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2007/09/21

青柳いづみこ…双子座ピアニストは二重人格?

[まず、明記しておくが今日のタイトルは青柳いづみこさんの著書『双子座ピアニストは二重人格? ――音をつづり、言葉を奏でる』(音楽の友社)から採ったもの。「音楽と文学という「二つ」の領域の行為を行き来する体験があってこそ見えてくる鋭い視点」が青柳いづみこさんの特色のようだから。]
 9月20日の早朝からだったろうか、旧稿である「青柳いづみこ、ドビュッシーを語る」へのアクセスが急増し始めた。
 何があった? まさか(考えたくはないが)青柳いづみこさんに何かあった?

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→ 葛飾北斎「神奈川沖浪裏」(冨嶽三十六景) 1905年に出版されたドビュッシーのスコアの表紙にこの浮世絵が使われた。「海 (ドビュッシー) - Wikipedia」参照

 その謎は翌朝になって溶けた(解けた)。
 上掲の記事のコメント欄にも書いたけど、NHKラジオ深夜便にて下記の番組が「9月20日、21日の両日にわたって、午前4時(19日夜から20日へとつづく明け方)から45分間のインタビュー番組が放送」されたのである:
〔こころの時代〕 音楽と文学を結ぶ水脈を求めて ピアニスト・文筆家 青柳いづみこ(1)(2)

青柳いづみこ オフィシャルサイト」のトップ頁によると:

パーソナリティは元NHKアナウンサー鈴木健次氏(紅白歌合戦の司会者とは別の方です)で、メルド日記でもご紹介したように、池上俊一氏の論考を読んで青柳に興味をもたれ、おいたちからピアノ修業、論文修業、ドビュッシー評伝を中心とした著作やCDについて質問を投げかけてくださっています。
途中でCDもかけます。20日には天使のピアノによるライヴ録音も流れますので、朝早いですがお聞きください!

 尤も小生はそんな事情など知らず、20日の営業に出て、空車の折にはラジオ三昧だっただけである。
 20日の営業もあと数時間で終わろうと言う21日の朝4時過ぎから、「:〔こころの時代〕 音楽と文学を結ぶ水脈を求めて ピアニスト・文筆家 青柳いづみこ(2)」にチャンネルを合わせたのだった。
 20日の夜半前後に、NHKラジオ深夜便の放送予定がパーソナリティにより伝えられる。

 その中に、上掲の番組があると言う情報があったのだった。
 そうか、だから、小生が一昨年に書いた記事へのアクセスが突然、増えたのかと疑問が氷解したのだった。
 彼女の話は面白い。未明の4時なら、一番、暇な時間帯。空車だったら聴こう! そう決めていたのだった(普段はインタビュー番組は聴かない。人の話を聴くのが苦手なのである)。
 こうなると、20日の未明に放送されていたのだろう「音楽と文学を結ぶ水脈を求めて ピアニスト・文筆家 青柳いづみこ(1)」を聞き漏らしたことが惜しくなる。なんたって、「20日には天使のピアノによるライヴ録音も流れ」る予定だったというのだ。
 ま、仕方ないか。

 ちなみに、小生には、青柳いづみこさん(主にドビュッシーをめぐって)関連の記事が幾つかある:
青柳いづみこ、ドビュッシーを語る
ラヴェルのボレロから牧神の午後へ
印象は百聞に如かずだね

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← 青柳いづみこ著『ピアニストが見たピアニスト―名演奏家の秘密とは』(白水社) 本文参照

 冒頭の引用文に「メルド日記でもご紹介したように、池上俊一氏の論考を読んで青柳に興味をもたれ…」とある。
 メルド日記ってのが気にかかる:
青柳いづみこのMERDE日記
 この冒頭に、「「MERDE/メルド」は、フランス語で「糞ったれ」という意味です。このアクの強い下品な言葉を、フランス人は紳士淑女でさえ使います」とか「「メルド」はまた、ここ一番という時に幸運をもたらしてくれる、縁起かつぎの言葉です。身の引きしまるような難関に立ち向かう時、「糞ったれ!」の強烈な一言が、絶大な勇気を与えてくれるのでしょう。」などとある。

 小生などは、品がいいからメルド! なんて叫べない。小生の場合、メイド! って呼んだら来てくれる女性が欲しい!
 それにしても、「青柳いづみこ オフィシャルサイト」のトップ頁には「ピアノと文筆 二つの世界で活躍する青柳いづみこ オフィシャルサイト」と堂々と書いてある。
 凄いなー。自信?
 この点については、「京都読書空間 プレミアムインタビュー 青柳いづみこ 「書くこと」と「弾くこと」は切り離せないもの。」参照。

 でも、ピアニスト(音楽家)には達筆な人が多い気がする。自伝でも抜群に面白い音楽家がいたっけ。
 ピアニストでエッセイストと言うと、筆頭には中村紘子さんが挙げられる。面白い。勢いがある(『ピアニストという蛮族がいる』とか、『アルゼンチンまでもぐりたい』(いずれも文春文庫刊)などなど。今は同氏には触れないが)。

 足先、指先、耳、目、脳、体を駆使するから頭の中のテンションが高いのだろう(か)。体の末端まで使い切っているから、ボケる暇などありえないのだろう。その分、神経も相当に使うのだろうけれど。
(そういえば、今朝未明の話の中でも、スポットライトを浴びて時に神格化されることもあるピアニストだけれど、ピアニストだって人間で演奏の際の緊張は相当なものだ、とか、演奏は生ものであって、同じプログラムをこなす場合でも、演奏のたびに新たな気持ちで挑むとか、楽譜なしでの演奏は緊張が強いられる、などなどの話があった。その話の流れだったか、『ピアニストが見たピアニスト―名演奏家の秘密とは』(白水社)がインタビュアーにより言及され、その話で盛り上がった…が、今は略す。ちなみに、本書は「アルゲリッチはどうしてソロを弾かないのか?ミケランジェリはなぜ歌を封印してしまったのか?現役ピアニストにして気鋭の作家が、六人の名演奏家の技と心の秘密を解きあかす」だって。小生、この手の本、大好き! ああ、そうそう、『ピアニストは指先で考える』(中央公論新社)なんて本も、書籍紹介に「親指、爪、関節、耳、眼、足…。身体のわずかな感覚の違いを活かして、ピアニストは驚くほど多彩な音楽を奏でる。そこにはどのような秘密があるのか?鋭敏な感覚を身につけるにはどうすればよいのか?演奏家、文筆家として活躍する著者が綴る、ピアニストの身体感覚とは」とあって、それはそれで興味深いのだが、小生など、まずこのタイトルで買い! である。貧乏で買えないけれど…。中村紘子さんの本もだけど、内容は勿論のこととして、読み手を引きつける題名を付けられるかどうかは大きい!)

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→ 青柳いづみこ著『ピアニストは指先で考える』(中央公論新社) 「青柳いづみこの執筆&インタビュー」参照

 さて、「青柳いづみこのMERDE!日記」に戻る。
 というか、どの日の日記も中身が濃いのだが、今日は「2007年8月19日/越境するということ」に注目するとして、日記の中ほどで、「 ところで、NHK-ラジオ深夜便のお話は、ひょんなことからいただいたのだ」以下の日記が今日の話に関連して(していなくても)面白い。必読!
 ここには断片的に転記させてもらうが、全文を通して読むと一層、味わい深い:

(前略)小林秀雄のように頭からはいって頭に抜けていくような音楽論、作曲家論はさかんに読まれ、論評されている。ステージで作品を演奏し、音楽とがっぷり四つの相撲をとろうとしている実践者の経験談は要らないんだと暗澹たる気分に陥った。あらためて音楽と文学の間に横たわる深淵を思い知らされたのだった。
  その壁は、ドビュッシーの評伝を上梓したときすでに感じていた。池上さんの論考は実に的を射たもので、まさに私が言いたかったことをズバリととらえてくださっているので、ここに引用させていただく。
  「ことは音楽と文学の二律背反に人一番苦しんだドビュッシー個人の問題に止まらず、音楽言語そのものに関わる根本的な問いへと繋がっていく。そのため本書は、全体として、音と言葉の間に横たわる深淵とそれを架橋する可能性、ひいては、現在そして未来の音楽のあり方への提言になっているのである」

 そう、夕べはまさにこういった話が一番の眼目だったように(個人的には)思える(但し、ラジオ番組ということもあり、もっと平易な語り口だった)。
青柳いづみこ、ドビュッシーを語る」で書いたように、彼女の話を切っ掛けにドビュッシーの曲を改めて虚心坦懐に聴いて、ドビュッシーやラヴェルらの音楽が一層、好きになったのだった。

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← 青柳 いづみこ 著『ドビュッシー―想念のエクトプラズム』(東京書籍) (画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より) この本も夕べの話題に出てきたけれど、話、忘れちまった! 「印象派の桃色の霧の奥にみえかくれするデカダンスの黒い影。印象派という枠組みを離れ、その悪魔的な面に切り込んだ、従来のドビュッシー観を斬新にくつがえす書」だって。読みたいね!

 以下は、上掲の日記にて青柳いづみこさんが引いているドビュッシーの言葉。その意味は上掲の日記での青柳いづみこさんの熱意溢れる本文を読むと理解が深まるだろう:

 私が何かを見つけたとすれば、それはまだ誰も手をつけずにいたごく微小なものを見つけたということなのです。びくびくしながら、こっそりあなたに打ち明けますと、私の考えでは、今まで音楽はまちがった原理に立って安閑としていたんです。あまりにも『書く』ことを心がけすぎたのです。音楽を紙のために作っているのですよ。耳のために作られてこそ音楽なのに

 音楽の書法というものが重視されすぎているのです--書法、方式、技術が。音楽を作ろうとして、観念を心のなかにさぐる。すると、自分のまわりに観念をさがさねばならなくなる。観念を表現してくれそうなテーマを結び合わせ、組み立て、空想のなかでひろげる、ということになる。そしてそういうテーマを展開させ、変形させているうちに、ほかの観念をあらわすような別のテーマに、ふと行きあたる。こうして形而上学が作られます。だが、そんなものは音楽ではないのですよ。音楽なら、聞く人の耳にごく自然に、すっと入ってゆくはずです。抽象的な観念を、ややこしい展開の迷路のなかにさぐる必要などないはずです


 なお、青柳いづみこさんの日記の最後の言葉は、人によっては常識であり言わずもがななのだろが、やはり傾聴に値すると思う:
  ジャズやポピュラー・ミュージックが、語法の進化を視野に入れつつ人間の「生理」や「耳」とおりあいをつけようとしたのに対して、クラシックは少し形而上学に走りすぎたきらいがある。観念の表象として見事な20世紀音楽は数多くあるけれど、その見事さが逆にクラシックから聴衆を遠ざける結果になったとはいえないだろうか

 ドビュッシーに興味を持たれた方は:
クロード・ドビュッシー CLAUDE DEBUSSY(1862-1918)

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コメント

言葉と音の永遠の葛藤をいうなら何も書くな!となるのですが、言語的に理解して表現しようとする意欲があるからどうしてもこの問題に行き当たるのでしょう。

ただ、小林秀雄の夢想や表現などが形而上の考察に当たるのかどうか?書法や技術(指先の先の運動も)こそが、形而・上の始まりではないのか?奇しくも「観念」と「空想」こそが夢想であって、小林の世界そのものでは無いのか?

この議論ですと、形而上どころか形而下を一歩も出ていないような気がするのですが、どうでしょう。

なにはともあれ、ラヴェルでは決してマテリズムを抜け出る話とはならないでしょうから、こうして一線を隔してドビュシーが扱われるのは良いことなのでしょう。

投稿: pfaelzerwein | 2007/09/21 21:50

pfaelzerweinさん
コメント、ありがとう。

青柳 いづみこさんに形而上へと突き抜けることを求めるのは酷かも。
そうじゃなく、指先の運動という形而下の試行であっても、小生のような凡人には水と光の幻想的な瞑想のタネを与えられると言うことだけで十分だろうと思います。
ドビュッシーにしてからが形而上の世界を(音楽上は)結局は避けたのだから、そうしたドビュッシーに青柳 いづみこさんが傾倒するってことは、ある意味、首尾一貫している?!
まさに、「なにはともあれ、ラヴェルでは決してマテリズムを抜け出る話とはならないでしょうから、こうして一線を隔してドビュシーが扱われるのは良いことなのでしょう。」で、小生は素直に納得です。
とにかく、音楽は耳で聴ける限りにおいては徹底して形而下の楽しみなのだろうと思います。音楽をめぐっての考察を含めて!

投稿: やいっち | 2007/09/22 00:01

「耳で聴ける限りにおいては徹底して形而下の楽しみ」-

これは議論されるべき定義ですよね。例えば何もインド音楽などまで行かなくてもヴィーン古典派の音楽でもヘーゲル哲学のレベルまでの形而上の思考がないとソナタ形式が理解出来るかどうか?

造形芸術や言語思考に比べて元々第四次元と深いつながりをもつ音楽ですから、それがドビュシーのように時を切り取るとなると、作曲過程はそこから始めなければ再構造出来ない。結果として「印象主義的な定義」で踏みとどまるところと、上で示したような妄想とが混同している印象を持ったのです。

二十世紀の構造主義的な傾向に対してドビュシーを対照させるのも、そのなかに包みこむのも、時を隔てて過去を見る姿勢には違いありません。

そのような認知はなにも歴史や美学や哲学の世界のみならず自然科学の思考の根本においても変わらず人類の直感的把握は限られているということです。

だからこそ指先の動き - 感覚ではない!- こそに形而上への境界があるとするのではないだろうか?

投稿: pfaelzerwein | 2007/09/22 16:42

pfaelzerweinさん、コメント、ありがとう。

小生にはドビュシーの音楽も音楽理論も理解が及びかねます。作曲家の思考においてあれこれの形而上の想念や思考があるのでしょう。
そして、その音楽の理解の上ではそうした点を含めての考察も不可欠なのでしょうし、そのほうが理解が深まる、鑑賞も深まる。
ドビュシーは実際の作曲においては常識に配慮して踏みとどまった、つもりでいたのでしょう。
でも、作られた作品を通じて、それとも作品の透き間からドビュシーの思いが漏れ出てくる何か。
それが彼に続く、彼の曲を聴いて刺激を受けた人が踏みとどまった先を意図的表現に齎してしまう。

音楽をめぐる諸著を読むのは好きですが、実際には音楽を聴いて直に感じること思うことを好き勝手に興の赴くがままに、あるいは音の波やリズムや波動に任せて行き着くところまで行くほうが遥かに楽しい。

指先が奏でるもの。指先だからこそ指し示す世界。人間の(少なくとも小生の)高が知れた形而上への志向と思考をあっさりと凌駕してしまう形而下への誘い(誘惑)。

つまり、どう思考において形而上的試みを極めようと、指先の動きの含み持つ、思考など論外で感覚をさえも押し広げてしまう腕力は凄いってことでしょう。

耳で聴ける限りにおいては徹底して形而下の楽しみ…それほどに耳に限らず肉体という形而下の不可思議は脳味噌を沸騰させるほどに掴みどころがないままだということだろうと思います。
指先に直結している脳味噌って、形而上下に跨り且つ引き裂かれているし、そのことに至上の快楽を覚えているような気がします。
音楽の魔力は、形而上下への振幅が日常の中で穏やかになりがちなのを思わぬ形で増幅させてくれるところにあるのかなって。

投稿: やいっち | 2007/09/23 17:26

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