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2007/09/14

水から陸への冒険…人間は魚類の一員だ!

 まずは、今日午前のニュース。
 そう、「<H2Aロケット>「かぐや」搭載し打ち上げ成功」!
 目出度いね。宇宙を開発することは、それが研究のためであってもあれこれ問題があると思うけれど、それはそれとして、宇宙の謎、直近の星である「月」の謎が解き明かされることにワクワクする。
 というより、そうした試み自体に単純に感動する自分が居る。

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← ジェニファ・クラック著『手足を持った魚たち 脊椎動物の上陸戦略』(池田比佐子訳、講談社現代新書 1345)

 念のためニュースは下記を参照:
Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <H2Aロケット>「かぐや」搭載し打ち上げ成功 種子島
 ミーハーの小生、既に関連の記事を先月末に書いている:
月探査機「かぐや」 打ち上げ迫る

 自宅では、主に寝床でF.キングドン-ウォード著『植物巡礼  ―― プラント・ハンターの回想 ――』(塚谷 裕一 訳、岩波文庫)を、ロッキングチェアーではリサ・ランドール著『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』(向山信治/監訳 塩原通緒/訳、日本放送出版協会 )を読んでいる。
 特に後者は、「超ひも理論」についての話なのだが、以前読んだブライアン・グリーン著の『エレガントな宇宙』(林 一・林 大訳、草思社刊)の頃よりは、この「超ひも理論」が相当に熟成(?)されてきたように思う:
『エレガントな宇宙』雑感(付:「『宇宙は自ら進化した』の周辺」)

 本稿から一部だけ転記する:

(略)現代の標準的な理論が行き詰まりを見せていること、アインシュタインの相対性理論と量子力学との相性が悪く、統合の展望が開けないこと、最後の難点は、なんといっても素粒子論と呼ばれる時の、その「素粒子」にある。
 標準理論では、想定上、素粒子は内部構造を持たず、また、計算上、「点」として扱われている。まさに超ひも理論が焦点を合わせている問題点の一つがここにあるわけだ。
 そもそも素粒子が「点状のもの」だという保証はどこにもない。が、従来は、他に選択肢がなかったわけである。その虚構には多くの素粒子論研究者、量子力学研究者も気付いていたが、問題に立ち向かうすべがまるでなかったのである。
 実際、ハイゼンベルクもディラックも、「三次元の小さなかたまりについて量子理論を組み立てようとして、乗り越えようのないように見える障害に突き当たり、繰り返し挫折してきた」のだった。
 その点、超ひも理論というのは、究極の素粒子をひも状と想定することで、素粒子(ひも)の「内部自由度」を確保し、従来の量子力学では乗り越えようのなかった障害を、少なくとも理論的には回避できると気付いたわけである。
 が、同時にその「内部自由度」を一定の枠に収める根拠が見出し難く、理論は、まさに数学的な空想の理論になりかねない危険性と隣り合わせなのだということは、多くの識者に指摘されていることである。

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→ ミチオ・カク(加來 道雄)/ジェニファー トレイナー 著『アインシュタインを超える―超弦理論が語る宇宙の姿』(久志本 克己 翻訳、講談社、1988刊行) (画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より)

 小生が「超ひも理論」を知ったのは、確か、ミチオ・カク(加來 道雄)/ジェニファー トレイナー 著の『アインシュタインを超える―超弦理論が語る宇宙の姿』(久志本 克己 翻訳、講談社、1988刊行)だった。
 本書の商品の説明を一部転記すると、「アインシュタインがついに果たせなかった夢―統一場理論を、今、超弦理論が実現しようとしている。この理論によれば、もともとの宇宙は現在の4次元ではなく、10次元であった。しかし不安定なため、2つのかけらに割れて、小さな4次元宇宙(われわれの宇宙)がほかの6次元宇宙からはげ落ちた。そして、この分裂があまりに激しかったために、ビッグ・バンと呼ばれる大爆発が起きたという」のだが、興味深いと思いつつも、何処か眉唾じゃないのという思いも(失礼ながら!)抱きつつ読んでいたような記憶がある。
「超ひも理論」のあまりの思弁性というか数学的過ぎる(という印象を受ける)点からして、どうなのだろうと思っていたら、案の定、一時は廃れたような印象もあった。
 が、着々と理論が積み上げられてきていたのだ。
 しかも、この十月には実験(や実証)のための施設がいよいよ稼動し始めるという(「物理学界がいま最も注目する5次元宇宙理論」など参照)。
 やはり、「、アインシュタインの相対性理論と量子力学との相性が悪く、統合の展望が開けないこと、最後の難点は、なんといっても素粒子論と呼ばれる時の、その「素粒子」にある」点などが、従前の理論では、解きほぐし難いことがあるのだろう。

 と、この話題は(まだ『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』を触りしか読んでいないので)これまでとする。
 ただ、読んでいてワクワクしている!

 さて、車中では(営業の回数的には忙しく、なかなか読めないのだが)、ジェニファ・クラック著の『手足を持った魚たち 脊椎動物の上陸戦略』(池田比佐子訳、講談社現代新書 1345)を読み始めている。
 書籍紹介によると、「時はデボン紀と呼ばれる地球史上の一時代。一般には「魚の時代」と呼ばれ、魚類型の動物が急増した。この動物たちは湖や川、沼地、入り江にすみつき、デボン紀の後半には、指の付いた四本の足=四肢を発達させた。この「四肢動物」は、以後3億5000万年ほどのあいだに、水中生活を離れて、地上を歩き回る脊椎動物へと進化し、徐々に陸上を支配するに至った。世界の第一人者が書きおろす「生命の歴史」シリーズ第3弾!人類の祖先はなぜ大陸をめざしたのか」だって。
 2000年1月の発行なので、やや古いということになるのかもしれないが、「脊椎動物の上陸戦略」という、生命(生物)進化の上でのとてつもないドラマが話題となっているとあっては、一旦図書館で目に付き手にした以上は読まなくては気が済まない。
 海から陸へ。とんでもない試みではないか!
 まさに本書にて著者が言うように、「水から陸への冒険」なのである。
 小生などは、どんなファンタジーやロマン小説より遥かに大冒険に思えるのだ。事実は小説より遥かに奇なり、なのである。

 水棲の段階から陸棲の段階へと移行する生命進化のドラマということなら、三木成夫著の 『胎児の世界』(中公新書1983年)を逸することは出来ない。
 小生は折に触れ同氏や同氏の著書に言及している。例えば:
三木成夫著『人間生命の誕生』

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← 三木成夫著『人間生命の誕生』(築地書館)

 この記事から関連箇所を転記する:

 『胎児の世界』の中で一番、ドラマチックな部分そして恐らくは三木解剖学の業績というのは、『海・呼吸・古代形象』の解説の中で吉本隆明氏が語るように、「人間の胎児が受胎32日目から一週間のあいだに水棲段階から陸棲段階へと変身をとげ、そのあたりで母親は悪阻になったり、流産しそうになったり、そんなたいへんな劇的な状態を体験する。こんな事実を確立し、まとめたことだとうけとれた。」
 海で生れたとされる生命が進化し水棲の段階から陸棲の段階へと移行する。想像を絶する進化のドラマがあったのだろうし、無数の水棲の動物が無益に死んでいったに違いない。その中のほんの僅かの、つまり水棲動物としては出来損ないのほんの一部がたまたま陸棲可能な身体を獲得したのだ。
 そんな劇的なことがあるはずがない…。が、成し遂げた個体があったわけだ。当然、両棲の段階もあったのだろうが、何かの理由があって一部の種は陸棲を強いられ、身体的な危機を掻い潜らざるを得なかったわけである。
 そのドラマを一個の卵の成長の、特に「受胎32日目から一週間のあいだに」(つまり水棲から陸棲への移行という産みの苦しみの時期に)生じる胎児の身体的大変貌を解剖学的に研究し、誰にも分かるように指し示してくれたのである。
 この惨憺たる苦心の経緯を読むためだけでも、『胎児の世界』を読む価値はある。

『胎児の世界』については、「極東ブログ [書評]胎児の世界(三木成夫)」なる記事が違う視点を浮き彫りにしてくれて興味深かった。


 進化の観点からしたら鳥は恐竜だ、というのは既に専門家ならずとも常識になりつつあるようだ。
 いつだったか、羽を毟り取られ真っ裸(?)となったチキンを見て、これは恐竜そのものじゃないかと感じた素人の勝手な直感は正しかったのだ!

 しかし、そんなことより、以下の記述は動物学的には常識なのだとして、改めて曰く言い難い感動(?)を覚え感懐を抱いてしまう:

 自分を魚類の一員だと思っている人間はあまりいないだろう。しかし、魚類のなかには人間と基本的な形質を共有しているものがいて、人間のルーツを魚類に結びつけることができるのだ。動物の分類に類縁関係や系統発生を反映させたいのなら、人類もこうした基本的な形質を示し、共通の祖先を持つ他の生物と同じグループに入れなくてはならない。すなわち、人類も四肢動物も同じグループに分類することになる。 (本書p.32)

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