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2007/10/22

プルーストとシャルダンと…

 10月15日、月曜日は「ほとんど月に一度の楽しみとなっている、ベリーダンスのライブを楽しんできた」。
 当然ながら、往復共にバスや電車である。
 今や自宅では事情があって読書する時間の取れない小生、そういった車中が貴重な読書の場、移動する書斎となっている。

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← シャルダン「えい」(画像は、「アート at ドリアン 西洋絵画史」の中の、「シャルダン」より)

 その日、手にしていったのは、文中にあるように、マルセル・プルースト著『評論選Ⅱ 芸術篇』(保苅瑞穂編 ちくま文庫)だった。 
 車中では、ここでは採り上げないがレンブラントとシャルダンとについての批評で、読むのに夢中になり、また電車を乗り越しそうになった。

 再読となる本書についての感想は、以前、書いたことがあるし、改めて書く機会があるかどうか分からないが、前回読んでの感想では触れることの出来なかった、本書の中でプルーストが絶賛しているシャルダンのことをちょっとメモしておきたい。
 シャルダンといっても、『現象としての人間』などで有名な、カトリック思想家のピエール・テイヤール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de Chardin,1881年5月1日-1955年4月10日)ではなく、ジャン・シメオン・シャルダン(Jean-Baptiste Siméon Chardin, 1699年11月2日 - 1779年12月6日)である。

 以下、シャルダンについて、殊更、人物紹介的なことはしないので、手っ取り早くシャルダンについて知りたい片は、、「ジャン・シメオン・シャルダン - Wikipedia」を覗いてみて欲しい。

ジャン・シメオン・シャルダン - Wikipedia」から転記させてもらう:
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→ シャルダン「銀のゴブレット」(画像は、「アート at ドリアン 西洋絵画史」の中の、「シャルダン」より)

18世紀を目前にした1699年パリに生まれ、フランス革命前夜の1779年、同じくパリで没した。ロココ美術全盛の18世紀フランスを生き抜いた画家であるが、その作風は甘美で享楽的なロココ様式とは一線を画し、穏やかな画風で中産階級のつつましい生活や静物画を描き続けた。

シャルダンは、初期の静物画『赤エイのある静物』でアカデミーに認められた。軽薄で享楽的ななロココ芸術には批判的だった「百科全書派」のディドロでさえ、著書のなかでシャルダンを絶賛していた。

シャルダンの絵画は、その日常的・現実的な題材、静物画にみられる真に迫った写実表現などに、17世紀オランダ絵画の影響が顕著に見られる。それとともに、その造形感覚や光と影の描写は、同時代の画家のなかでもきわだった近代性を示しており、後の印象派に通じるものがある。


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← シャルダン「水差し、銀のゴブレット、果物(Still Life with Glass Flask and Fruit)」(画像は、「CategoryJean-Baptiste Siméon Chardin - Wikimedia Commons」より)

 本稿の焦点は、ジャン・シメオン・シャルダンの人物像や諸作品にあると同時に、ある意味、プルーストのシャルダン論(と呼んでいいのかどうか。むしろこのままなだらかに小説の世界へ繋がっていくような批評ではないか)の文章を一部ながらでも味わってもらうことにある。
 さすがにプルーストだと思わせる文章が延々と続く。

 ということで、プルーストが批評しているシャルダンの諸作品を可能な限り、掲載して、プルーストの文章とシャルダンの絵画作品とのコラボ(?)を楽しんでもらえたらと思う。
 無論、一番、楽しんでいるのは小生である。なんたって、ここに転記したのはほんの一部に過ぎないのだし!

 シャルダンの作品については、いつも勝手ながらお世話になっている「アート at ドリアン 西洋絵画史」や「「CategoryJean-Baptiste Siméon Chardin - Wikimedia Commons」、「ロココカナール」などから拝借する。

 想像の中では美術や大聖堂や海や山々の輝かしい姿だけど、これといった財産もなく、現実に目にする光景はというと、俗悪で美とは程遠い日常でしかない、そうした頭の中の理想の美と現実の凡俗さとの落差に辟易している若者…といった導入部があって、以下に転記したようなプルーストの文章が続く:

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→ シャルダン「Lapin mort et attirail de chasse」(画像は、「CategoryJean-Baptiste Siméon Chardin - Wikimedia Commons」より)

          (前略)

 もし私がこの若者を知っていたとしたなら、彼がルーブルへ行くのを止めさせはしないだろう、それどころかむしろ、いっしょに出かけて行くだろう。さてそれから、彼をラカーズの部屋(ギャルリー)や十八世紀のフランスの画家たちの部屋に、あるいはあれこれのフランス絵画の部屋に連れて行って、シャルダンの諸作品のまえで足をとどめさせるだろう。そして彼が、かつては凡俗さと呼んでいたものを描いたこの豊かな絵に、かつては味気ないものと見なしていた生活を描いたこの味わい深い絵に、かつては安っぽいものと思いこんでいた自然を描いたこの偉大な芸術に目を奪われたとしたら、私は彼にこう言うだろう。楽しいですか? だけど、あなたがそこで眼にしたのは、つづれ織りで織りちがえたところを娘に教えている裕福な町家の女とか(『働き者の母親』)、パンを運んでいる女とか(『買物帰りの女』)、生きた猫が牡蠣のうえを歩き、一方では死んだえいが壁にぶらさがった台所の内部とか、もう半分片付いていて、ナイフが何本かテーブル・クロスのうえに転がっていたり(『果物と動物』)、もっと数は少ないけれども、いろいろな食事道具や炊事道具が、それもザクセン陶器のココア入れのようなきれいなもの(『さまざまな道具』)ばかりではくあなたにはこのうえなく醜悪に見えるものも置かれていたりする食卓とか、ぴかぴか光った蓋とか、ありとあらゆる形ありとあらゆる素材の壺とか(塩入れ、穴びしゃく)、食卓のうえに転がった死んだ魚(『えい』という絵で見られるような)といった醜悪を覚えさせる眺めや、半分空になったグラスややたらたくさん並んだいっぱい入ったグラスの吐き気を催させる眺めとか(『果物と動物』)、そういった以外の何だったというんです。

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← シャルダン「働き者の母」(画像は、「ロココカナール」より)

 こういったものすべてが、今あなたに、見て美しいものと思われるとすれば、それはシャルダンが、それらが描いて美しいものであることを見出したからなんだよ。そして彼が、それらが描いて美しいものであることを見出したのは、それらが見て美しいものであることを見出していたからなんだな。 縫物をしている部屋とか、配膳室とか、台所とか、食器棚とかを描いた彼の絵があなたに与えてくるよろこびは、現場でとらえられ、瞬間から解き放たれ、深められ、永遠化されたものなんだ、食器棚や、台所や、配膳室や、縫物をしている部屋などの眺めがかつて彼に与えていたよろこびがね。それらは互いにわかちがたく結びついているから、彼が前者だけで満足出来ず、自分にも他の人びとにも後者を与えようと思っても、あなたは後者だけで満足することは出来ないだろうな、そして否応なく前者に立ち戻ってゆくだろう。あなたはすでに無意識のうちに感じていたんだよ、つつましい生活や静物などの眺めが与えてくれるこのよろこびを、そうじゃなかったら、このよろこびがあなたの心のなかに生まれ出ることはなかっただろう、シャルダンが、その有無を言わさぬ輝かしい言語でそれを呼び求めたときに。あなたの意識はあまりに無気力過ぎてこのよろこびまで降りてゆくことが出来なかった。それは待たなければならなかったんだね、シャルダンがあなたのなかにあるそれをとらえて、あなたの意識にまで高めてくれるのを。そのときあなたは、kのよろこびを見わけ、はじめてそれを味わったわけだ。もしあなたが、シャルダンの或る作品を見て、これは台所のように親しみ深くて居心地がよくて生き生きしていると思うことが出来れば、台所を歩きまわりながら、これはまるでシャルダンの絵のように興味深くて偉大で美しいと思うことだろう。シャルダンは、自分の食堂で、果物やグラスに囲まれているのが好きな人間に過ぎなかっただろうけれども、ただ、もっと鋭敏な意識をそなえた人間で、そのよろこびはあまりに激しかったから、すべすべしたタッチや永遠の色彩となって溢れ出てしまたんだろうね。あなたもシャルダンのような人間になるだろう、もちろん彼ほど偉大ではないだろうけれども、あなたが彼を愛しくりかえし彼自身になっている限りはやはり偉大な或るシャルダンにね。この人間にとっては、シャルダンにとってと同様、金属や陶土が生命をえ、果物が口をきくことになるんだよ。
 彼はそれから手に入れたさまざまな秘密をあなたに委ねるんだけれども、それを見て、それらは、もはやかくすことなくあなた自身にその秘密を委ねるだろう。死んだ自然(ナチュール・モルト)は、何よりもまず、生きた自然となるんだよ。それは、生のように、あたなに語るべき何か新しいものを、輝かせるべき何か或る魅惑を、啓示すべき何か或る神秘をつねにもつようになるだろう。日々の生活があなたを魅惑することになろうだろうね、もしあなたが、何日かのあいだ、ひとつの教えとして彼の絵が語ることばに耳をすましたとしたら。そして、彼の絵の生命を理解したことで、あなたは、生の持つ美をわがものとすることになるだろう。


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→ シャルダン「The_kitchen_maid」(画像は、「CategoryJean-Baptiste Siméon Chardin - Wikimedia Commons」より)

          (中略)

 さて今度は台所までおいでになるがいい、その入口は、ありとあらゆる大きさの器の一族の手できびしく守られているが、これらは有能で忠実な召使であり、働きもので美しい種族なんだな。食卓のうえには、活発なナイフが置かれていて、これらはまっすぐ目標に向かう連中だが、今は、人を脅かすようなところはあるが何の害もない無為の姿で休んでいる。だけどあなたの頭上には、何とも奇怪な姿をした、かつてそいつがうねり泳いだ海のようにまだみずみずしい怪物が、つまりえいが一匹ぶらさがっていて、そいつを見ると、美食の欲求と、かつてそいつがそのおそるべき目撃者だった海の静けさや嵐の不思議な魅力とが融けあうんだな、そして、レストランの味のなかを、植物園の思い出のようなものを横切らせるさ。えいは開かれていて、その繊細で相愛名建築構造に感嘆することが出来る、赤い血や青い神経や白い筋肉などにいろどられていて、多色装飾の大聖堂の内陣といったところさ。その側には、死んだままで放り出された魚が何匹かいて、腹を下にし、眼玉を飛び出させ、身をよじって、硬ばった絶望的な曲線を描いている。それから、猫が一匹、この水族館に、もっと複雑でもっと意識的なさまざまな姿がはらむ謎めいた生命を重ねあわせ、きらきら光るまなざしをえいに注ぎながら、盛りあがった牡蠣のうえで、そのビロードのような脚を、せわしげだがゆっくりと動かしている、そんなふうにして、その性格の慎重さと、その味覚の貪欲さと、その企ての大胆さとを、同時に示しているんだよ。眼というやつは、他の感覚とともに働くことを好むものさ、いくつかの色彩の助けを借りて何らかの過去や未来の全体よりももっと多くのものを再構成することを好むものさ、その眼が、もうすでに、猫の脚を濡らそうとしている牡蠣の冷たさを感じているんだな、そして、もうすでに聞こえているんだよ、危なっかしく積みあげられた「これらの」もろい真珠母色の貝の山が、猫の重みで崩れたときの、それらがひび割れるかすかな叫びや、崩れ落ちる雷鳴のような物音が。

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← シャルダン「日除けをつけた自画像」(画像は、「CategoryJean-Baptiste Siméon Chardin - Wikimedia Commons」より)

         (中略)

 凡庸な人物、せいぜい芸術家らしい口をきいたりそれらしい衣裳をまとったりしている程度の人物は、自然のなかに、寓意的な形象の調和のとれた均衡が認められるような存在を求めているだけなんだ。真の芸術家にとっては、博物学者にとってと同様、どのような種も興味深いものなんだ、いちばん小さな筋肉だって、その重要性をそなえているんだよ。(以下、略)

 プルーストの文章を読んでいて、とは言うまい。シャルダンの絵を眺めていて、と言うのも愚かなのだろう。
 ただ、それでも、もう、四年も前に書いた、これまた感傷的なエッセイを思い出した。
 一部、転記する:
 書くとは、ある種の懇願の営為なのだと思う。何への憧憬か。それは、生きること自体の不可思議への詠嘆であり、この世に何があるのだろうとしても、とにかく何かしらがあるということ自体の不可思議への感動なのだ。この世は無なのかもしれない。胸の焦慮も切望も痛みも慟哭も、その一切合切がただの戯言、寄せては返す波に掻き消される夢の形に過ぎないのかもしれない。

 でも、たった今、ここにおいて感じる魂があるということ、それは、つまりはこの地上世界に無数に感じ愛し悩み喜び怒り絶望し感激する無数の魂のあることのこの上ない証拠なのであって(だって、自分だけが特別なはずがないのだ。誰もが一個の掛け替えのない存在なのだとしても)、その感じる世界の存在は否定できないような気がするのである。

 さて、話は戻る。小生は太陽でもなければ、地上の星々の一粒でさえないのかもしれない。
 でも、どんな塵や埃であっても、陽光を浴びることはできる。その浴びた光の賜物を跳ね返すことくらいはできる。己の中に光を取り込むことはできないのだとしても。

 月の形は変幻する。満ちたり欠けたり、忙しい。時には雲間に隠れて姿が見えないこともあるだろう。でも、それでも、月は命のある限り、日の光を浴び、そして反射し、地上の闇の時を照らそうとしている。
 月の影は、闇が深ければ深いほど、輪郭が鮮やかである。懸命に物の、人の、生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らかな光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、真の闇を許すまじと浮かんでいる。忘れ去られることのほうが実際には遥かに多いのに。

 月の光は、優しい。陽光のようにこの世の全ての形を炙り出し、曝け出し、分け隔てするようなことはしない。ある柔らかな曖昧さの中に全てを漂わせ浮かばせる。形を、せいぜい輪郭だけでそれと知らせ、大切なのは、恋い焦がれる魂と憧れてやまない心なのだと教えてくれる。
 せめて、月の影ほどに、この世に寄り添いたいと思う。
 窓の外の定かならぬ月影を見ながら、そんなことを思ったのだった。

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コメント

やいっち様、はじめまして。
オペラ座の灰燼と申します。弊ブログへTBありがとうございました。
「プルーストとシャルダンと…」の大変密度が濃く、心が熱くなる記事を拝見しました。
私が『失われた時を求めて』で好きなところは、自分を取り囲む事物の全てが、
最良の記憶を見出そうとするよろこびを得る、きっかけを与えてくれている
ことを作品を通して教えてくれているところです。
プルーストは何度も通読はできませんが、たまにあの心に浸透していくような
感覚を味わいたくなって手に取ります。
本当にすばらしい作家ですね。

投稿: オペラ座の灰燼 | 2007/10/24 23:59

オペラ座の灰燼さん
TBだけして失礼しました。

小生が評論家としてのプルーストを知ったのはほんの数年前、マルセル・プルースト著『評論選Ⅱ 芸術篇』(保苅瑞穂編 ちくま文庫)などを読んでからでした(その前に、本書の広告でオヤッと思った)。
オペラ座の灰燼さんは、筑摩書房の『プルースト全集15』で読んでこられたのですね。

今度、上掲書などを読むのは二度目となるのですが、やはり随所でプルーストの評論というより、ほとんど彼の本領発揮の文章に魅せられるばかり。
シャルダンを論じているのか、いつかしらまさにプルースト世界にメビウスの輪のごとくごく自然に滑らかに導かれるだけなのか、その叙述と観察と文責のキメ細かさと相俟って酔わされるばかり。
ネットで「プルースト シャルダン」で検索したら、オペラ座の灰燼さんの以下の頁に遭遇したのでした:
「デカダンとラーニング! 名作たち(13)」
http://blog.goo.ne.jp/phantom_o_t_o-0567/e/b67358d42792b28735f0da68bca54aa3

シャルダンの項だけでなく、随所で転記したくなる文章が、読むことそれ自体が快感となってしまうような文章があり、まさに本稿で転記した箇所もそうでした。
プルーストの世界に耽溺したら、もうそこから抜け出せなくなりそう。
記憶の世界でありつつ、人間にとっての記憶の不可思議をプルーストならではの、今、物語がそこで展開されているのを現にその場にあって観察し表現しつくそうとしているよう。
臨死体験で、自分が死んで横たわっているのを、その自分を取り巻いて家族や知人が歎いている様子を、部屋の片隅、天井の一角から眺め下ろし描きこんでいるような錯覚に陥ったりします。
そう、素晴らしい作家としか言いようがありませんね。

投稿: やいっち | 2007/10/25 05:30

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