埴谷雄高「死霊」の構想メモ見つかる!
2日(火)、テレビのニュースで、興味を掻き立てられる情報が伝えられていた。
それは、「埴谷雄高「死霊」の構想メモ見つかる」(「asahi.com:朝日新聞の速報ニュースサイト」より)というもの。

→ 『埴谷雄高 新たなる黙示』(対談・島田雅彦×鹿島徹、埴谷エッセイコレクション 河出書房新社)
一部、転記する:
戦後文学の代表作の一つ、作家埴谷雄高(1909~97)の大長編小説「死霊(しれい)」の構想メモが見つかった。神奈川近代文学館が2日、発表した。30年代後半に書かれたものと推定され、戦後に発表された小説とは異なる設定・人物造形がみられる。戦後の思想界にも大きな影響を与えた哲学小説の生々しい原形を示す貴重な資料だ。
(中略)
「主題」と題したメモからは、当初から哲学と文学とを融合した作品を構想していたことがわかる。一方、人物造形メモからは、当初は主役の設定が異なり、主人公と活動家の2人がメーンだった。活動家がのちに実兄と異母兄とに分裂していったことがうかがえる。また、主人公の婚約者はエキセントリックな女性とされ、活動家と「強姦(ごうかん)」について語る場面の草稿も見つかったが、こうした場面は小説には出てこない。
(中略)
構想メモは、6日から11月25日まで同文学館で開催される「無限大の宇宙――埴谷雄高『死霊』展」で展示される。また今月6日発売の文芸誌「群像」11月号に構想メモ全文と解題が掲載される。
「無限大の宇宙―埴谷雄高『死霊』展」(「会期 : 2007年(平成19年) 10月6日(土)~ 11月25日(日)」「神奈川近代文学館/(財)神奈川文学振興会」参照)

← 『カラマーゾフの兄弟1』(ドストエフスキー/亀山郁夫 [東京外国語大学・教授] 訳 光文社 古典新訳文庫) 「父親フョードル・カラマーゾフは、圧倒的に粗野で精力的、好色きわまりない男だ。ミーチャ、イワン、アリョーシャの3人兄弟が家に戻り、その父親とともに妖艶な美人をめぐって繰り広げる葛藤。アリョーシャは、慈愛あふれるゾシマ長老に救いを求めるが……。」
小生は、高校三年のある時期から埴谷雄高の小説や随筆・評論に読み浸るようになった。
多分、目にしえる作品は全てかどうかは分からないが、大よそは読み尽くしたはず。
彼の全集は出ると分かった時点で予約し、寂しい懐から全巻を買い揃えた。部屋に鎮座している。
学生時代から社会人に掛けての十年前後、一番、傾倒した。刊行される本は片っ端から買って読む。
後に、各種の単行本どころか、いろんな紙媒体から掻き集められた、断簡零墨の類いと思われる本も出されるようになったが、そんな本も干天の慈雨とばかりに購入し読む。繰り返し。
一人の作家について、徹底して付き合ったというと、若い頃に限ると、日本では埴谷雄高であり、外国だとドストエフスキー(ドストエフスキーは、小説に限っては、『カラマーゾフの兄弟』も含め全作品を少なくとも三度は読み通している)である。
埴谷雄高は『死霊』の最終章(9章)までを少なくとも二度は読んだが、率直な感想として1章から3章までの叙述の密度には、その後の章は、ちょっと達していないと感じている。まあ、4章も読むに耐えるけれど、それでも、やや通俗性の気味があって、読みやすくなっているけれど、埴谷雄高らしい鬱屈した出口なしといった叙述にはなかなか出会えなくなってしまったように感じた。
むしろ、評論が面白い、悲しいかな5章以降の小説よりも…と感じてしまって、寂しくなってしまった。
彼は体質的に小説家というより、評論家であり文学的アジテーターなのだろう。
『死霊』も評論家が頑張って作り上げた、やや窮屈な作品という感がある。
本当の(本当の、ということで何を意味するか、正確には言えないのだが)小説家ではないのだろうと思う。

→ 『カラマーゾフの兄弟2』(ドストエフスキー/亀山郁夫 訳 光文社 古典新訳文庫) 「死の床にあるゾシマ長老が残す、輝く言葉の数々。長老の驚くべき過去が、明らかにされる。イワンが語る物語詩「大審問官」の本当の意味。少女の一滴の涙は、世界の救済と引き換えにできるか。」(今年の7月には最終巻である『カラマーゾフの兄弟 5』が出ている! 今度、読むとしたら亀山郁夫氏訳か。既に本書で読み通された方もいる。年齢的に近いこともあってか、「極東ブログ [書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳)」の感想に妙に共感してしまった。まだ、この翻訳では読んでもいないのに!)
それでも、彼が日本の文学において屹立した存在であることに変わりはない。
いつかまた、機会を設けてあれこれ書いてみたい(というのも、埴谷雄高とドストエフスキーに限っては、彼らを論じる文章で啓発されたことは一度も無いから、ということもある)。
真正面から扱ったわけではないが、小生には「池田晶子と埴谷雄高にオン!?」という拙稿がある。
若干、転記しておく:
埴谷が妄想といい、思考実験を強調しているのは、その通りなのだとしても、また、それは詩的文学であり、若干の哲学なのかもしれないとしても、彼が妄想に耽っているその同時代において(埴谷自身、関係する文献は読み漁っていたはずだ)、知の突端を行く人たちが、妄想にも空想にも踏み込むことはないにもかかわらず(当然だ、学問なのだし、他の学者の徹底した批判や検証や議論という試練に耐えなければならないのだ)、数式と理論に裏打ちされつつ、目くるめくような思索と研究が実行されつつあることを小生は、素人なりにひしひしと感じてしまうのである。
宇宙や生命の一回性の自覚を迫りつつあるのは、何も素粒子論(宇宙論)の分野に限らない(一回性の極地が環境問題)。数学の世界、生物の世界、環境、政治(イラク戦争の愚かしさ!)、経済、文化、もっと言うと、卑近な日常を生きる市井の人の日々の生活の現場で、土壇場を生きつつ、人間の思考と感情と想像の世界を、それこそ鉗子(かんし)で(心の)肉体の傷口を抉るようにして、広めつつある。
← 『埴谷雄高・独白「死霊」の世界』(日本放送出版協会)
日常を徹底して生きるだけで垣間見えてくるものがある。自覚的に生きてあるだけで、感じられ想像を迫られ疑問に駆られ、選択を迫られ、アッハ!とプフィ!の連続になってしまったり。
まさに池田晶子の本のタイトルにある「オン」=存在の世界の中にあってさえ、妄想をも脅かすような知見に満ちた現実が日々、展開されているということ。
[10月3日に書いたこの記事に当初、併せて載せていたミャンマー関連の記事は「ビルマと呼ぶかミャンマーか、それが問題だ!」として独立させました。 (07/10/06 記)]
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