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2007/08/17

「漱石の白くない白百合」の色話

 自宅では、昨日のブログ日記にも書いたように、F.キングドン・ウォード著の『植物巡礼 ―― プラント・ハンターの回想 ――』(塚谷 裕一訳、岩波文庫)をヒマラヤやチベットなどの高峰や奥地を想像しながら読んでいる。
 車中では、半藤 一利 著の『漱石先生ぞな、もし』(文芸春秋社)を寸暇を惜しむようにして(このところ忙しくて本を読む時間が侭ならない…)読んでいる。

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→ 半藤 一利 著『漱石先生ぞな、もし』(文芸春秋社) (画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より)

 本書については、前々から読みたかったし、唾も付けていたのだが(拙ブログ日記「漱石とモナリザ・コード」で、「「妻の半藤末利子は、作家松岡譲と夏目漱石長女筆子の四女で随筆家」だという半藤氏の書いた「漱石先生ぞな、もし」などの漱石関係の本も読み浸ってみたい」などと書いている)、過日、図書館の書架を物色して歩いていて目が合ったので、即、手に取ったのだった。

 さて、本書をひも繙(ひもと)いていて、びっくりする記述に出会った(大袈裟か)。
『植物巡礼』も『漱石先生ぞな、もし 』も、並んでいる書架(コーナー)がまるで違う。たまたま、それぞれの興味・関心に従って手にし、両者を自宅で、あるいは車中で読み進めているに過ぎない。

 その『漱石先生ぞな、もし』の中で、『植物巡礼』の訳者である塚谷裕一氏の名前を目にしたのである。
 当然ながら植物学者として参照されているのだから、登場したって不思議ってことはないが、たまたま手にしている二冊が「塚谷 裕一」氏繋がりということに、ちょっと縁を感じたという(考えようによってはつまらない)話である。

 本書『漱石先生ぞな、もし』は、実に面白い本である。示されているエピソードや半藤 一利が名探偵ぶりを示してくれている箇所は多い。
 まあ、漱石好きならとっくの昔、読んでいるだろうし、同氏の洞察があるいは既に漱石研究の常識に属するものになっているやもしれない。

 さて、上掲の本には「銀杏返しの女たち」という話が載っている。これはこれで面白い章なのだが、この章の中にても、半藤 一利氏が鋭い(かどうか、まだ見極められないでいる)洞察を示している項目がある。
 それは、「匂いのない文学」という項。実に覚えのある小生には耳をダンボにする(目を皿にする)項である。
(「銀杏返し」に半藤氏はこだわっていたりするが、この髪型は明治には人気の髪型になっていたから、漱石の小説に出てきても、それだけでは漱石が銀杏返しが好きだとか、銀杏返しに何かの意味を篭めたとは言いづらいのでは。→「銀杏返し」参照)
 
 漱石の小説にはベッドシーンが一つもないと物足りなく思う人が居る。あるとき、時実利彦氏著の『人間であること』(岩波新書)を読んでいたら、半藤 一利氏流に平ったく言うと、「セックスと匂いはきわめて密接である」という説明に半藤氏は閃きを得たという。
 で、漱石の文学にセックス描写が少ない…のは、その前に、実は漱石が鼻が悪く匂いに敏感ではなかったのではないか、と半藤氏は書いている(明治の儒教教育の影響もあるかもしれないと、留保しつつも)。
 漱石が(B級)グルメだったことは漱石ファンなら知っている。小説の随所に食べ物の話や店の名前が出てくる。
 が、味に付いての薀蓄は相当に傾けられているのに、匂い(風味)についてはあまり記述が見当たらないと、半藤氏。
 僅かに小説『それから』の「百合」の花の白や匂いが思わせぶりに描かれているところが、だから半藤氏は印象的で、漱石の描いた貴重なベッド・シーンなのじゃないか、と半藤氏。
(小生、個人的な肉体事情もあり、匂いの話題には(「匂い」にはと書けないのが寂しいが)人一倍、敏感である。→「匂いを体験する」や「匂いを哲学する…序」などを参照のこと。匂いに敏感な人は、きっと性にも関心が強い。異性の匂いを感じた瞬間、既にセックスが始まっているからなのかもしれない。)

 さて、こうした話の展開の上で塚谷裕一氏の登場と相成る。
 以下、本書から転記する:

 それと、これはつけたりになるが、植物学者の塚谷裕一氏のエッセイをある小冊子で読んで、なるほどと感心した。ほとんどの人が『それから』の百合を鉄砲百合としてイメージするが、漱石が描いた特徴から推理して、「鉄砲百合の香りは決して”甘たる”くも”強く”もない」などなどと指摘し、これを否定する。そして、山百合こそがこの小説の百合にふさわしいと比定する。
「あの山百合の強い香は、雨の日の、蒸し暑い室内でこそ本領を発揮し、『甘たる』く『重苦し』く香ることを、漱石とその時代の読者は実体験していた」
 極めて説得的で、いらいわたくしは鉄砲百合のイメージを払拭することにしている。

ヤマユリ - Wikipedia」と「鉄砲百合(テッポウユリ)・高砂百合(タカサゴユリ)」とを外見や香りを引き比べてみないと、諾も否も言えない。

 この件については、「ロワジール館別館 『漱石の白くない白百合』の余白に」が詳しい。
 このブログには、『漱石の白くない白百合』(塚谷祐二、文藝春秋 1993)という本が参照されている。あるいは半藤氏の読んだ小冊子の文章もここに収録されているのか(どうか、未確認。なお、訳者は「塚谷 裕一」の間違いだろうと思う)。
 それより、このブログの文章が読んで実に面白い。こういうサイトを発見するから、苦労してネット検索する甲斐があるというもの。小生の下手な紹介はしない。どうぞ、リンク先へ飛んで行って読んで見てほしい。

 ところで、小生の得意な蛇足を一つ。
 半藤氏は、漱石は鼻が悪いのではという。だとしたら、百合についての匂いの描写も漱石の体験から得たものだとしても、漱石の匂い体験の危うさからして、信頼性に欠ける可能性もある。漱石の鋭くはない嗅覚で嗅いだ鉄砲百合の印象が「甘たるく、強い」ものと感じられたという推理も成り立つと思うのだが。

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← 「夢十夜・第一夜」画像は、「ユメ十夜 - goo 映画」より

 ついでながら、漱石の作品「夢十夜」には百合の出てくる有名な場面がある:
夏目漱石「夢十夜」 第一夜

 全文を読んでも数分も掛からないと思うが、当該の部分だけ転記させてもらう:

 すると石の下から斜(はず)に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなって丁度自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂(いただき)に、心持首を傾(かたぶ)けていた細長い一輪の蕾(つぼみ)が、ふっくらと瓣(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)える程匂った。そこへ遥(はるか)の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花瓣 (はなびら)に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁(あかつき)の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

 残念ながら、「真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)える程匂った」とあるだけで、ダイレクトには今の論議に参照できないけど、何か象徴的ではある。

 さらに蛇足を。
 漱石の相撲好きは有名。本書でもその話題が出ている。近頃、相撲界の風雲児が話題に上っている
 なので、本書で引用されている漱石の相撲に付いての叙述を下記サイトから転記させてもらう。
 やはり、誰しも転記したくなる文章なのである:
立川春秋 漱石先生ぞな、もし(半藤一利)」:

 あれは日頃の猛練習(稽古)によって、筋肉のすべてを自由自在に思いきり働かせることを、きっちり覚えておいて、数秒のわずかの間に、相手の手に応じて、妙技を奪って勝負をつけるのだ。相手が、こうやったら、よし、こうしてやると、頭の中で考えてやっている仕事ではない。瞬間にまったく相手に応じて押し掛けて行くのである。相手が押し掛けてきた手をぱっとはずして、それに応ずる手をこちらから仕掛けて、瞬間に勝をとる。負けるにしても、綺麗にパッと負けるところは実にいいね。まったく一つの技巧だね。芸だね。相撲にはそういう芸術的なところがある。

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