世界は音に満ちている…沈黙という恐怖
「『アフリカの音の世界』は常識を超える!」で、塚田健一著『アフリカの音の世界―音楽学者のおもしろフィールドワーク』(新書館)を俎上に載せている。
→ 塚田健一著『世界は音に満ちている―音楽人類学の冒険』(2001年、新書館)
そこでは、以下のような簡単な感想を書いている:
音楽の世界でも、日本の研究者が既にアフリカへのその始原の音を求めての研究の旅に出ていることが本書で分った。
西欧の<楽譜>に象徴される音楽とは実に対照的な<音の世界>が塚田氏の、積極的に現地の人びとに溶け込む人柄も相俟って、興味深く示されている。
本書で小生がサンバを初めとする音楽の探索を試みてきたことの、かなりの事柄に付いて、その淵源に逢着したような気がして嬉しかった。
上掲書を読んで蒙を啓かれた小生、同じ著者の、「ジャングル、草原、山村、大都会、スラム…世界をかけめぐる音楽学者が聴いた驚きと発見あふれる音の世界」といった内容らしい、『世界は音に満ちている―音楽人類学の冒険』(2001年、新書館)を読みたいと書いている。
その本を昨夜、読了した。
主に車中で読んでいた。公園の脇などに車を止め、窓は締め切って読書をすると、エアコンの音が微かに聞こえるだけで、小生には絶好の書斎と化す。
少しだけ窓を開けると、外の音が、まるで浸水するかのように一気に車内に流れ込み、溢れ、耳を刺激する。
遠くの高速道路を疾駆する車たちのタイヤやエンジン音。クラクション。親子の声。風に鳴る木の葉の音……。
念のため、筆者を「世界は音に満ちている 紀伊國屋書店BookWeb」なるペイジにより改めて紹介しておく:
塚田健一[ツカダケンイチ]
1950年生まれ。東京芸術大学音楽学部楽理科卒。ベルファスト・クイーンズ大学大学院社会人類学科博士課程修了。博士号取得。音楽人類学専攻。若い頃より、台湾山地、パプアニューギニア、さらにアフリカにまで足を運び、音楽学と人類学の境界領域で、諸民族の音楽文化の研究に従事。また欧米諸国にもたびたび出かけ、比較文化論的視点から「世界のなかの日本」を考える。現在広島市立大学国際学部教授。国際伝統音楽学会理事
← 塚田健一著『アフリカの音の世界―音楽学者のおもしろフィールドワーク』(新書館)
とにかく音を求めて足を伸ばした地域が半端じゃない。研究者としてだけではなく、尺八を高名な方に習ったり演奏を聴いてもらう形で実際に演奏する。演奏を頼まれることもあったりする。
尺八というのは不思議な楽器だ。日本に限らないが木や竹、石など自然素材の楽器が日本にはいろいろとある。
楽器ではなくても、空き瓶の口に唇をそっと寄せて、息を上手い具合に吹くと、ボーという、小さな霧笛のような音が鳴る。
それこそ楽器とはまるで違うのだが、心臓の鼓動の音は、別に聴診器を胸に宛がって聞いているわけじゃないのに、ドキッ、ドキッと高鳴るように<聞こえる>ことがある。
傍に人がいたら、絶対、鼓動の音が聞かれているに違いないと思えてならなくなったりする。エドガー・アラン・ポーの世界だ。
本書についての情報をネットで探そうと、「世界は音に満ちている」をキーワードにネット検索したら、興味深い本が浮上してきた。
それは、ハンナ・メーカ著の『失聴―豊かな世界の発見』(鴻巣 友季子【訳】、晶文社 )である。「1998-07-05出版」と決して新しい本ではないのだが、本書の題名やテーマもさることながら、内容説明が小生の気を引いたのである:
世界は音に満ちている。
けれど私たちは、ほんとうに「聴いている」のだろうか?仕事と家庭に恵まれた著者の暮らしは、突然のスキー事故で一変した。しだいに失われていく聴覚。夫と別れ、仕事を辞め、ひとり海辺に本屋を開く。初めての補聴器をつけて。五感をひらいて音を見つけ、その輪郭をつかみとる。―音探しの冒険が始まった。稲光に感じる雷鳴のとどろき。記憶を総動員して愉しむ音楽会。聴導犬の表情に読みとる日常の物音。恋人のキスが告げる雨音のニュアンス…。静寂の世界で発見した「聴くこと」の真の豊かさを描く、幸福感あふれるエッセイ。
→ ハンナ・メーカ著の『失聴―豊かな世界の発見』(鴻巣 友季子【訳】、晶文社 )
五感で何を奪われるのが一番、辛いか。不便なのは明らかに視覚だろうとは容易に想像が付く。嗅覚だって失われたら、世界がいかに貧しいものになるか。例えば、食べ物で香りがなかったら、どんなに味気ないことだろう。
もっと直接的に味覚が失われたどうなるだろう。
では、聴覚はどうか。耳が聞こえないという世界は想像ができる? 恐らくは、せいぜい、窓がないか締め切られた密室に閉じ込められて…押入れとか…という経験があるかどうかなのではないか。
全くの無音状態は多分、健常な誰も経験がないのではないか。
失聴してしまった自分など想像が付かないのだ。
多分、上掲書を手にすることはないだろうが、思いをめぐらしてみるいい機会を与えてくれたとは思う。
余談だが、上で転記した内容説明の中の、「恋人のキスが告げる雨音のニュアンス…」というフレーズで、小生が何年か前に書いた短編を思い出してしまった:
「雨音はショパンの」
武満徹著の『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)という本が小道具として使われているのが微笑ましい?!
← 武満徹著『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)
武満徹(著の『音、沈黙と測りあえるほどに』)については、下記の頁がとても参考になる(ホームページは「新交響楽団」)。
エッセイトしても読み応えがある:
「沈黙の彼方から ----武満 徹の音楽へのアプローチ---- 新響フルート奏者 松下俊行」(第157回演奏会(1997年4月)維持会ニュースより)
「ジョン・ケージと茸(きのこ)の関係」なんて話は非常に面白かったが、ここでは上掲のペイジで武満徹著の『音、沈黙と測りあえるほどに』から引用されている部分があり、それが熟読含味するに価すると思われるので、ここにも載せさせてもらう:
沈黙のもつ恐怖についてはいまさら想うまでもない。死の暗黒世界をとり囲む沈黙。時に広大な宇宙の沈黙が突然おおいかぶさるようにしてわれわれを掴えることがある。生まれでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。詩も音楽も沈黙に抗して発音するときに生れた。(中略)
ルネッサンスによって人間くさい芸術が確立し、分化の歴史をたどると、近代の痩せた知性主義が芸術の本質を危うくした。いまでは、多くの芸術がその方式のなかであまりにも自己完結的なものになってしまっている。饒舌と観念過剰は芸術をけっして豊かなものにはしない。
沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外の何でもない。沈黙の坑道から己をつかみ出すことだけが<歌>と呼べよう。あるいはそれだけが<事実>のはずだ。(中略)芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだして歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。
これが芸術の愛であり、<世界>とよべるものなのだろう。いま、多くの芸術家が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。(中略)
ぼくはいま自然の沈黙の音に注意したいと考えている。これを能楽の間とか空間性という言葉に置換えても一向さしつかえない。しかし、 こうした問題をたんに技術論として留めたくはないのだ。大切なのは<音>にたいする認識の仕方だと思う。(以下略)
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