水、海、と来ると、次は雲である!
[本稿は、「雲行き怪しき禁書(?)の禁(1)」の続きである。]
「雲行き怪しき禁書(?)の禁(2)」
~~水、海、と来ると、次は雲である!~~
何年か前、NHK総合テレビの特集だったと思うが、(正確な題名は忘れたが)「深層海流二千年の大航海」といったテーマの番組を見たことがある。
→ 10月18日の夕刻。雲の多い日で、時折、小雨も。雲の画像を得ようと空模様を写そうとしたら、月影が微かに…。
「かがく用語集 深層海流二千年の大航海」(ホームページは、「NHKオンライン」)なる解説を読んで欲しいが、ここでは以下の点だけ転記する:
近年、深さ数千m~1万mもの深海に、ごくごくゆっくりとした海水の流れがあることがわかってきました。その流れは、場所ごとに決まった方向を持ち、約2000年で海洋を一周する循環をつくっています。この深層水は北大西洋で作られ、その循環が気候の安定化に重要な役割を果たしていることがわかってきました。
深層海流…約2000年で海洋を一周する循環…これだけでも軽い眩暈の起きそうな話だ。
以前、富士山頂に降った雨(雪)の水が富士山に浸透し、麓で湧き水として顔を覗かせるまでに千年の歳月を経るという話を初めて聴いて知った時の驚きにも匹敵する。
番組の(小生の受けた印象上の)ハイライトは、「融解し、縮小する大陸氷床が残した大量の淡水が、密度が低いために北大西洋の深層への沈み込み口を覆い、そのために深層循環が停止し、北米やヨーロッパでは氷期に逆戻りしたような気候を一時的に経験したと考えられています。」という部分。
気象異常がこんな形でもゆっくりと、しかし断固として発生し進行している…。
その後、深層海流(大海流)の研究や、一般の関心は相当に深まっているようだ。
昨年も、「トヨタECOスペシャル 生命の海・地球縦断!深層大海流を追え!!」(WEBChuサイト 中京テレビ)なんて番組があったらしい(見逃した)。
← 『知られざる宇宙 海の中のタイムトラベル』(フランク・シェッツィング/〔著〕 鹿沼博史/訳、大月書店) いつ、この本を手にすることができるだろう…。
水、海、と来ると、次は雲である!
昨日、水曜日、<禁書(?)の禁>を破って借りてきたのはリチャード・ハンブリン著の『雲の「発明」 気象学を創ったアマチュア科学者』(小田川佳子訳、扶桑社)である。
内容説明によると:
雲で気象を読むのは、じつは非常に近代的な考えかたである。
雲は、不定形でつかみどころがなく、移り変わるものの代名詞だったのだ。
時は、19世紀初頭―科学が大衆の「娯楽」として人気を博した時代。
ある科学講演会で、アマチュア学者が、聴衆に大興奮を巻き起こした。
彼は、雲を分類し、名をつけたのだ。
それは、画期的な“発明”だった!一介の素人研究家が「気象学」という新たな地平を切りひらき、ゲーテの絶賛を浴びることになったのだ…(略)。
小生は未だ本書を読み始めたばかりだが、なかなか興味深い。
「気象学を創ったアマチュア科学者」である「ルーク・ハワード」なる人物名は初耳である。
「雲は天才である (書物漂流) 」(松島 駿二郎氏 NBonline(日経ビジネス オンライン))なる頁は格好の書評の頁だ。
一部、転記する:
ところで、何が不思議かと言えば、そういった雲に固有の名前が付けられたのは19世紀初めのことだという。本書は雲を分類し、それぞれに固有の名前を付けた男の物語。化学の基本は物質の普遍的な分類と、呼び名付けである。そして、それは地球上のどこでも等しく同じ性質、形状を持たなくてはならない。驚くのは18世紀に至るまで、だれも雲というものを分類し、名前を付けようとしなかったこと。
(略)
18世紀の初頭、ルーク・ハワードという無名のアマチュア科学者が、ロンドンの科学講演会で、雲の発生の理論と、雲の分類、呼称についての発表を行った。今まで誰もが見過ごしてきた、雲というものに科学の目が向けられるようになった。新しく誕生した科学は気象学である。計測と観察を最大限に要求する科学の分野だった。
「雲に固有の名前が付けられたのは19世紀初めのことだ」というのは本当なのだろうか。
上掲の書評にも「観天望気」なる言葉が紹介されており、「海で働く男たち、あるいは登山家などがいつも実践していることで」はなかったのか。
昔の人は雲の形に固有の名称を付したりしなかったのだろうか。
この点は、まだ、保留にしておく。気象学に結びつく形では雲の形それぞれに名称は与えられなかったとしても、何か古くからの雲それぞれに対する呼び方があったのではなかったのだろうかと思えてならないのである。
いずれにしても、「1894年、スウェーデンのウプサラで開かれた国際気象会議で、雲を大きく10種類に分けることが決められ」たのだが。
→ リチャード・ハンブリン著『雲の「発明」 気象学を創ったアマチュア科学者』(小田川佳子訳、扶桑社)
いずれにしても、水は氷、水、気体と自在に姿(様相)を変える。水や水蒸気は形も変幻自在だ。
「雲は天才である」とは、石川 啄木の小説の題名だが、執筆は1906年。
昨年、執筆百年目だったわけだ。
せっかくなので、ほんの一部、前後の脈絡に関係なく(人間の性格を気象(大気)で表現している部分ということで)転記する:
(前略)彼は唯一箇の不調和な形を具へた肉の斷片である、別に何の事はない肉の斷片に過ぎぬ、が、其斷片を遶る不可見の大氣(アトモスフィーヤ)が極度の「悄然」であるのであらう。さうだ、彼自身は何處までも彼自身である。唯其周圍の大氣が、凝固したる陰鬱と沈痛と悲慘の雲霧であるのだ。そして、これは一時的であるかも知れぬが、少なからぬ「疲勞」の憔悴が此大氣をして一層「悄然」の趣きを深くせしむる陰影を作(な)して居る。或は又、「空腹」の影薄さも這裏(このうら)に宿つて居るかも知れない。
禮を知らぬ空想の翼が電光の如くひらめく、偶然にも造花の惡戯(いたづら)によつて造られ、親も知らず兄弟も知らずに、蟲の啼く野の石に捨てられて、地獄の鐵の壁から傳はつてくる大地の冷氣に育(はぐ)くまれ、常に人生といふ都の外濠傳ひに、影の如く立ち並ぶ冬枯の柳の下を、影の如くそこはかと走り續けて來た、所謂自然生(じねんじよ)の大放浪者、大慈の神の手から直ちに野に捨てられた人肉の一斷片、――が、或は今自分の前に居る此男ではあるまいか。
寄り道はこれくらいにして、リチャード・ハンブリン著の『雲の「発明」 気象学を創ったアマチュア科学者』(小田川佳子訳、扶桑社)から、ほんの触りの部分だが、少し転記する:
(前略)地球はこれまでつねにそうだったのと同じく、ほとんど見分けがつかない速度で今も変化をつづけている。地球の目に見えない圧力で地表全体が上昇、あるいは下降をつづけており、その不変さから元素の中でもっとも力のある水は、地球の自転につれてつねに形を変えつづけているという恐ろしい考えが、新たに生まれた。今ここにあるすべてが、将来のいずれかのある地点でふいに奪い去られるのだ。宇宙はその変化の無言のダンスを止めることなく、動きや振動によるその変化の過程は今や、全体への影響の速度にかかわらず、自然科学に対する疑問の真の対象とみなされた。自然界の変化という概念が、気象学を生みだす背景となったことを知るのはけっして難しくはない。雲と水は、ほあのあらゆる現象の中で、自然界では一瞬たりともひとつところに留まってはいないことをもっとも明確に示しているのだろう。(以下、略)
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