ボードレールと「雲」とブーダンと (後篇)
[本稿は、本稿は、10月26日に書きかけていたもので、「ボードレールと「雲」とブーダンと (前篇)」に続くもの(完結篇)です。できるだけ、ボードレールの「雲」を巡る言葉(詩)を集めるようにしました。]
→ ウジェーヌ・ブーダン(Eugène-Louis Boudin)『トルーヴィルの浜(1867)』(画像は、「ウジェーヌ・ブーダン - Wikipedia」より。「青空と白雲の表現に優れ、ボードレールやコローから、「空の王者」としての賛辞を受け」たという。) ブーダンについては、「写真:ミレーと6人の画家たち 5.写真の人物査定の発端ブーダンを語る」(ホームページは、「写真:ミレーと6人の画家たち」)がかなり詳しい。画像や写真も豊富。「artshore 芸術海岸 ウジェーヌ・ブーダンの空」もやはりいい!
「第3室:ボードレール-メリヨン-19世紀のパリ」(「三重県立美術館」の中の「これまでの常設展示作品と解説」より。太字はボードレールの言葉):
昨年末から今年の2月にかけて美術館で開催された「ブーダンとオンフルールの画家たち展」は、19世紀フランスの風景画の変遷を見通すものだった。風景画という糸がロマン主義から印象派までをつなげていくさまは、断片的な19世紀の知識に深みを与えてくれたが、それに加えて印象的だったのは、風景画とボードレールの関係である。ブーダンのアトリエを訪れたボードレールは、膨大な数の空と雲のパステル習作を目にし、1859年のサロン評のなかでこう述べている。「これらの幻想的で輝かしい形をした雲、これらの混沌とした暗闇、これら緑色と薔薇色の涯しもないものが、宙吊りになり互いに重なり合っているさま、ぽっかり口を開けたこれらの大窯、ぼろぼろになり、丸まったりすり切れたりしている黒や紫の繻子でできたこれらの天空、喪に服し、あるいは溶融した金属をしたたらせるこれらの地平線、これらすべての深み、これらすべての壮麗さは、芳醇な美酒か阿片の雄弁のように私の脳髄を酔わせました」(阿部良雄訳『ボードレール全集』筑摩書房より)。
「ボードレールの傷痕 桑名麻理」(「コレクション万華鏡 -8つの箱の7つの話」参照)より:
「一つの港とは、人生の争闘に疲れた魂にとって、快い棲処(すみか)である。空のたっぷりした広がりや、雲の流動する建築や、海の移り変わる彩(いろど)りや、燈台のきらめきは、決して眼を倦(う)ませることなく楽しませるのにすばらしく適したプリズムだ。複雑な策具をつけた船のすらりとした形態(フォルム)に、波のうねりが諧調(ハーモニー)ある振動を伝達して、人の魂の中に、律動(リズム)と美への嗜好を保(たも)たせるのに役立つ。それから、わけても、もはや好奇心も野心ももたぬ者にとっては、望楼(ベルヴェデール)の中に横たわりあるいは防波堤に肱をついて、出発する者たちや帰ってくる者たち、まだ意欲する力や、旅に出ようとか、金持ちになろうとかいう欲望をもつ者たちの、ああした動きのすべてを眺めていることに、一種不可思議で貴族的な快楽がある。」〈港〉『パリの憂鬱』より)『ボードレール全集』Ⅳ p.89)
← ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー-生と死の音楽』船山隆、松橋麻利訳、青土社)
「4 ドビュッシーの自己確立―「瞑想」と「噴水」」(「山田兼士の研究室」参照):
ジャンケレヴィッチは、噴水の落下する水のイメージに注目して、ドビュッシーとボードレールに共通する夢想の特質を分析している(『ドビュッシー-生と死の音楽』船山隆、松橋麻利訳、青土社)。ジャンケレヴィッチによれば、絶えず形を変え、崩れ、はじけるもの、運動するもののイメージは、ドビュッシーがピアノをはじめとする数々の器楽のために書いた、花火、霧、雲、海、波などの流動的なイメージに結びつく。ボードレールもまた雲を「神が水蒸気で造った運動する建造物」(散文詩「港」)と呼び、漂い揺れ動く物体と現象への偏愛を繰り返し歌い続けた。これらの形象には、詩人と音楽家をともに夢想へと誘う超自然のイメージが込められているのである。

→ シャルル・ボードレール著『パリの憂鬱』(渡辺邦彦訳、みすず書房 )
上掲の転記文中、「ボードレールもまた雲を「神が水蒸気で造った運動する建造物」(散文詩「港」)と呼び」というくだりがある。
「神が水蒸気で造った運動する建造物」を含む散文詩「港」を読みたい。
「44 スープと雲」(「山田兼士の研究室」参照):
気の狂ったかわいいぼくの恋人がぼくをディナーに招いてくれたので、ぼくは食堂の開いた窓から、神が水蒸気でつくった動く建築を、手に触れることのできない素晴らしい構造物を、じっと眺めていた。じっと眺めながらぼくは思っていたのだ、「こうした変幻自在な光景はすべて、ぼくの美しい恋人、緑色の目をして気の狂ったかわいい化け物、の目とほとんど同じくらい美しい」と。
するといきなり、ぼくは背中を拳で荒々しく一撃され、しわがれた魅力的な声を聞いた、ヒステリックな声、ブランデーで咽喉を嗄らしたような、ぼくの愛しくかわいい恋人の声を。「さっさとあんたのスープを飲みなさいな、雲商人のお馬鹿さん?」

← 阿部 良雄 著『群衆の中の芸術家 』(ちくま学芸文庫、筑摩書房) 本書は、「ただ今、復刊投票受付中!」だとか。なお、阿部良雄氏は、2007年1月17日、急性心筋梗塞で死去されている。74歳だった。「筑摩書房 PR誌ちくま 2007年4月号 追悼・阿部良雄 阿部良雄の軌跡 清水 徹」を読むべし。
―おまえが一番好きなのは誰なんだ、さあ、謎めいた人よ、おまえの父親か、母親か、姉妹かそれとも兄弟か?
―私には父も、母も、姉妹も、兄弟もない。
(中略)
―なんだと!それではいったい、おまえは何が好きなんだ、世にも不思議な異邦人よ?
―私は雲が好きだ……ほら、あそこを……あそこを……過ぎてゆく雲……すばらしい雲が!

→ ウジェーヌ・ブーダン『Scene Du Port, C. 1880』(画像は、「 世界最大のポスター、絵画、写真の専門店!」と銘打っている「AllPosters.co.jp」より )
池沼の上、谷の上を越え、
山々、森、雲を越え、海を越え、
太陽、天井の澄気もあとにして、
星のきらめく天界の限りも突き抜け、私の精神よ、おまえは活発自在に動きまわり、
そして波間にぽっかりとうかぶ泳ぎじょうずのように、どこまでも深ぶかとしたところに航跡を楽しげに残してゆく、言うに言えぬ雄の快楽に耽りながら。こういう不潔な悪臭のこもるところから、うんと遠くへ飛び去れ。
上天に身を浄めに行け。
そして物のすがた一切が消えうせた空間に充ちわたっている
澄みきった焔を、特選の神酒のように飲め。倦怠と、はてしなく広がって充ちあふれている苦しみをあとにして、
ちから強い羽ばたきとやらで羽ばたき、物音も絶えた、光のみなぎる上空に
一気に飛び去りうるものは、みずからを幸福だと思え!ひばりのように、朝ごとに一息に、屈託なげに、大空にむかって飛び立つ想念に身をまかせる者、
人界を下方に見はるかし、花々のことば、そのほか物いわぬものたちのことばを
立ちどころに解する者は、その幸福に陶酔しているがいい!

← 金川 欣二 (著)『おいしい日本語 ―大人のための言語学入門― 』(出版芸術社)
おまけ。
検索していたら、ボードレールの「信天翁」(あるいは「あほう鳥」)という詩に言及した流れで、メルヴィルの『白鯨』(第42章)からの一文が紹介されていた。『白鯨』の凄みは今も印象に鮮やかなので、転記する:
「「信天翁」の言語学的考察」(「金川 欣二☆言語学のお散歩(マックde記号論)☆ Rideo, ergo sum」より。ちなみに、以前、同サイトより金川氏の『菊と蒲鉾』(きくとかまぼこ)------富山文化論)」を紹介したことがあるが、読んでためになり(?)、何よりも読んで楽しい雑文(失礼)が満載である。同氏は、言語学の研究者だから、読んで安心できる。ここだけの話だが、言葉の使い方に窮屈にならなくなったのは、もしかして同氏の論考(?)をあまり読みすぎたせいかも)より:
あの信天翁のことを考えてみるがいい。雲のような霊的驚異と蒼ざめた恐怖はどこから来るのか。あの白い幻はあらゆる想像力に帆をかけて飛ぶ。その呪文を投げかけたのはコールリッジが最初ではなかったか。(メルヴィルの『白鯨』(第42章)より)
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コメント
ボードレールは懐かしいですね。
中学生の頃、父親の本棚に古い「悪の華」を見つけて、こっそり読み耽りました。
サガンの小説のエピグラフにボードレールの詩が使われていたのが、素晴らしく洒落たことに思えたのも、このころです。。
投稿: ゲイリー | 2007/11/14 18:48
ゲイリーさん
ゲイリーさんのボードレールの思い出話を伺うと、すごいなーって思います。
小生が曲がりなりにもボードレールの詩文に接するようになったのは大学生になってから。
ガキの頃は、父の書棚にびっしり詰まった推理小説や文学全集を尻目に、父の机の上にあった週刊誌をこっそり読んだのを思い出す。
お目当ては…言うまでもなく、Hな記事か写真。
そういえば、小学校の終わりか中学生になった頃、百科事典(十数冊のもの)が書棚に。
小生、やっぱり、Hな記事を探しまくった。妊娠やら出産やら写真とか。
まあ、ある意味、健康的な少年だったということか。
投稿: やいっち | 2007/11/14 23:01