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2007/10/21

受肉された吐息

 青い空を見る。青い海を見る。その狭間を海鳥たちが舞い飛ぶ。遠くには幽かに不二なる山の優美な姿も望める。
 空には白い雲。海辺には寄せては返す波。浜辺に沿って緑なす松の並木が何処までも続いている。そして頬を撫ぜる潮風と、その香り。

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 絵のような美しさ。それとも写真のように木目細かな像。心地よさ。
 なんだか、倒錯したような表現だ。眼前に広がる光景を愛でていれば、それで十分じゃないか。何を殊更に人の手で描き叙する必要があろうか。

 言葉や描像で示すのが、余計だと言うなら、音楽はどうだろうか。情景をより豊かに、情緒に満ちて眺め入ることができるではないか。
 が、でも、やはり、眼前の世界を描き切りたい、しっかりと把握したい、理解したい、手中にしっかりと確保したい。それには、結局は言葉に行き着いてしまうのである。

 言葉の曖昧さ。それを思わない者はいないだろう。

 そんなことを言うつもりなどなかったのに、言いたいこと、脳裏に浮かぶこととは、言葉は決してピッタリとはサイズも形も合わない。何かしら、ぎこちないのだ。
 その食い違いが、また、何とか、誤解や不正確さを訂正しようとさせ、すると、その言い直しがより一層の齟齬を生み…、そうして泥沼に嵌り込んで行く。

 もう、言葉など、邪魔なだけなのだ。そこにある情景で、満足なのだ。
 が、言葉は勝手に浮かんでくる。爽やかだとか、メローな気分だとか、何処かで聞いた表現ばかりだ。陳腐、極まりない。でも、浮かんでは、心を乱し、そしてやがて消え去っていく。

 それなら、言葉は言葉で勝手に戯れているがいいのだ。
 人は、一人で居る限り、対話など要らない。明確な表現も不要。そもそも言葉などなくたって、ここに閉じ篭っている限り、単に生きている限り、困ることもない。 心のうちに浮かぶ哀切なる情念も、その波の満ち干きに身を任せていればいい…。

 緑なす木々の放つ、心に染み入る生命感。他人のいない世界での、心安らぐ世界。たとえ、今、感じている感激を誰と分かち合うことが出来ないとしても、そんなことの何が問題なのか。
 遠い世界にいるはずの誰か。その人と、悲しみも歓びも伝え合うことも、慰めあうことも出来ないとして、もう、そんなことはいいではないか。
 ここに一個の世界がある。ちょっと孤独ではあるけれど、真率な思いが募って溢れ出しそうだとしても、情の流れ出すに任しておくがいいのだ。

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 カモメだろうか、海鳥の鳴く声がする。
 悲しいような、それとも歓喜に咽んでいるような。

 鳥達は決して一羽では空で戯れない。鳥達は宵闇に何処からか現れて、ブーメランの形に、あるいは幾重もの山の形にと変幻を繰り返し、やがて何処へともなく飛び去っていく。あいつらは、何羽もが集まって一塊になっている。
 もしかしたら、奴等は集団になることで、一個の生き物なのかもしれない。

 そもそも、一羽でいる鳥は、何か不自然なのだ。せめて二羽、揃っていないと、様にならない。

 海の底を回遊する魚達も、集団をなして泳いでいる。一匹一匹がいる、などと思うのは、人間の勝手な思い入れなのであって、やっぱり奴等も群れでこそ生き生きしている。群れを成して、その形を自在に変貌させることで、自分達が仲間であることを誇示している。

 たまに、群れからつい離れた魚は、それに気付くと慌てて群れに戻る。それは一匹だと外敵に狙われやすいからでもあろう。が、きっと群れの中でこそ、平安が得られるのだ。群れの中でこそ、己の居場所を見出せるのだ。その個体の前か隣りか、斜め前か後ろの中に挟まって定位置を確保することで、その一尾も十全の命を得るのだ。

 蟻の群れ。魚の群れ。鳥の群れ。動物の群れ。

 さて、人間はどうなのだろう。

 きっと、人間ほどに集団を意識している動物はないんじゃなかろうか。絶えず他人の存在が脳裏に浮かんでいる。他人の目を意識している。だからこそ、一人を望む時もあるってことじゃなかろうか。
 そんな時、人間の言葉って何なんだろう。
 それは生まれた時の、オギャーという泣き声の延長なのに違いない。息をすることそのものなのに違いない。幼児の話す言葉は、まるで息を吐くようにして吐き出される。
 むしろ、歓びの叫び、悲しみの吐息、喋れる快感の誇示、離れている誰彼への愛憎に満ちた呼びかけなのだ。

 笑い顔は泣き顔に似ている。
 泣くように笑う。笑うように泣く。下を向いていると、泣いているのか笑っているのか、見分けがつかない。笑うって、泣き叫ぶことの極まりなのだ。

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 そして言葉を発するというのは、生きていることの証し、息していること、息しえることの証しなのだ。

 というより、もう、音声を伴う伴わないを別にして、話す言葉は生きていることの表現そのものなのだ。
 そう、だから言葉は肉体表現そのものなのである。言葉は肉体なのだ。身体そのものなのだ。仲間の肉体への呼びかけ、それが言葉なのだ。言葉が変容するのは、言葉が姿かたちを変えるのは、他人を意識している証拠なのだ。言葉の原風景としての吐息は、母への、仲間への挨拶なのだ。
 受肉された吐息、それが言葉なのだ。


[本稿は、02/01/15作のエッセイである。原文そのままに転記した(但し、改行だけ一部変更)。ある掌編を探していて、ふと行き遇ったもの。「のだ調」に堕していることからも分かるように、今、読み返すとやや感傷的過ぎる感も。こんなことを書く一面も小生にはあったという、それだけのことなのだが…。]

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