日記と虚構の間を行ったり来たり
内田康夫氏著の『 喪われた道』(角川文庫)を水曜日、読了した。
本書に付いては、「サンバのため真面目にサボりました!(前篇)」の中で言及している。
というのも、所沢でのサンバパレードへの電車での移動中に読み始めていたからだ。
→ 10月6日の朝。都内某所にて。あと少しで朝焼けが望めたのだけど…。
多少、迷ったが、電車の中では落ち着かないだろうということで、読みやすそうな内田康夫著の『 喪われた道』を選んだのだった。小生は、内田康夫さんのファンなのである(その理由の一端は、「同姓同名に惹かれて、あるいは杜の都」に書いた。内田康夫さんの本についての書評エッセイは、他に「内田康夫著『箸墓幻想』」などがある)。
ちなみに、「内田康夫公認 浅見光彦倶楽部公式サイト」である「浅見光彦の家」で得た情報に拠ると、「中村俊介氏主演14作目となる、フジテレビ系列の浅見光彦シリーズ第28弾は『喪われた道』に決定しました。 だって!!
偶然とはいえ、嬉しい情報である。
この日記風レポートを書くための画像処理作業に相当程度時間が掛かったこと、そして昨夜来の疲れもあり、『喪われた道』はまだ、昨日、帰路の電車で読んだところで止まったままで、読了はいつになるか(つまり、次の外出がいつになるか)分からない。
とにかく、本書はいかにも内田康夫さんらしい展開や雰囲気があり、ドラマ化が楽しみである。
中村俊介さんという俳優さんも、小生は好感を持っている。このドラマに違和感を生じさせない。安心して見ることができる。
本書も浅見光彦シリーズの一冊である。
安心して読むことのできるサスペンス小説。
この安心には一色ではない意味がある。
ベテラン作家の作品だという大まかな意味もあるが、とにかく、当たり前なのかもしれないが、主人公は決して死なないという安心感が大きい。少なくとも当初は正体の知れない、謎の殺人者、それも計画殺人などを犯す知能犯だったり、大小はあっても組織に属する殺人者だったりするわけで、そんな相手に真っ向から立ち向かっていく。
← 内田康夫著『 喪われた道』(角川文庫)
しかも、時には敵の胸元深く乗り込んで行ったりするわけで、本来なら相当に危険だし、本物の刑事だってそんなやばい真似はしないはず(多分)。
しかも、主人公は自分では弱い人間を自称しているし、卑怯な奴なんですと、謙遜なんだろうけど、結構、マジにそう小説の中では主張している。
喧嘩も強いわけではなさそう(腕っ節が強いとは小説の中では示唆されていないはず)。
でも、死ぬだろうとは誰も(読者も)夢にも思わない。
作品の中では、無論、登場人物の誰かの意見という形を採ってだが、権力批判を方々で行なっている。
その意見だけを拾い読みすると、真っ当だし、小生も納得・共感してしまう。
が、その実、少なくともこの浅見光彦シリーズにおいては、主人公たる浅見光彦は、まさに権力のほぼ中枢の直近に居る。
なんたって主人公の浅見光彦のお兄さんは、現役の警察庁刑事局長なのだ!
ってことは、実質、権力のほぼトップの直下にいると思っていいわけである。
つまり、構図としては、天下の副将軍を自称する(ドラマの中では、お役人も町民・農民・武士を問わず、ハハーと這い蹲る対象である)水戸黄門と同じなわけだ。
多くの定番ドラマと同じように、将軍か副将軍、あるいは将軍の御落胤に準じるわけで、さすがに将軍の御落胤というわけにはいかないから(元首相の御落胤じゃ、ただのスキャンダルだし、高貴なお方の関係筋とするのも憚られるだろうから)、現役の警察庁刑事局長、しかも、いつまで経っても現役の警察庁刑事局長の弟君であらせられるわけである。
その意味で、権力批判や世相批判を尤もらしく折に触れ行なっていても、当人はその権力の中枢(の直近)で、まあ、自分が権力に近いことをエクスキューズしている、あるいはほとんど婉曲に自慢し、必要に応じてひけらかしていることになる。
この点に違和感のようなものを覚えないわけにはいかないが、しかし、こうした娯楽小説を読む場合は、批判的な目には少し、靄(もや)というかベールというか曇りを掛けておかないと読むに耐えなくなってしまう。
楽しめない。
もう、本音(?)をさらけ出して、自分の中の仮初の姿幻想といった(もしかしたら、オイラだって、アタイだって、高貴な方の落しダネ、御落胤、シンデレラ、プリンス、血筋を辿ると誰もがオオーと唸ってしまう、今のみすぼらしい姿は仮の姿なのだ…、世が世なら、あるいは時が来たら誰もが這い蹲るような立派な存在なのだといった、)発想に寄り縋ることで、今の惨めさ、辛さ、不当に低い評価に甘んじているに過ぎないのだということにして、こうした類いの小説をひたすら楽しめばいいのだろう。
権力志向ゴリゴリだけれど、卑屈で屈折しているものだから、仲間内では権力批判を欠かさず、世の不公平や不当さを歎いたり怒って見せたりする。
でも、本音では上昇志向があり高貴な存在への憧れが誰より強い…。
そんな少なからぬ庶民の人たちの<本音>を擽ってくれる、満たしてくれる、見果てぬ夢を叶えてくれる、だからこその大衆小説なのだろう。
とにかく批判の目を曇らせて読む限り、実に安心して読めるというわけである。
さて、そんなつまらないことを書くつもりではなかった。
本書のネタバラシをするわけにもいかない。
まずは、出版社の商品説明を:
青梅山中で虚無僧姿の死体が発見された。被害者は会社役員羽田栄三。「旅と歴史」の取材中に事件に遭遇した浅見光彦は、独自の調査に乗り出す。浅見は尺八名人の羽田が修善寺ゆかりの秘曲「滝落」の吹奏を拒絶していたことを知り、源頼家忌と重なった事件当日には、修善寺で虚無僧が目撃された事実を掴む。かつて修善寺で暮らしていた羽田の過去とは?頼家忌の伊豆で何が起きたのか?発見現場の青梅との関連は?やがて、浅見の前には「失われた道」という謎の言葉が立ちはだかる…。内田文学の新境地となった傑作長編推理。
→ 10月9日、都内某所にて。君の名は? (この花の名は、「ゼフィランサス」だそうです。「さるさる日記 - めぐり逢うことばたち」のかぐら川 さんに教えていただきました。「さるさる日記 - めぐり逢うことばたち タマスダレ」参照。 (07/10/14 追記))
「内田文学の新境地となった傑作長編推理」ということもあり、その関連で本書の末尾に載っている「自作解説」が面白かったので、一部、転記させてもらう。
ある意味、そこが一番、面白かったのだ:
久し振りに『喪われた道』を繙(ひもと)いてプロローグを読んで、「ああ」と思った。この情景に記憶があった。といっても、現実に見たわけではなく、創作のとき、心象風景として頭の中で体験した情景である。雨のそぼ降る伊豆修善寺の下田街道。小さな土産物店の店先で、店のおばさんとドライブ帰りらしい女性が、店の前を通ってゆく虚無僧を見送る風景だ。天蓋(てんがい)を傾け、濡れそぼった墨染(すみぞめ)の衣(ころも)の背を丸めるようにして、求道の僧が行く――。
講釈師、見てきたような――というが、僕にもし創作の才能があるとすれば、おそらくこの「見てきたような」状況に自己催眠をかけられる性質を持ち合わせていることかもしれない。べつに風変わりなトリックを案出するわけでもなく、文章力もなく、そもそも小説書きの方法もよく知らない僕の、唯一、特長的な部分はそれである。『喪われた道』のプロローグを書いているとき、そういう状況下にあったにちがいない。
ワープロに向かい、愛想のない平べったいスクリーンを眺めていると、そのスクリーンの奥に風景が見えてくる。いや、脳の中のスクリーンというべきだろうか。脳のスクリーンに映った風景を透かしてワープロが見えると言ってもいい。
雨のそぼ降る下田街道。ちっぽけな土産物店。侘しげな虚無僧。それを見やる二人の女性。遠くに雨にけぶる山。黒々とした近くの森。軒端をしたたり落ちる雨雫。虚無僧の脚絆(きゃはん)いはねた黒い飛沫(しぶき)。わさび漬を包んだビニール袋のぬめっとした感触。おばさんのほつれ髪。客の女の赤いマニキュア……。風景のすみずみまでみんな見えている。これがその時の僕の「世界」である。その世界の中に入り込み、見たまま、活字を打ち込んで、小説になる。これが僕の小説作法である。
前述の風景はプロローグの場面にすぎないけれど、その前後はむろん、ストーリーを構築する無数の場面が、あたかも映画の長尺(ちょうしゃく)のフィルムのように、延々と連なる。眼前に見えている情景の向こうに、これから編集されるはずの情景が、意識として、あるいは無意識として存在し、ひっそりと出番を待っている。そのとき、人物もまた情景の一部であり、風景はまた人物の心象を彩(いろど)り、形作る。『喪われた道』は、こういう僕の、たぶん独特な創作手法によって書かれた、典型的な作品だったと思う。
虚無僧と大久保長安と土肥金山……。三題噺(ばなし)のようなこの三つの要素が、この作品のキーワードで、すでに、虚無僧を書いてみようという発想が、確かにあったような気がする。そうして、このアナクロニズムの象徴のような風体(ふうてい)が、全編を通じて作品に深い陰影を投げかけている。大久保長安と土肥金山はワンセットになって、三百年の過去と現在を結ぶ因縁のタテ糸だ。太平洋戦争、伊豆近海地震、狩野川シアン汚染事件……とヨコ糸を織りなして、巨大なスクリーンを作り、現代の怪談を投影した。
(残り、略)
以下は小生の拙稿(「中島敦『李陵・山月記』雑感」)からの抜粋である:
ワープロ(今はパソコンであるが)に向かって書く際に心掛けていることは、画面の向こうには無際限の世界が広がっているということ、無辺大の世界に自分が今、たまたま生きているのだということ、際限のない宇宙の中で、自分はほんの束の間の生を受け、生きているという意識を意識しているだけなのだということ、ただそれだけである。
画面を通して姿なき茫漠たる宇宙、巨象より遥かに巨大な宇宙のほんの僅かな肌に触れているだけの、その微かな現実感を頼りに天の海・星の林に漕ぎ出している。
どんな小さな世界でも、それは世界であり、宇宙を映す窓が開いており、どんな広大無辺の世界も、視点を変えれば塵や芥の豊穣さに優るとは限らないのである。
そのことは自分のちっぽけな心についても言えることであって、己が狭隘な心しか持たないからといって、それはそれで一つの小宇宙であり、そんな小さくて頑なな宇宙も宇宙の示す相貌の一面に他ならないのだと思う。
ある段階までは、あるいはある場面においては、実に共感・共鳴するところがあった。
実際、ゴミ置き場と化したような狭苦しい一室で小生はパソコンに向かい、雑文を綴ったり創作したりする。
特に創作に取り掛かった際は、一旦、創作モードに入ったなら、画面しか見えなくなる。というか、画面さえ見えていない。内田氏の言葉を借りたら、ある見てきたような光景が次々と浮んでくる。あるいはイメージといったような摑みどころのない、モヤーとした曖昧模糊たる世界に過ぎないとしても、とにかく懸命に想像空間に浮遊するイメージの雲を形のままに言葉へと定着させようとする。
大いに違うのは文章力もさることながら、物語を構築する力だ。構想力というべきか。
まあ、それはそれとして、この「自作解説」は、小生には、なかなか面白かったのである。
蛇足だが、もしかしたらお詫びしなければならないことを書く。
拙ブログ日記「彼岸花…闇に浮ぶ赤い花」の冒頭で小生は下記のように書いている:
何年か前の秋口のことである。
但し、一瞬、錯覚したというだけの話である。
思い出話だが、かなりの程度、脚色している(部分的には創作も)。
告白すると、実は、この日記は前文を含め、ほとんどが創作なのである。ブログの記事を書こうとして、あれこれない知恵を絞ってみたが、全くネタが浮んでこない。あっても、三題噺(ばなし)にならず、題が一つか二つしかない。
小生は、三つの着眼点(や足がかり、キーワード)を見つけたと思ったとき、ブログに仕立てることにしている。
が、その日は全く、何も浮んでこなかったのだ。
で、苦し紛れに思い出話を書き綴るようにして書いている…が、あくまで思い出話風であって、実際には、せいぜい、何処か真夜中過ぎに人気のない場所へ向っていく途上、一瞬、背筋を冷たい感覚が駆け抜けていくという、タクシードライバーたる小生にはよくある日常的と言っていい感覚を物語化してみせたのである。
あとは、脳裏の中のスクリーンに次々に浮かんでくる心象光景を<言葉>で描いているだった。
あの思い出日記に関する限り、具体的な実体験は類似するものを含め、全くなかったのだ。
その意味で、「創作の館」である「無精庵方丈記」に掲載した短編「闇に浮ぶ赤い花」より、日記と断って書いた「無精庵徒然草」の中の「彼岸花…闇に浮ぶ赤い花」のほうが遥かに虚構作品だと言えるかもしれない。
何故なら、「闇に浮ぶ赤い花」は一応は虚構性を強めていますと断っているが、「彼岸花…闇に浮ぶ赤い花」のほうは、「思い出話だが、かなりの程度、脚色している」と日記のサイトで断っているのだから。
これって、人を騙したことになるだろうか?!
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