島崎藤村『桜の実の熟する時』の周辺
久しぶりに、河盛好蔵著の『藤村のパリ』(新潮社)を読んでいる。
久しぶりに…。僅か、5年ほど前に読んだ本。
なのに、小生、本書を手にして半ばまで読み進めてしまっているのに、数年前に読んで感想を書いてメルマガに掲載したこと、さらには、3年にもならない前にブログに再掲していることをすっかり忘れていた。
→ 河盛好蔵著『藤村のパリ』(新潮社)
そう、以下に掲げる拙稿「島崎藤村『桜の実の熟する時』の周辺」の冒頭の一節に、「小生はいよいよ藤村の世界にのめり込んできた。昨年は二ヶ月かけて『夜明け前』を読んだし、今年は『破戒』を読んだ。『破戒』はこれで三度目の読了となる。『若菜集』などの詩集は通読しただけでも二度はある。過日は河盛好蔵氏の『藤村のパリ』を読み、その感想文については既にここでも掲載済みである」とあるのを読んで初めて、気がついた。
というより、まだ半ば信じられなくて、当時の拙稿を探し出して初めて、そういえばそんなことがあったっけと、遅まきながらに悟った次第なのである。
我ながら情けない。
こんな小生だから、人様の記事を何処かで読んでいても、そのことをすっかり忘れ、さも、自分の意見のように、賢(かしこ)ぶって、分ったようなことを書くかもしれない。いや、きっと、書いているんだろうな…。
まあ、それはそれとして、小生、島崎藤村について、あるいはその周辺を巡って幾つも拙文を晒してきた:
「島崎藤村『桜の実の熟する時』の周辺」
「島崎藤村『家』あれこれ/」
「島崎藤村『春』を読みながら」
「島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(1-4)」
~ 「同上(15-17)」
「河盛好蔵著『藤村のパリ』」
「岡本綺堂『江戸の思い出』あれこれ」
「島崎藤村『桜の実の熟する時』の周辺」
本稿では小説そのものの感想を書くつもりはない。あくまで周辺を巡るだけである。
小生はいよいよ藤村の世界にのめり込んできた。昨年は二ヶ月かけて『夜明け前』を読んだし、今年は『破戒』を読んだ。『破戒』はこれで三度目の読了となる。『若菜集』などの詩集は通読しただけでも二度はある。過日は河盛好蔵氏の『藤村のパリ』を読み、その感想文については既にここでも掲載済みである。
あるいは、敬愛する解剖学者の三木成夫著の『胎児の世界』(中公新書刊)との関連で、藤村の有名な詩を扱ったこともある。
名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて 汝はそも 波に幾月
そして先だって、『桜の実の熟する時』(新潮文庫刊)を読んだというわけである。
なぜにこんなに藤村の世界に魅了されるのか分からない。現代において藤村がどのように評価され、どのような位置付けが為されているのかも知らない。
ここでも紹介したが、篠田一士著の『二十世紀の十大小説』(新潮文庫刊)の中で、プルーストの『失われた時を求めて』やカフカの『城』ガルシア=マルケスの『百年の孤独』、ムジールの『特性のない男』ボルヘスの『伝奇集』等と共に、藤村の『夜明け前』が採り上げられているのである。
小生は、ここに枚挙した作品は全て感激して読んだのだが、あるいは 藤村の作品が挙げられていることに意外の念を覚えたが故に、妙に引き摺るものがあり、とうとう昨夏、7月8月を乗り切るためという口実を設けて読んだのかも知れない(昨年は生誕130周年だった。今年は没後60年)。
そして実際にじっくり読んでみて、日本の歴史小説として傑作だと実感・確信したのである。
藤村の父親をモデルにしたとされる青山半蔵の生涯を、王政復古の前の時代の夜明け前特有の熱気と期待(特に半蔵は革命にただならぬ思い入れを寄せていた)、維新が為って以後の時代世相へのこんな世の中になるとは思いもよらなかったという深い失望、そして乱心を『夜明け前』は扱っている。
その際、藤村は、木曽の地に止まらず関東から関西までの各地の街道や自然を背景に雄大に描いているのである。
前にも紹介したが自然描写が素晴らしい。幾度も木曽と江戸を往復する青山半蔵の目で見た形で描かれる自然と、そして長い道のりを一歩一歩読者(藤村そして我々)が一緒に歩いているかのような感覚を実感タップリに<体験>させてくれる。歩く思考と瞑想の書でもあるのだ。
『夜明け前』が有名な「木曽路はすべて山の中である」という印象深い一行から始まるのは、もっと強く受け止めたほうがいいのかもしれない。
小生が島崎藤村に親近感を覚えることのこじつけ的な説明なら幾つか可能である。
曰く、小生の現住する場所が馬込に近く、『夜明け前』の舞台、そして藤村の出自の地である馬篭と、意味もなく(ただ語感的に)つい関連付けてしまうこと。
[宿場町・馬篭については下記のサイトで多数の写真を見ることができる:
「宿場町馬篭宿」
「妻篭宿」フォトスライドショーは、見ていて楽しいかも:
http://homepage2.nifty.com/_wisteria/travel/tumago.htm (←既に無効なURLになっていた。8/9記)]
あるいは小生には島崎という名前のある繋がりのある方があること。
そして藤村の若き日に暮らした地が、小生が約10年暮らした高輪に近く、藤村と関係の深い明治学院には自分なりに思い入れがある、云々。
いずれも他人にはバカバカしい偶有的事象に過ぎないだろう。が、これで結構、本人には無視できない影響を及ぼしているようなのである。
今回、『桜の実の熟する時』を読んで、この小説の中に品川、高輪、芝、白金、天神坂、聖坂、札の辻、もう枚挙に遑のないほどに馴染みの土地が登場する。小説の主人公が万感の思いを以って歩いた品川停車場から高輪への細い曲がった坂道が幾度も描かれるが、同じ道かどうかは分からないが、小生も品川駅から高輪の高台へ幾重にも曲がった坂道を登り、さらに下った先に我が団地があったので、飲み会のほろ酔いを冷ましつつ、何度も歩いたものだった。
夜中に寓居を抜け出して、白金の辺りをほっつき歩いたこともしばしばだった。その頃は藤村が歩いた地だとはまるで知らなかった。知っていたなら、もっと歩き回ったに違いない。明治学院大学の周辺も。
[明治学院の往時の姿をネットで発見することはできなかった。その代わり、小説の中に登場する宣教師館のうちの一つを写真も含めて紹介しているサイトがあった。1997年に修復されたそうだが、嬉しいのは、往時の姿そのままに修復したことだ:
http://www.kissport.or.jp/guide/yakata/page10.html (←既に無効なURLになっていた。8/9記)
このサイトでは「藤村の『桜の実の熟する時』に、“新しく構内に出来た赤煉瓦の建物”として登場する、ネオゴシック様式の洋館」も記念館としての今の姿を見ることができる。「クラシカルな赤煉瓦の外観は、完成当時(明治23年・1890年)の面影をしのばせ」るという。]
しかも、この作品の中に登場する主人公(藤村)の畏友(モデルは北村透谷)の名前が小生の苗字と同じときては、つい何か深い因縁なり符牒なりを感じないでいるのは難しいではないか。
小説本体についてはネットでも数多く参照することができる。そもそも小説そのものを読むことだって可能である:
作品を読む: http://www.wao.or.jp/naniuji/shimazaki/sakura.htm (← 既に無効なURLに。8/9記)
藤村の紹介: http://www.city.chuo.tokyo.jp/koho/140815/san0815.html (← 同上)
藤村の他の作品を読む:
「作家別作品リスト:島崎 藤村」
「島崎藤村・北村透谷記念碑」が銀座にある:
http://www.chuo-kanko.or.jp/home/ginza/f56013/ (← 既に無効なURLに。8/9記)
(02/11/26作)
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