「ジョージ・エリオット」解説
[表題が「「ジョージ・エリオット」解説」となっているが、小生如きがおこがましくも本作品について解説を加えようというのではない。小生が読んだ下記の本の解説を<転記>するという意である。]
[このたび、「芸術への審美的欲求と想念」という副題の付いた、Usherさんの畏敬すべきブログサイト「Fonthill Abbey」にてリンクをしてもらうことになった。光栄…というより、率直に嬉しい! 小生のほうはという、既にこっそり勝手にリンクさせてもらっている!]
ジョージ・エリオット著『ロモラ』(工藤昭雄訳、集英社版 世界文学全集 40)を8月1日、読了した。前回、本書を読んだのは94年のことだから、13年ぶりの挑戦ということになる。
94年の失業時代、プールに通って体のリハビリをし、毎日、十枚の創作をし、毎日、読書した。せっかくのぽっかり空いた短からぬ月日ということで、可能な限り文学にしても過去に読んだことのない作家を渉猟した。
あるいは文学に限らず、名前を知っているか否かに関わらず、ジャンルを問わず、手にしたことのない作家(書き手)の本を読んだものだった。
→ 画像は、「ジョージ・エリオット - Wikipedia」より
この間のことは、「古田武彦著『人麿の運命』の周辺」において大よそのことを書いている。
その一年余りの間の読書で発見した作家(書き手)は少なからず居るが、その筆頭の一人は、まさにこのジョージ・エリオットであり、『ロモラ』だったのである。
今回、13年ぶりに二ヶ月余りをかけて読み返してみて、あの感動が改めて蘇るようだった。せっかくなので、感想文を綴るところだろうが、小生には手に余る。
むしろ、ジョージ・エリオットという作家について多少の紹介を試みるほうが有益だろう。
が、ネットで関連情報を探してみても、あまりに情報が乏しい(小生の探し方が下手なのかもしれない)。
例えば、「ジョージ・エリオット - Wikipedia」では、なんと以下の記述がすべてなのである:
ジョージ・エリオット(George Eliot、1819年11月22日 - 1880年12月22日)は、イギリスの女流作家。ウォリックシャー出身。本名はメアリー・アン・エバンス(Mary Ann Evans)。 代表作は「ミドルマーチ」など。
念を押しておくが、小生は抜粋したわけではない。以上の転記ですべてなのだ。あとは作品名が少々。作品名も少ない!
ってことは、この作家は今は人気がないのか。
もしかして、うまく検索したらこの作家についての情報がネットにて見出せるのかもしれないが、まあ、老婆心もあるし、参考になると思えるので、本書の「解説」をせっせと転記してみた。手作業の転記なので、ケアレスミスなどがあるかもしれないが、とにかく、ネットの世界へ多少の情報を流入させてみたということで、紹介に変えたい(このほうが有益だろうし)。
今回は「解説」、次は「作品について」と、2回に分けてアップする。改行の箇所を増やすなど、ネット上で読むための工夫を加えようとも思ったが、自重。
なお、「ジョージ・エリオット作『ロモラ』−西洋と東洋の心の絆を求めて− 高野秀夫」という論考が見つかったことを付記しておく(pdf形式のサイトである)。
解説 「ジョージ・エリオット George Eliot(一八一九~一八八〇) 海老根 宏」
ジョージ・エリオット(本名メアリアン・エヴァンズ)の生涯の大きな二つの出来事といえば、それはやはり二十二歳の時キリスト教の信仰を棄てたことと、三十四歳で妻子ある文芸批評家G・H・ルイスと同棲したことである。作家の私生活とその作品の世界とが直接つながるものではないのはもちろんのことで、作品を読む蔡に伝記上の事実をむやみに持ち込むのは慎まなければならないが、この二つの事件は単にメアリアン・エヴァンズという一人の女の個人的な生活上の出来事ではないのである。それは彼女の生きた十九世紀イギリスの、普通ヴィクトリア朝時代と呼ばれる時代の精神を典型的に表しているので、これまた典型的にヴィクトリア朝の小説である彼女の小説と結びつけて考えることができる。
英国中部の田園に土地差配人の娘として生まれた彼女は、福音主義派(エヴァンジェリカリズム)の熱心な信者として少女時代を送った。福音主義というのは英国国教会内部の運動で、その点ではピューリタニズムの流れを汲む非国教会の各派とは違っていたけれども、その説く内容はかなりピューリタン的であった。具体的に言うと、この派は特に回心体験を重視していた。良きキリスト教徒というものはただ幼い頃に洗礼を受け、きちんと協会に通って善良な生活を送るだけではいけない。自らの罪深さ、神にそむく人間の本性を認め、絶望のうちに神に救いを求めなければならない。その苦悩のうちにはじめて神の愛が人間に臨み、歓喜の涙とともに自分が救われたという確信を得るのである。福音主義派の人びとは他のピューリタン的な諸派と同じように、こうした内面の感情にもとづく信仰を重んじていた。情熱的だが引っこみ思案で、愛情を求めながら自分の女性としての魅力に自信の持てなかったこの娘にとって、福音主義の信仰は何よりもまず内面的な感情生活の豊かさを意味していた。それは来世の生とか天国と地獄とかの教義というよりも、人の内面から湧き出る愛と回心の思想だったのである。
彼女が二十一歳でコヴェントリーの町に移り、人道主義的な友人の影響でキリスト教の教義を否定するようになった時も、人間にとって最高の生は無私な愛の実践にあるという考え方はそのまま残った。彼女の場合、キリスト教の否定は同時代のテニソンやハーディのような厭世観には結びつかなかったが、それは元来彼女が奉じていた信仰が内面の感情や体験を重んじるものだったためである。イエスは神の子ではなく、死後の永生などというものはないと認めても、彼女は絶望に襲われることはなく、かえってそれまでの狭い信仰の世界から解放される喜びを感じたのではないかと思われる。人間の心に溢れ、他の人間たちの心に注ぎこまれる純粋な愛は、奇蹟とか天国とかの観念を必要とせず、そんなものがなければよりいっそう高貴な美しさを持つものだというのが、彼女の一生変わらぬ信念であった。それは正統的なキリスト教ではないにしても一種の信条の宗教だった。
小説家ジョージ・エリオットが描く人生の中心にこのような心情の宗教があることは、例えば『ロモラ』のヒロインの愛情の豊かさと無私の献身を見ればよく分る。人生に絶望したロモラが小舟に乗って海に出、疫病に襲われた村に漂着して村の人びとを看護して、聖女として崇められるという結末近くの挿話は、キリスト教の象徴を使いながら実は人間の心情を高らかに歌いあげるという意味で、彼女の思想をもっとも理想化した形で表現している。この挿話があまりにロマンティックに理想化されすぎていることは事実であるが、それ以前に、不幸な結婚生活の苦しみを忘れるためにフィレンツェの貧民たちへの奉仕に献身し、胸に鈍い疼きを漢字ながらもかいがいしく病人たちにパンを配っているロモラの姿の描写には、理想化された愛の勝利の場面には見られない痛切な理解があると言えるだろう。ジョージ・エリオットの小説にはいつも愛に生きる女性の主人公が登場するが、彼女がこれらのヒロインたちをロマンティックに美化していない場合には、彼女たちの愛はいつも苦悩のなかから生まれ、苦悩と裏腹なものとして描かれている。
手放しの心情主義というものはセンチメンタリズムやロマンティックな美化と理想化をともないやすい。いま述べたようにジョージ・エリオットも時にそのような陥し穴にはまることがあるけれども、彼女の心情の宗教にはやはり福音主義の信仰から受けついだもう一つの面があり、そのために彼女の作品は手放しの感情過多を免れて、厳しい立体性を備えている。それは人間のエゴイズムに注がれる鋭く現実的な凝視である。福音主義の教えにおいても、神の愛を人間が素直に受け容れる邪魔になるのは人間の我意であったが、ジョージ・エリオットにとっても、人間同士が愛を与え、また受けることを妨げるのは人間のエゴイズムなのである。彼女にとって、エゴイズムとは単にわがままとか自分勝手とかいう性格の歪みではなく、人間の条件そのものである。後期の傑作『ミドルマーチ』のなかで、ジョージ・エリオットは「われわれはみな、道徳的には白痴の状態で生まれてくる――この世界を自分自身という至高の存在を養ってくれる乳房と思っているのだ」と言っているが、われわれの幼児的自我にとっては自分こそが世界の中心であり、世界のすべては自分に奉仕するために存在しているのである。だが大人になってもそのような考え方から抜け出せない人間は、他の人びともまた自分を中心に考えており、人生は自分の自己中心的な考え通りには行かないことを手痛い形で悟らされることになる。
これは単なるお説教のように見えるがそうではない。あるいは非常に高度のお説教であって、人間はすべて心の中のどこかに幼児的な自我を残しているように、多かれ少なかれすべてがエゴイストなのだという苦い認識に支えられている。それは避けられない人間の条件である。しかし世の中の中心が自分であるという本能的な考え方が錯覚である以上、それは必然的に挫折と苦悩に終る。福音主義の教えのなかでかたくなに神に背を向ける魂が滅びの道をたどるように、ジョージ・エリオットの心情の宗教においてもエゴイズムは孤独と失敗への道をたどるのである。そして苦悩のなかに浸ることによってはじめて、エゴイストたちは愛を与え、受ける準備が整うことになる。この暗いドラマティックな緊張に支えられて、ジョージ・エリオットの心情の宗教は甘ったるい愛情主義ではなく、人間心理への深い洞察に支えられた思想となるのであるが、それは内面の体験を重んじ、信者たちの絶えざる自己省察を要求した福音主義の信仰の遺産と言えるのである。
このようにジョージ・エリオットの思想の核心には、福音主義の信仰生活に由来する愛の思想と厳しい人間心理への省察があり、ただ神や霊魂の不死、天国と地獄などという超自然的な教義が文字通りの真理としてではなく、人間の心情のさまざまなあり方を表現する象徴として解釈されるのである。これはジョージ・エリオットが英訳したフォイエルバッハの「神的本質は人間的本質以外の何物でもない。またはいっそうよく言えば、神的本質とは人間の本質が個々の人間――すなわち現実的肉体的な人間――の制限から切り離されて対象化されたものである」(『キリスト教の本質』)という考え方と同じである。この翻訳によって彼女は当時のヨーロッパの宗教学の最先端を身につけ、自分の思想に取りこんだ。彼女は他にもD・F・シュトラウスの『イエスの生涯』、スピノザの『倫理学』などを訳し、思想雑誌「ウエストミンスター評論」の編集員となるなど、十九世紀中葉の知識人としての道を歩いていた。そして雑誌「リーダー」の編集者である批評家G・H・ルイスと会ったのである。彼には妻子がいたが、妻は他の男のもとに走り、彼は遺された子供たちをかかえてやもめ暮しのような生活を送っていた。現代ならば当然離婚が成立しているところだが、当時のイギリスでは離婚は極端に難しいことであり、またルイスはいずれにしろ妻に姦婦の汚名を着せるのを望まなかったものと思われる。開明的な知識女性としてメアリアン・エヴァンスは、ルイスとの同棲に踏み切ったのであるが、思想的にはそこに何のためらいも覚えなかったとはいえ、当時の社会風土のなかではそれはやはり大きな決断だったに違いない。彼女の小説のなかにはヒロインが恋人を捨ててもう一人の男と出奔する(『フロス河畔の水車小屋』)、厭わしい夫のもとから家出する(『ロモラ』)、冷酷な夫との生活に苦しんで若い男に救いを求める(『ミドルマーチ』、『ダニエル・デロンダ』)などのテーマがくり返し現れてくる。興味深いことに、これらの作品のプロットは決してヒロインを甘やかしたりせず、彼女たちは愛と生命を求める自らの行動のなかにどれだけ自分勝手な願望が混じっているかを思い知らされるのである。ジョージ・エリオット自身はルイスと結婚こそできなかったとはいえ、事実上の妻としてまた子供たちの義母としてルイスが死ぬまで安定した家庭生活を送ったのだが、作家としては三十四歳の時のあの決断を何度となくくり返し反芻していたのだった。
ルイスとの事実上の結婚は彼女にとってもう一つの大きな結果を生んだ。作家ジョージ・エリオットの誕生である。優れた批評家だったルイスは彼女の才能を認め、引っこみ思案と弱気に悩む彼女を励まして小説を書かせ、男の変名(ジョージという名はルイスの名前ジョージ・ヘンリーから取ったものである)を使って出版社に紹介してやった。そしてその後も社会的交渉はすべて引き受けて彼女を執筆に専念させた。彼女の弱気を気づかうあまり、不利な批評はいっさい目にしないよう隠してしまうなど、必ずしもよい影響ばかりとは言えないけれども、彼がいなければ作家ジョージ・エリオットは存在しなかったであろうことはたしかである。彼の保護と援助があってはじめて、彼女の緻密で瞑想的で、細やかな観察と厳しい倫理的洞察にみちた小説が、騒々しい現世的関心からやや退いた場所でのびのびと書きつがれていったのである。
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コメント
やいっちさま、こんばんは。
改めての紹介、有難う御座います。
ジョージ・エリオットというと、D・G・ロセッティ、サッカレー、テニスン、ディケンズ等と同時代の作家ですね。(しかし、Wikipediaの項目の少なさといったら!) もう御存じかとは思いますが、こちらは海外のWikipediaのジョージ・エリオットの項です。http://en.wikipedia.org/wiki/George_Eliot
御参考までに…。
投稿: Usher | 2007/08/06 00:23
Usherさん、情報、ありがとう。
さすが海外(英語版)は充実していますね。
時間があったら、訳して載せたいものです。
読書する時間はあまりないのですが、近いうちにまたジョージ・エリオットの本を何か読む積もり。
他の著名な作家と比べ、やや忘れられつつある作家の感があるけど、小生には偉大な作家と思えるのです。
投稿: やいっち | 2007/08/06 00:42