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2007/09/22

陵墓公開へ一歩前進かな?!

 昨日、営業中、例によってラジオに耳を傾けていたら、「明治天皇陵など調査を“解禁”へ 宮内庁が方針転換」といったニュースが飛び込んできた:
中日新聞 明治天皇陵など調査を“解禁”へ 宮内庁が方針転換社会(CHUNICHI Web) 2007年9月20日 夕刊」:

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← 先週、仮眠を取ろうと日比谷公園脇に車を止めたら、謎の屋敷を発見!

 宮内庁は、日本考古学協会など考古学や歴史学の十六学会の代表者に、京都市の明治天皇陵(伏見城跡)と、古墳時代のものとされる奈良市の神功(じんぐう)皇后陵(五社神=ごさし=古墳)の二カ所への立ち入り調査を許可する方針を固めた。調査は来年二月から三月になる見通し。歴史関係各学会が連携し、約三十年前から陵墓公開の要求を続けていた。 (略)  今回の調査対象となる豊臣秀吉ゆかりの伏見城跡は、近世史研究で重要な史跡だが、明治天皇の埋葬地となってから立ち入りが規制された。

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→ 近づいてみると、館の中はどの部屋も明かりが煌々と照らされていて、謎など何もないと告げいるかのよう…。

 第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の妻だった神功皇后の五社神古墳は全長約二百七十五メートルの前方後円墳で、日本考古学協会理事の高橋浩二富山大准教授は「宮内庁の測量データが正しいかどうかを確かめることから始めたい」と話している。

 かなり限定的な方針転換のようだが、まずは一歩前進か?!
(日付上は上掲の記事より古いが、「asahi.com:陵墓公開へ一歩前進 宮内庁、学会立ち入り容認 - 文化一般 - 文化・芸能」のほうがより詳しい情報が得られる。)

 同じ頁の文末に説明があるが、<陵墓>とは:
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← その開けっ広げなところが反って妖しい! …実は、日比谷公園内に幾つかあるレストランの一つ「日比谷パレス」なのでした!

 宮内庁は歴代の天皇や皇后、皇太后らを葬った場所を「陵」とし、それ以外の皇族の埋葬地を「墓」としている。陵は全国に188カ所で、墓は552カ所。ほかに天皇の分骨所や火葬塚など陵に準じるものや陵墓の可能性がある参考地などもあり、全体では896カ所となる。古墳時代の巨大な前方後円墳から平安時代の仏教に基づく石塔など、形状、大きさはその時代状況を反映してさまざまに変化、埋葬方法も土葬、火葬の双方がある。

宮内庁ホームページ」の中に、「歴代天皇陵の案内」なる頁がある。

 小生自身、もう6年以上も前に書いたものだが、「天皇陵・古墳の学術的研究・保存を早急に求める」(「天皇陵の学術的調査・研究・保存を」)などの拙稿で自分の考えを表明してきた。

 そもそも何が問題なのか。

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→ これは今週、火曜日の夜半過ぎ、都内某公園にて。眠っていた花たち。フラッシュを使わず、静かに撮影。

 宮内庁による陵墓管理には従来より矛盾が指摘されてきた:
陵墓管理 宮内庁の矛盾突く 出版トピック 本よみうり堂 YOMIURI ONLINE(読売新聞)」:

 天皇、皇族の墓として宮内庁が管理している陵墓は現在、研究者による学術調査が認められていない。3~6世紀の主要な古墳はほとんどが陵墓に指定されているため、日本の古代国家形成過程の解明に大きな支障をきたしている。これは歴史関係の学界だけでなく「広く社会一般にとっての損失である」と著者は断じる。

 これまで学界は、長年にわたり陵墓の公開を求める運動を続けてきた。それは陵墓を文化財ととらえる研究者側と、皇霊が安んじる聖域とみなす宮内庁側の対立の構図でもあった。しかし、著者は陵墓の学術調査と陵墓における天皇の祭祀(さいし)は両立しえるとの立場から、新たな視座を提示する。

 その議論の構築は極めて緻密(ちみつ)である。まず、宮内庁がなぜ現在のような陵墓管理を行っているのか、幕末期のいわゆる「文久の修陵」にまでさかのぼって考察した上で、宮内庁の論理と実態との矛盾を一つ一つ突いていく。


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← 外池昇/著『天皇陵論 聖域か文化財か』(新人物往来社) 「天皇陵はなぜ「完全公開」されないのか。聖域説vs文化財説という長い不毛の論争に終止符を打ち、祭祀と研究の調和を実現するための新しい視座を提唱する」だって。

 陵墓の指定その他にさまざまな問題点のあることも知られている。調査研究のための陵墓立ち入りも学術関係者により長らく要望されてきたところでもある。

 上に転記した「文久の修陵」に関連して(外池昇/著『天皇陵論 聖域か文化財か』(新人物往来社)):
ニューズ・レター第7号 1.第11回研究会報告(2004年6月15日) 幕末の天皇陵改造―文久の修陵― 山田邦和(花園大学教授)」:
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→ 9月20日の営業も終わりに近づいた21日未明、多摩川に架かるガス橋にて。徹夜の目には青空は酷なほどに眩しい!

 天皇陵の研究を進める上で最も重要なのは、それぞれの天皇陵の原形を確かめることである。しかし、現在見られる天皇陵は、多かれ少なかれ江戸時代において改造が加えられている。したがって、我々は江戸時代における天皇陵の修築の様子を明らかにしておかねば、天皇陵の実像に迫ることはできないのである。

 江戸時代においては何回にもわたって天皇陵の探索と修造がおこなわれてきた。たとえば、元禄10~12年(1697~1699)には「元禄の修陵」 が、享保3・4年(1718~1719)には「享保の修陵」がおこなわれた。また、幕府機関による天皇陵調査としては、文化3年~5年 (1806~1808)の「文化の天皇陵調査」、安政2年(1855)の「安政の天皇陵調査」などがおこなわれている。しかし、その中でも最大の規模を誇るのは、文久2年~慶応元年(1862~1865)に実施された「文久の修陵」であった。

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