
 太陽の周りを地球が巡っているとして、そうした天体の全体は宇宙にあって、どうやって秩序(法則)を守っているのか。
 その前に、宇宙にあって天体がどうやって浮んでいるのか。さらに天体が浮んでいると思っていいのか。
 永遠の沈黙の中、奈落の底に落ち続けているのではないと、どうやって保証しえるのか。

 風景画の出現は、人物画の在りようの変貌とも相関しているように思われる。
 有名なベラスケスの『侍女たち』という作品。フーコーが『言葉と物』で緻密すぎるほどに分析を施したことで有名な作品。

ベラスケス「侍女たち」の風景(後篇)」に続く。

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