ダラーンと枝垂れ柳のこと
いつだったか分からないが、車中で聴くともなしにラジオ放送を聴いていたら、ある言葉が耳に残った。
というか、残っていた。
聴いた当初は聞き流していた…ような気がする。
格別、興味を惹いたという自覚もない。
→ 10月3日、枝垂れ柳とはいかないが(?)、ようやく枝垂れる木の画像を得ることができた。都内某所にて。
が、街中を流していたら、都内の某所で(何処だったか覚えていない)枝垂れ柳を見た。
あるいは、枝垂れる枝振りを見て、ああ、これが枝垂れ柳かと思ったというほうが近いかもしれない。
どうして耳に枝垂れ柳(という言葉)が残っていたのか。
あるいは、別に耳に引っかかっていたわけではなく、あくまで後で偶然、見かけた枝垂れ柳に、そういえば、つい数時間前に枝垂れ柳という言葉をラジオで耳にしたなと思っただけなのかもしれない。
← 枝垂れるを眺めつつ我夜垂れおり(「夜垂れ(よだれ)なんて造語しちゃったりして。撮影直後、夢の世界へ。)
ラジオではどんな話題、どんな話の流れで枝垂れ柳が出てきていたのか、一向に覚えていない。
大体、今の時期に枝垂れ柳など、あまり話題に出るはずがない。
「ヤナギ(柳)」という頁(ホームページは、「植物園へようこそ!」だと思われる)に見出される説明にもあるが、「サクラの咲く頃,柳も芽を吹き,特に枝垂れ柳の場合には細い枝が緑に彩られ,風に揺れている様をみると春が来たなという感じがします」というものなのだ。
枝垂れ桜とか枝垂れ柳とか、枝垂れる木はいろいろある(いろいろというほどは枝垂れ系の種類はないのかな)。
普通、植物は走光性があるというのか、光合成のこともあるし、少しでも光のほうへ、上のほうへと伸びようとする…はずである。
が、こうした枝垂れる木々というのは、風のまにまにというのかダラーンと枝垂れている。
項垂れているわけでもなかろうけれど、大概の木とは趣を明らかに異にしている。
植物界の反逆児か、というほど、大袈裟でもない。ただ、ダラーンとしている。
これが、世の流れに抗して、世の大方の植物たちとは旗幟を別にするのだというのなら、根性のある木だということになるが、そうでもない。
やっぱり、ダラーンとしている。風が吹けば、一切、抵抗することなく、風に聳えようなどとは夢にも思わず、ダラーンとしているのである。
→ たそがれるビルの谷間の人恋し (9月9日(土)夕、都内、南青山にて)
ネットで小生と同じような疑問を持つ人は居ないかと探してみたら、案の定、いた:
「質問:枝垂れるのは?」(ホームは、「日本植物生理学会-みんなのひろば-」)
「しだれ桜や、しだれ梅、しだれ柳といった「枝垂れ」る植物は、なぜ枝垂れるのですか?」といった質問に対し、以下のような答えが与えられている:
何故しだれるのかというご質問にお答えする前に、しだれない普通のサクラなどの場合、何故しだれないかについてご説明いたします。幹を切ると年輪が見えます。南北について少し違いがありますが、年輪はおおよそ同心円状にならんでいます。ところが、サクラなどの被子植物の枝では、年輪は同心円状に並んでおらず、年輪の幅が枝の上半分で広く、下半分で狭くなっています。枝の上半分が発達して枝を引っ張りあげているので、枝はしだれないでいられると考えられており、この上半分の部分の材を“引っ張りあて材”と呼んでいます。しだれ種の枝ではどうかと言いますと、年輪の幅に上半分と下半分で差がない、つまり、枝を引っ張りあげる“引っ張りあて材”が発達していないのです。しだれ種に植物ホルモンの1種であるジベレリンを処理すると、“引っぱりあて材”が形成され、枝はしだれなくなります。引っぱりあて材形成にジベレリンのような物質が関係して いるらしいと考えられていますが、詳しい事は分っていません。被子植物と裸子植物では枝を支える仕組みが違いますが、詳しいことは、朝倉植物生理学講座(5)環境応答の中の“あて材”をご覧下さい。
柴岡 弘郎(JSPPサイエンスアドバイザー)

← 9月9日の夜半過ぎ…そろそろ丑三つ時だったろうか。都内某所の池脇で小憩。
「ジベレリン」なる物質が関係しているという。
「ジベレリン - Wikipedia」によると、「はある種の植物ホルモンの総称である。生長軸の方向への細胞伸長を促進させたり、種子の発芽促進や休眠打破の促進、老化の抑制に関わっている」とか。
でも、一方では、「引っ張りあて材」が発達して、枝が幹に劣らず逞しい腕っ節のように張っているかと思うと、他方では枝垂れ柳や枝垂れ桜のように、枝垂れダラーンとしてしまう。
その違いは何ゆえ生じてしまうのか。みんながみんな逞しい腕っ節ぶりを発揮しても良さそうなものではないか。
まあ、難しい理屈や生理は別にして、そもそも、木(に限らず植物)が天に向かって、あるいは空に向ってスクスク伸びるのは、外見上は立派だが、しかし、エネルギーを使うのも間違いない。立つってのは、疲れる。人間や動物のように立ったりすることもあるが、疲れたら座れるのなら、たまに立つのもいいけど、植物は立ち上がり、その際、すくっと立ちっ放しになるしかない。
となると、立ち、幹を張り、枝振りを逞しく見せかけるだけにでもエネルギーを相当量、消費する必要がある。
多分(分からないが)、植物界にもへそ曲がりが居て、「立ちっ放しに疲れた、いち抜けた、オレ、人に、他の植物たちにどう思われようと構わないから、なよなよって立つ、幹は仕方ないから一応は立っているけど、枝葉だけは、風に柳と枝垂れちゃう! 枝葉末節のことなんだから、誰も気にしないで!」って、ふてくされてしまったのかもしれない。
それとも賢いのか、その点も判断が難しいところである。
→ 同日同時刻。池面に揺れる光を撮りたくてトライ。この時間には短編『靴職人の夢』の着想が膨らんでいて、半勤の日だったこともあり、着想を一刻も早く形にしたくて、池面で仮眠を取るのを止め、仕事をさっさと切り上げたのだった。
もう一度、「ヤナギ(柳)」なる頁を覗くと、「私は花札のルールも知らないのですが,柳は 11 月の札に描かれているのですね」とある。
「花札 - Wikipedia」なる頁を覗くと、「花札の絵柄」の項に、「11月 柳(雨) 柳に小野道風 」とある(但し、「古くは「柳に番傘」、または「柳に番傘を差して走る斧定九郎」であった。明治時代にデザインが変わり、「柳に小野道風」とな」ったとか)。
「シダレヤナギ(枝垂れ柳)」なる頁にあるように、柳は、「奈良時代に朝鮮を経て渡来したと言われています。「小野道風と蛙の話」で,蛙が飛びつこうとしていたのはシダレヤナギなの」だろう。
「小野道風と蛙の話」なる話題は小生も採り上げたことがある:
「雨蛙…カエルコール」
しかし、話の大元に頼るのがいいだろう:
「なぜ書のまちなの|春日井市」(ホームページは、「春日井市」):
「小野道風と蛙の話」なる逸話がいつから伝えられるようになったのかは不明だという。ただ、「江戸時代の学者、三浦梅園(1723年から1789年まで)の『梅園叢書』に「学に志し、芸に志す者の訓」として記載されてい」るとか:
小野道風は、本朝名誉の能書なり。わかヽりしとき、手をまなべども、進ざることをいとひ、後園に躊躇けるに、蟇の泉水のほとりの枝垂たる柳にとびあがらんとしけれども、とどかざりけるが、次第次第に高く飛て、後には終に柳の枝にうつりけり、道風是より芸のつとむるにある事をしり、学てやまず、其名今に高くなりぬ。
(三浦梅園『梅園叢書』より )
うーむ。この辺りになると、耳の痛い話である。何事も持続させることの苦手な小生。ワザを磨くなんて、一番、小生には縁遠い話だ。
なので、本稿もこの辺りでちょん切ることにする。
だって、枝垂れ柳というと(銀座は別格として)、幽霊との関連の話題も俎上に載せる必要がある。幽霊話は小生は苦手なのだ!
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