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2007/10/18

雲行き怪しき禁書(?)の禁(1)

禁書(?)の禁を自ら犯してしまった!」なる雑文を綴ったことがある。
「禁書(?)の禁」と(?)を付したのは、言葉の使い方としてやや妥当性を書くからである。
 つまり、この拙稿では、本を買わないと三年前の四月に決めた誓いを自ら破ってしまったという話なのである。
 まあ、あまりに面白い本が、且つ、読むのに事情があったにしろ多少時間を要する本の登場が罪で、余儀なく買ってしまったのである。

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→ 昨年11月の某日。不穏な雲行きの空。

 さて、第二弾というわけではないが、また、「禁書(?)の禁を自ら犯してしまった!」なる拙文を綴ることになりそうである。
 といって、また面白そうな本、且つ蔵書として傍に置きたい本に出会ったということではなく、小生にとっては大切な試験がいよいよ来月に迫っており、今月末には模擬試験が予定されていたりして、本来、本を読むことに時間を割く余裕などあるはずがないのだし、あってはならない、でも、やはりこの期に及んでも本は手放せないし、それどころか、今日も図書館に行って、期限が来ていて返却すべき本やCDを返却したのみならず、CDだけならまだしも、ついつい本を物色し、借り出してしまったのである。

 過日、ウェスト・マリン 著『水の神秘』(戸田 裕之 訳、河出書房新社)なる本を借り出してきた。
 内容紹介に拠ると、「古代文明で水は神と一体化した特別な存在だった。現代では科学的に論じられる水も実は宇宙や地球史から見るとまだまだ謎多き神秘性がある。水自体を解く初の本格的な本」で、水への関心がこの頃、改めてやたらと沸き立っている小生、ちょっと期待して手に取った。
 なんたって、「全国学校図書館協議会選定図書」なのだ!

 高校時代に聴いた水の哲学の講演から哲学への関心が掻き立てられたといって過言ではない小生。期待大!
 が、本の数頁ほど読んでガッカリ。それでも、我慢を重ねて十数頁は読み進めたが、読むに耐えない。
 水を単なる科学の対象として分析的に理解するのではなく、その謎多き神秘性も含め、水という不可思議な存在を全体そのままとしても捉える試み…。

 ともすれば神秘主義に陥ろうとするが、最低限の科学の目で似非神秘主義の迷路には入らない…。
 それはいいとしても、あまりに科学から離れ過ぎ、水に付いてはこんな可能性もありえる、という記述の連続。
 ありえる、という話なら、そう、科学では未だ捉えきれない、よって科学的な検証の手も届かないというだけの話なら、幾らでもできる。
 でも、それではつまらない。ありえる、考えられるというだけではつまらない。
 読み始めたら意地でも最後まで読み通す小生には珍しく、とうとう途中で本書を投げてしまった(読むのを放棄してしまった)。

252011

← ウェスト・マリン 著『水の神秘』(戸田 裕之 訳、河出書房新社) 小生とは全く、肌が合わない本だった。

 水。水は方円の器に従う。酸素と水素との結合に過ぎないはずの物質の貴重さ。掛け替えのなさ。
 水の科学。もっと広く水の哲学、水の宇宙論は、その気になったら眩暈のしそうなほどの課題であり、尽きることのない瞑想の源泉であり、表現する試みの題材として手に余るほどに豊かな<モノ>であるはずなのである。
 
 次には、「私たちの故郷=海のふしぎと驚異をビッグバンから近未来まで壮大なスケールとユーモアで描く型破りのノンフィクション」だという、『知られざる宇宙 海の中のタイムトラベル』(フランク・シェッツィング/〔著〕 鹿沼博史/訳、大月書店)辺りを読みたいと思っているのだが、いつになることやら。

 上で小生が水についての講演を契機に哲学への関心を掻き立てられたといっても過言でないと書いている。
 その思い出の一端を書いた雑文「西谷啓治と水の哲学と富高生時代の思い出」から一部、転記する:

(前略)
 氏のどんな話にビビッと来たのか、残念ながら語りようがないのだが、ただ、世界の根源が水であるというタレスの哲学に引き付けながら氏の世界へ誘(いざな)ってくれたように記憶する。
 タレス(前624‐前546ころ)というのは、古代ギリシャのイオニア学派の哲学者である。ミレトス派の始祖で最初の哲学者とも言われ人物である。広辞苑によると「万物の元のもの(アルケー)は水であり、大地は水の上に浮かんでいると考え」、「あらゆるもの(宇宙世界)は神々(ダイモーン)に満ちていると考えた」とも言うが、「詳細は不明」とのこと。
 『ソクラテス以前哲学者断片集 第一分冊』(岩波書店刊)の解説に拠れば、「天文学研究をおこなった最初の人」であり、また、「魂は不死である」と最初に語ったのも彼である(と幾人もの人が言っている)という。
 アリストテレスの説明を読んでみよう。
「最初に哲学にたずさわった人たちの大部分は、もっぱら素材のかたちでのものだけを、万物の元のもの(始源)として考えた。すなわち、すべての存在する事物がそれから成り立っており、最初にそれから生じ、また最後にそれへと消滅していくところのもの、(略)その当のものを、存在する諸事物の基本要素であり、元のものである、と彼らは言っている」
「彼らは、いかなるものも生成もしなければ消滅することもないと考える」
「こうした元のものの数と種類について、彼らすべての言うところはけっして同一ではなく」
「このような哲学の創始者たるタレスは、水がそれであると言っている(大地が水の上に浮かんでいると主張したのも、そのためである)」(上掲書の中に引用してあるアリストテレスの『形而上学』の説明)
 この水というのが抽象的に捉えられた水なのか、そこにある水そのものなのか、イメージとしての水なのか、なかなか厄介な問題で、ここでは追究しないでおく。

 ここまで哲学的な話に深まらなくとも、海の謎は今も尽きせぬものがあるというし、小生も実感するところである。
                         (2へ続く

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コメント

タレスは論理的に万物の根源を考えたのではなく、直感的に「水だ!」とひらめいて叫んだという論考をどこかで読んだ記憶があります。
東大教養学部の井上忠さん、ギリシア哲学が専門ですが、最終講義で「自分は何にも分かっていないのです」といったとか。
まさにソクラテス的ですね。

投稿: oki | 2007/10/19 10:57

oki さん、コメント、ありがとう。
タレスは哲学(的思考)の始祖と、通俗的な哲学史の本などには書いてあります。
小生は、古代ギリシャ哲学者の言葉に思索というより詩や文学、神話のようなものを感じ、読むたびに瞑想に誘われる。
学生時代以来の愛読書・山本光雄訳編の『初期ギリシャ哲学者断片集』を読むと(タレスやヘラクレイトスなど)、断片ということもあり箴言に近い味わいと雰囲気が濃厚に漂っている。
http://atky.exblog.jp/958400/

つまり、近代の哲学の文章(精緻極まる論考・論理的展開)を読み慣れた者には、古代の哲学者は哲学的思索をしているのではなく、直感的(詩的、文学的、神話的)に世界を把握しているように見えるのだろうと思います。
水だ! という直感的閃きというのは、タレスにあったのかもしれませんが、ただ、そこに終るのではなく、敢えて一歩踏み出し、形而上的思索という近代や現代に繋がる道を切り開いた、まさにその点をこそ評価するのが穏当なのでしょう。

とにかく、上掲の『初期ギリシャ哲学者断片集』(山本光雄訳編、岩波書店)は素晴らしい本です。どんな詩文集より刺激的!

投稿: やいっち | 2007/10/19 15:45

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