中村紘子さんと漆原 啓子さん…ラジオつながり
またまたラジオで聞いた話が切っ掛けになってのあれこれ。
過日、ピアニスト(且つ国際ピアノコンクールの審査員!)の中村紘子さんの話を聴く機会があった。悲しいかな話の中身は忘れてしまった。
代わりに(?)、「アーティスト・インタビュー 中村紘子さん - [クラシック]All About」を紹介しておく。
「今、初期の段階でと言われましたが、やはり音楽の才能は子供の頃で決まってしまうのでしょうか?」という質問に中村紘子さんは、「演奏というのはもっとも早熟な分野で、2才から12才くらいが一生を決定してしまいます。才能のある子供がすばらしい先生の下につけば、僅か数年で大ピアニストのレベルに達します。これは脳生理学としても自然なことで、他には、数学や将棋といった分野でも同じと言われています」とか、「日本の場合は学歴社会ですから、音高や音大に行かないとダメと思われています。でも、本来ならその年頃はもう演奏家として一人立ちしなければならない時期なんです。一流の音楽家になるためには、10歳くらいまでに徹底的に鍛えて、15、6歳ではもう完成していないとダメです。アルゲリッチだってポリーニだって、第一線の演奏家はみなそうです」と答えておられる。
さもあらんと思いつつも、印象的な話である。
← 中村紘子『グランド・リサイタル』(AVCL-25020 2004/10/06) ソニー・ロリンズのCDなどと一緒に借りてきたのだが、このところ、自宅ではこのCDを流しっ放し!
(小生が創作する場合でも、ガキものが多いのは、ある意味、幼少の頃のことをずっと引きずっているからなのかもしれない。といっても、情操豊かなガキだったわけではない。早熟なわけがない! むしろ、真逆。全く熟すことが叶わなかった気がする。「空白の頁」というか、物心付く前後の頃のことを覗き込もうとすると、真っ暗な穴を覗き込むような、下手に手出しすると穴に吸い込まれていくような気がするのだ。でも、この辺りのことは別の機会に改めて。多分、創作の形で!)
印象的というと、ここでは触れないが、才色兼備の中村紘子さんが高く評価する、『東洋の奇跡』とも呼ばれるピアニスト・田中希代子さんとの因縁は、音楽ファンならずとも興味深いかもしれない:
「田中希代子 - Wikipedia」
あるいは、彼女自身の言葉をというなら、[モーツァルト生誕二百五十周年記念録音]に絡んでの「中村紘子:avex-CLASSICS モーツァルトの夢」での話が面白い。
彼女に付いては、あまりにも有名な方なので小生如きが改めて紹介する必要はないだろう。
例えば、「中村紘子 ピアノ プロフィール ジャパン・アーツ」にはこうある:
その演奏ぶりについては既に余りにも多くが語られているが、20世紀最高の批評家の一人とされるハロルド・ショーンバーグは、そのピアニストに関する代表的な名著『偉大なピアニストたち』(「The Great Pianists」Random House 1987)の中で東洋人ピアニストとしてただ一人中村紘子の名を挙げ、その特色を「絢爛たる技巧」と「溢れる情感」そして特に「ロマンティックな音楽への親和力(affinity)」にあると評している。事実、彼女の繊細なリリシズムと激情のダイナミズムを兼ね備えた天性をもし「ロマンティック」と形容するなら、その一種デモーニッシュなまでの「親和力」こそ、聴き手の魂をかくも惹きつける中村紘子の魅力の秘密であろう。
→ 中村紘子『モーツァルト:ピアノ・ソナタ集』(AVCL-25130 2006年12月6日発売 [モーツァルト生誕二百五十周年記念録音]) 次はこれを聴きたいなー。
「中村紘子 - Wikipedia」などにも載っているが、「小説家庄司薫の妻としても有名で中村自身も後年著述に進出」。
その著述だが、小生は、彼女のエッセイのファンであるとは幾度もこのブログでも書いている。
つい先月下旬にも、「青柳いづみこ…双子座ピアニストは二重人格?」の中で、『ピアニストという蛮族がいる』とか、『アルゼンチンまでもぐりたい』(いずれも文春文庫刊)などなどを例に挙げている。
悲しいかな彼女の演奏会に足を運んだことはない。ラジオやCDなどで聴くだけ(一度だけ、某所で御姿を拝見したことがある!)。
そういえば最近、彼女の演奏を聴いていないと気付き、図書館に寄った際にCDを物色。
何点かあったが、『グランド・リサイタル』(AVCL-25020)を選んだ。正解だった。
感想を小生が書く必要もないだろう。聴いていて実に心地いい。
他にも、「美人ピアニスト中村紘子が(かの梅原龍三郎の)モデルになっているシーン」が話題になっているブログ(「ぶーすかヘッドルーム・ブログ版 新日曜美術館「梅原龍三郎 ルノワール伝説の真実」NHK」には興味深い話と共に、その画像もある!)など、触れたい話題はあれこれあるけど、きりがないから、今日はこれでやめておく。
← 『漆原啓子ヴァイオリンリサイタル第6回』(11月27日(火)19:00 HAKUJU HALL 「漆原啓子」の中の「Keiko Urushihara schedule」参照。「広田智之、曽根麻矢子、藤森亮一、吉田秀という豪華な共演者」だとか)
10月の5日(金)にヴァイオリンのソリストである漆原 啓子(うるしはらけいこ)さんへのインタビュー番組を聴くことができた。金曜日であり、聞きかじりだったが、好きな楽器であるヴァイオリン、そのソリストである漆原 啓子さんの話や演奏とあっては、断片的となろうと、聞ける範囲で耳をダンボにして聴く!
話の内容は例によってメモも取れないし、話の大半は忘れてしまった。
代わりに「響ホールフェスティヴァル 漆原 啓子 (ヴァイオリン)」なる頁を紹介しておく。
「1981 年、東京芸術大学付属高校在学中、第8回ヴィニャフスキ国際コンクールにおいて、最年少 18 歳で日本人初の優勝と 6 つの副賞を受賞し、翌年、東京芸術大学入学と同時に本格的演奏活動を開始」以下、輝かしいプロフィールが載っている。
「17 歳の若さでデビューして以来、常に第一線で活躍を続け、 2006 年にはデビュー 25 周年をむかえたヴェテラン・ヴァイオリニスト」で、金曜日のラジオ出演も、「デビュー 25 周年」のことが話題になっていた。
本人もあっという間の25年だったとか。
→ 『バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全集』(漆原啓子 (演奏), バッハ (作曲), 小林道夫 (演奏) オクタヴィアレコード) (画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より)
話の中で、ヴァイオリンの演奏の練習方法について興味深い話があった。
まずは、演奏の際の姿勢の話。
これは今は略す(忘れたし)。
姿勢の話以上にオヤッと感じたのは、以下の演奏の基礎を習得する際の話。
例えば、ピアノの練習だと、両手を使うが(足も使うけれど)、練習の際、片手ずつ練習することもある。これは想像がしやすい。
が、ヴァイオリンの基礎を習得する練習でも、片手ずつ練習するのが大切なのだという。
どうやって? どのようにして?
その点についても語っていたような気がするが忘れた(肝心の話を聞き漏らすのが弥一なのだ! って自慢してどうする?!)。
彼女の妹さんである漆原 朝子さんのことも話題になっていた。
今は、下記のサイトを示すに留めておく:
「「漆原 朝子のシューマン」ライブ・レコーディングCD評」
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コメント
確かに誰でも子供の時は左右の区別がつかない。その差がつく遅れも早生も多少ありますね。ピアノのような左右のシンクロは、その差がついてからでは出来ないのでしょう。特別器用になると、プロになってからも後ろ手で引くような曲芸をする人もいる。
弦楽器の場合は、左右が全く違う動作ですから、シンクロの意味が異なりますよね。これは楽譜も違う形で書かれている訳で、むしろ左右分離できる。ただそれで鋸の目立てにならないようにするには子供の時の体の柔軟性が必要なのでしょう。
ただ幼児教育は、鈴木メソッドのように誰でもある程度思うように体を動かせるようになるだけで、才能とか教わる癖はなかなか克服出来ない。
さらにコンクールに合わせて修行するとそれが流儀となってしまう。ネットで中村女史のぱらぱらした内声を聞くとショパンコンクール第四位をどうしても思い出してしまいます。
それで、ご本人を見かけた時の直感的印象は如何でした?私の漆原朝子嬢の印象は、オープンな感じで、大変好感をもちました。
投稿: pfaelzerwein | 2007/10/07 11:22
pfaelzerweinさん、コメント、ありがとう。
音楽には(聴くのは好きだけど)人一倍弱い小生、こういったコメントをもらえると助かるし、嬉しいです。
左右の手の動作、ピアノとヴァイオリンと同列に論じるのは確かに無理がありますね。
その上で、ヴァイオリンという弦楽器は、弦に弓をあてがって初めて音が出る楽器。
そうした楽器で左右の手を別々に練習するとは一体、どういうことなのだろう。
楽譜が左右それぞれのために書かれているってのは分かるけど、それは指のポジショニングとかのことだろうと思われる。
練習の際には、「左肩(鎖骨の上)にヴァイオリンを乗せて、顎当てに顎を乗せて挟み込む。左手で楽器を持ち、顎と肩だけでヴァイオリンを支える」という左手や姿勢を含めての基本(基礎)が大事だということなのでしょうか。
音楽における幼児教育。さまざまな方法や流儀があるのでしょうけど、徹底した練習で感性がへこんでしまうってことはないのかなって、余計な心配をしてしまう。
それは別にして、音楽や数学や将棋などなどの幼い頃に発揮される才能って、やはり不思議で不可思議に思えてなりません。
天性のものと言ってしまえばそれまでのことなのでしょうが。
中村女史、ほんの一瞬、某所で車から降りるところを見かけただけなのですが、長く舞台などで聴衆(観衆)の前に立ってきたのだろうなということ、また、彼女の諸著に見る文才、といった予備知識(?)があって、オーラというか威厳を感じると同時に、存在感を感じてしまいました。
投稿: やいっち | 2007/10/08 00:42
なるほど。楽器演奏のことは語るのは本当はこのサイトを見ていてバリバリ弾くような方が適当なのでしょうが、意外にこうした素直な疑問や不器用な人間の解析に面白いことが見つかるかもしれません。
指のポジションとりはピアノのタイピングと同じでどんなにアイデアがあっても正しく音楽的に自動的に押さえないと話にならない訳ですが、ご指摘のように最終的には耳で聴かないと駄目ですよね。車の運転でもいちいちウインカーやギヤーの位置を見ていたら駄目ですし、曲によってもしくは車によってある程度練習すれば、どんな道でもハンドルの切れ具合を試しながら走れなければいけない。しかしF1ならば、特別な訓練をしていないとシケインを通り抜けられない。これを指の練習としましょう。
その車のギアを巧く楽曲のもしくは作曲家の要求に応えて奔り方を整えてやるのが弓のボウイングとしましょう。極度に難しいシケインがあるとしたら、極限の走行をするためにクラッチとギア操作をイメージトレーニングしますよね。スポーツも楽器演奏も全く形而下では同じですね。分離することでより合理的に練習出来る。
ある意味、どの分野でも形而下の運動をつき詰めていくと、つまり職人的なものの先に形而上の世界があるとしたロマン的な世界が広がっている。ファウストではないですが「悪魔」の世界となりますね。
この問題と前世紀の実存主義や近代合理主義など関連しているだけに、拘わりたいのです。リンクで女史がモーツァルト解釈について、「私たちがピアノで聴くものとは全く違うものであったことは改めていうまでもない」と創作当時の楽器について思慮して、「彼はきっと心のどこかで今日のピアノの音色を夢み想像していたに違いない」と声明しています。
一言で批判すれば、指の先の向こうでもしくは芸術や学術が形而上に展開するところで、はじめて文化人の出番です。それを、一挙に夢想の世界に羽ばたかせると言うことを認める訳にはいかんのです。「話せないなら、沈黙しろ」と言わなければいけない。
投稿: pfaelzerwein | 2007/10/08 06:39
pfaelzerweinさん
またまたコメント、ありがとう。
レスが遅れてすみません。サンバパレードのレポート作成に終日、掛かりっきりでした。
画像が多いと、壁紙としての文章も長く書く必要があり、時間が掛かって大変でした。
音楽(作曲のみならず演奏も)にしても数学にしても哲学にしても文学にしても、どこかで盲目的な意志の奔流に接していくような気がします。
あるいは、そうした圧倒的な闇の蠢きやちっぽけな生命感や存在感など圧倒し去るような豊穣さが、時にマグマの溶岩が噴出口を天才という形で見出し、時に噴火するのでしょう。
ただ、溶岩の噴出に、常に形を与えられるとは限らない。
否、むしろ、大抵は、形がいびつになり、のみならず、噴出孔を破壊し去ることのほうがありがちだろうとは容易に想像されます。
作曲はともかく、演奏は、そうした天才というマグマへのルートを探し出す試みなのでしょうか。
指の指す先には何があるのか、演奏するとは巨大な象の肌を撫で摩るその試みなのでしょう。
文化人の営為など小生には窺い知れない世界。ただ、形而下の世界でもがき足掻く中で、ほんの一瞬、話せないし、言葉にはならないけど、沈黙も不可能な何かを思惟する瞬間があるのではって期待します。
凡人のささやかな夢ですね。
「彼はきっと心のどこかで今日のピアノの音色を夢み想像していたに違いない」と声明できるとは、ある意味、相当に幸せな、自負心一杯の方ってことなのでしょうか。
小生にはモーツァルトはマグマ溜りの激烈さを知り尽くしていて、自分が引きだせるのは神の戯れ程度に過ぎないと気付いていた、だからこそ、魔の世界にだって戯れることができたんじゃないかって思うのですが。
いずれにしても、過日のラジオ番組では、そんな話をしていたわけじゃなかったようです。
投稿: やいっち | 2007/10/08 23:37