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2007/08/10

「ジョージ・エリオット」作品について

 本稿は、「「ジョージ・エリオット」解説」に続くものである。掲載した文章の性格そのほかについては、当該頁を参照願いたい。

 過日、筑摩書房版の『世界文学大系 85 ジョージ・エリオット』(工藤好美/淀川郁子訳)を借りてきた。
 下記作品が所収となっている:

「フロス河の水車場」 ジョージ・エリオット(George Eliot)Tr:工藤好美/淀川郁子
「とばりの彼方」 ジョージ・エリオット(George Eliot)Tr:工藤好美/淀川郁子
「ジョージ・エリオット論」 ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)Tr:淀川郁子

George_eliot1_2

← 画像は、Usherさんに教えていただいた頁である、「George Eliot - Wikipedia」より。

 ジョージ・エリオットの作品を読むのも楽しみだけど、ヴァージニア・ウルフの文章も読めるなんて望外の喜び。まして、「ジョージ・エリオット論」 だなんて!
 まあ、小生のことだから、短くても二ヶ月は読了に要するだろうけど、ゆっくりじっくり大河に身を任せ、重厚な世界を堪能したい。

 ジョージ・エリオットについては:
George Eliot(ジョージ・エリオット)のプロフィール・作品・翻訳本の紹介
George Eliot - Wikipedia

作品について 「ジョージ・エリオット George Eliot(一八一九~一八八〇)  海老根 宏」

『ロモラ』はジョージ・エリオットの唯一の歴史小説である。彼女の小説は普通、十八世紀末から十九世紀はじめの頃、つまり執筆の時から数十年前のイギリスの田園を舞台としているが、これは十五世紀末、ルネサンス時代のフィレンツェを題材にしていて、彼女の他の小説に見られる個人的な追憶の懐かしい色調を帯びていない。そのかわりにこの小説は図式的と言えるほどの力強い構成と、華麗で絵画的な描写を特徴としている。作中に画家が登場して絵を描いたり、フィレンツェの街をねり歩く行列や山車、寺院の内部などの詳しい描写があるが、それらはみなこの小説のルネサンス絵巻としての装飾性の一部なのである。もともと歴史小説というものは地味な日常生活から逃れて壮大なスペクタクルを作り出す傾向があり(その代表的な例は古代カルタゴを舞台にしたフローベールの『サランボー』である)、ジョージ・エリオットもその例外ではなかったのである。彼女は一八六〇年にルイスとともにフィレンツェを訪れた時にこの小説の構想を得たのだが、異国の遠い過去を蘇らせることによって、自らの道徳的テーマをくっきりとした絵画的な構図のなかに表現しようとしたのであろう。もちろん歴史的な正確さを心がけたことは言うまでもない。彼女は一八六一年ふたたびフィレンツェを訪れて図書館に通い、ロンドンに戻っても古いフィレンツェ史の書物やトスカナ地方の方言の書物などを大量に買いこんで、十五世紀末のフィレンツェの生活についての厖大なノートを作っている。『ロモラ』を読むとフィレンツェの政体や毛織物業の実態、バルディ家の来歴や受胎告知聖母の由来などの歴史的知識がぎっしりつめこまれ、時にはそれにわざわざ注がついていたりするので、いささかうんざりするほどである。また、この小説に現れるサヴォナローラの姿についても、ジョージ・エリオットは多くの文献にあたって正確を期したようで、小説の終り近くの注のなかで、イタリアの最近のサヴォナローラ評伝の著書に反論しているほどである。この作品のサヴォナローラ像はただ小説上のフィクションではなく、ジョージ・エリオットのサヴォナローラ観をはっきり打ち出した歴史人物論になっている。けれどもこうした歴史的背景は正確で緻密ではあってもやはり背景なのであって、ロモラとティートの物語はイタリア・ルネサンスの時代らしい物語というよりももっと普遍的な人間倫理の問題を表わす道徳的寓話として、時代背景から浮き出している。
 綿密に書きこまれた時代背景と、その前にくっきり浮き出る線の太い道徳的寓話との関係は、この小説の構成上の大きな要素であるキリスト教とギリシア・ローマ文化の対立の扱い方によく現れている。ヒロインのロモラは第Ⅰ部では古代のストイックな知恵に従って生きる老学者バルドの影響を受けているが、人通りの少ない通りに面した階上の、写本や骨董がぎっしりつまった書斎は、この父娘の気高いが人間味のない孤立の象徴である。
過去に埋れたバルドは盲目であり、現実の人間たちとはかけ離れた生活を送っている。気難しい学者の父と二人きりの侘びしい生活から、ロモラは古代文化のもう一つの面、つまり明るい官能讃美の面を体現する美青年ティートへの恋を通じて、「歓びを心ゆくまで飲みほしたい」と思うのである。これに対して第Ⅱ部でロモラの精神の師となるサヴォナローラは、「義務は選ぶことができない」、人間は他者との関係の絆に目をつぶることはできず、それらの絆が要求する自己犠牲を引き受けて生きるべきだと教える。僧院の彼の居室には「悲しみと死の像」であるキリストの画が描かれているし、またロモラも父の思想と学問を捨てて修道院に入った兄の形見として、小さな十字架像を大切にしている。キリスト教とギリシア・ローマ文化の対立は、たしかにルネサンス思想史の大きなテーマであり、ジョージ・エリオットは『ロモラ』の構成にそれを利用しているのである。しかしヒロインであるロモラ自身は結局そのどちらにも属していないのであって、この二つの大きな人生観の対立が彼女の内面的な葛藤のなかで描かれることはついにない。この対立は一方ではルネサンスの時代色を出すための背景であり、他方ではロモラが自己中心主義を脱して他者への無私の献身という、ジョージ・エリオットの心情の宗教にもとづく生き方にいたる生長をくっきりと浮き出させるための、構図上のデザインなのである。だから第Ⅲ部になるとキリスト教とギリシア・ローマ文化の対立は忘れられてしまい、「わが派の大義は神の王国の大義なのだ」と叫ぶ宗教政治家サヴォナローラに失望したロモラが、もっと個人の内面に即した道徳的行動を実践する物語に変って行くのである。ここでもサヴォナローラの権勢と没落の歴史的いきさつは、ロモラの道徳的成長のプロットに対する背景としてしか描かれていない。つまりこの小説の中心人物はジョージ・エリオットの信念である自己中心主義と愛の心情の対立という道徳的主題に、ルネサンス・イタリアの衣裳を着せたものなのである。
 だからと言って、この作品を観念的で生硬だとして片付けてしまうのは不公平であろう。誇り高く迷信をしりぞける理性の立場から人生の喜びの発見へ、それに裏切られて苦悩と悲しみを分けあうことによる人間の連帯へと進むロモラの歩みは、一つの力強く一貫した道徳的主題の展開であり、華やかで絵画的な描写がその線の太さをいっそう強く効果的にしている。結末近く、人生に絶望したロモラが疫病に襲われた村に漂着し、孤児の赤ん坊を抱いた聖母のような姿で村人たちの前に現われる場面などはこの小説の作法の典型であって、見方によっては観念的に見えるかもしれないが、人間のもっとも神聖な行いは無私の献身であるとうい主題を美しい絵画的なイメージとして表現しているのである。ジョージ・エリオットは書簡のなかでこの場面について、「ロマンティックな象徴的要素としてあらかじめ計画していた」ものだと言っていて、道徳的主題と絵画的描写の組みあわせがこの作品の狙いであったことを明らかにしている。この道徳的主題が歴史的な背景のなかから自然に浮かびあがってくるのではなく、抽象的な寓話として歴史背景の前に浮かんでくるのはたしかに欠点であるが、それはまだこの作品では作者の力が及ばなかったためである。ジョージ・エリオットは最後の大作『ダニエル・デロンダ』のなかで十五世紀のイタリアではなく同時代のイギリスの上流社会をとりあげ、道徳的主題と華麗な絵画的描写の結合にみごとな成功をおさめている。
 前にも述べたようにこの小説の中心人物たちはあまりルネサンス時代のイタリア人らしくない。ロモラの人生行路はその時代と特に関係のない道徳的主題を表わしているし、また後半でサヴォナローラの狂信や党派性に反発するロモラは、一皮むけば十九世紀の自由主義的なイギリス女性なのである。自己中心主義を克服するロモラに対して、エゴイズムによる滅びへの道を辿るティートも同じように抽象的な道徳的主題を体現しているが、彼の性格はロモラのよりもはるかに複雑に構想され、緻密に追及されている。すべてにおいて不愉快なことを避け、快いもの楽しいものを求める彼のエゴイズムは快楽主義と甘えとから成っていて、他人に対して積極的な悪意を少しも持たないから、彼のような美貌と明るい物腰と結びついている場合には、たいへん魅力的み見えるものなのである。誇り高い孤独な娘であるロモラが彼に惚れこむのも、またベルナルド・デル・ネロやピエロ・ディ・コジモのような強い性格の老人たちが彼に不信感を抱くのも、ともに非常に自然なことだし、またティートが不幸な境遇から救われた孤児で、何よりもまず目の前の快楽を失うまいとし、素早い計算をめぐらして身の安全を計ろうとすることも、十分な現実感がある。彼は自分にとっての安全と快楽だけを求めていて、他人を押しのけようとか傷つけようとかは少しも考えていないのだから、後半の野心家や策士ぶりはあまり必然性がないように思われるけれども、前半の彼の描写は非常に鮮やかな一貫性と奥行きをもち、それを生き生きしたイメージが助けている。ティートはこの小説のなかでもっとも記憶に残る人物で、やさしいエゴイストという手のこんだ性格造型をみごとに成しとげているのである。またテッサは大きな青い目や、子供っぽい丸顔などがくっきりと読者の印象に残るけれども、彼女の性格はあまりに素直で幼稚すぎるので、性格描写が物足りないというよりも、ティーとがなぜ彼女に惹かれるのかがよくわからないのが欠点と言えよう。十九世紀のイギリス小説は「道ならぬ」男女関係を描くのに非常に臆病であって、「罪の女」はできるだけ普通でない女性として描くことで、社会の偏狭な道徳的非難を避けようとしたのである。ジョージ・エリオットがテッサをほとんど白痴的なほど無邪気な娘にしたのも、まっとうな女性ならそのような「罪深い」関係に陥るはずはないという先入見に支配されたためだと思われる。
 十九世紀の小説作法の中心はリアリズムであったが、それはもっぱら地味な日常的な生活の描写に向かい、想像力の自由な飛翔を抑える傾向があった。想像力は異常なもの、華麗なもの、壮大なもの、珍奇なものに向かうが、リアリズムはともすれば変化に乏しい、くすんだ色調のみに終始しがちだった。歴史小説は十九世紀において、リアリズムの枠内にとどまりながらその制約から逃れる手段だったのである。それは過去の生活の克明な再現という意味でリアリスティックであるが、一方で平凡な市民社会の日常をこえた華やかな色彩、壮大な歴史的事件、異常な冒険などを描くことができたからである。ジョージ・エリオットは基本的にリアリズムの流れに属する小説家であり、むしろ人間の外面生活から内面心理へとリアリズムを押し進めた作家であるが、同時にリアリズムの制約を逃れようとする衝動もつねに彼女のなかで動いていた。『ロモラ』はこのリアリズムのなかでリアリズムの制約をこえようとする歴史小説という形式を利用して、「ロマンティックな象徴的要素」を正面から打ち出そうとしている。そしてこの作品では細密な歴史描写と線の太い道徳的主題、それに装飾的な絵画的な書き方が十分統一されているとはいえないけれども、われわれとしてはこの作品のなかに、明確な道徳的主題の力強さと美しい絵画的技法との結びつきを読みとるべきであろう。

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