雫垂る木槿の面に空映し
最近、方々で何故か出会う花(木)がある。
「木槿 (むくげ)」である。
「子供のお使いでした!」で自分で撮った画像を載せているし、「試験より健診結果が心配でした」でも「木槿 (むくげ)」の画像を載せている。
← 7月2日、都内某所にて。晴れ。
しかし、正直、自分では花(木)の名前は自信がない。
事実、「試験より健診結果が心配でした」で載せた花は「夾竹桃(きょうちくとう)」ではないかという指摘を受けたりして、小生、オロオロするばかり。
[7日追記:「夾竹桃(きょうちくとう)」と教えてくれたのは、「試験より健診結果が心配でした」で載せた四つの花の画像の最後の画像の花(木)の名前だということでした。なるほど!]
道端に咲く草花の名前を見ただけでパッと言い当ててくれる人は、ひたすら尊敬する。そうした生き物への愛情なのだろうけれど。
そもそも草木へ名前を付すのは人の勝手な仕儀に過ぎないのだろうし、名の知れない雑草だって数知れずあるわけで、要は、生きとし生けるものを愛せばそれでいいじゃないかという考え方もあるとは思う(若い頃は小生もそう思っていた)。
そうはいっても、長い歳月の間に歴史が積み重なり、人の思いの数々が寄せられている。名前や謂れや花言葉の類いは、その集積なのだろう、とも思う。
名前を与えることで、どんな草花も十羽一絡げといった扱いではなく、個々別々の名前のある存在として、他との違いを認識し、その植物固有の生き方や特徴を理解し、ありとあらゆる生き物がこの世にあるということへの不可思議の念を新たにする。
掲載している画像が「木槿 (むくげ)」なのかどうかの最終判断は後回しにすることにして、今日は、「木槿 (むくげ)」について、若干のことをメモしておきたい。
→ 7月4日、都内某所にて。夜まで小ぬか雨が降り続いたが、この撮影の時点ではちょっと雨が上がっていた。
まず、花の名前のことだが、「木槿 (むくげ)」なる頁(ホームページは、「季節の花 300」)を覗くと、似ている花として、以下が掲げられている:
「立葵 芙蓉 黄槿(はまぼう) ハイビスカス」
なるほど、いずれ菖蒲か杜若である。じゃなく、確かに似ている。特に、芙蓉などは、そう言われたら、ついふよーとしてしまいそうである。
「木槿 (むくげ)」によると、「中国原産。平安時代に渡来」で、さらに以下のように説明されている:
中国名を「木槿(ムージン)」と呼ぶ。漢字はこの字があてられている。漢名の「木槿」の音読み「もくきん」が変化して「むくげ」となったとも、韓国の呼び方「無窮花(ムグンファ)」または 「ムキュウゲ」が変化して「むくげ」となった、 ともいわれる。
さらに、韓国の呼び方「無窮花(ムグンファ)」についての以下の説明が床しい:
朝方3時頃に開花した花は夕方にはしぼんでしまう「一日花」で、 「槿花一朝(きんかいっちょう)の夢」(人の世ははかない、の意)に例えられているが、次々に別の花が咲くため長く咲くように見える。韓国では「無窮花(ムグンファ)」といい、国の繁栄を意味する花として国花になっている。
「木槿(ムクゲ) 和歌歳時記」(ホームページは、「やまとうた 和歌」…随分とお世話になっている!)
「純粋な「やまとことば」でない「むくげ」という語を嫌った故」に、万葉集に載る歌に出る「朝顔」は(桔梗を指すと見る説が今では有力だが)、「かつては木槿説が広く支持されていた」という。
「槿の花」とあったら、「朝がほの花」と詠むのが嗜みのある人の常識だった時期もあったというのだ。
← もう一度、虫さんがお仕事している光景を見ちゃう。秘蜜っていいよね! …ところで、この昆虫の名前は何?
この頁には、斎藤茂吉の第二歌集『あらたま』からとして、以下の歌が掲げられている:
雨はれて心すがしくなりにけり窓より見ゆる白木槿(しろむくげ)のはな
「俳句では秋の季語」だとか。
この頁には若山牧水、釈迢空、佐藤佐太郎、宮柊二らの歌は載っているが、俳句は載っていない。
「季語・木槿の俳句」(ホームページは、「お得区俳句案内」か)なる頁を覗く。
ここには、「花むくげはだか童のかざし哉」「道のべの木槿は馬にくはれけり」(芭蕉)など、蕪村、一茶、子規、碧梧桐、虚子、青邨、波郷らの句が載っている。
一茶の句も載っているが、他に、「それがしも 其(そ)の日暮らしぞ花木槿」といった、一茶らしい句もある。
「木槿 (むくげ)」は、「俳句では秋の季語」だという。ということは、秋に花が一番、盛んに咲くってこと。あるいは実が生(な)るってこと?
でも、画像が本当に「木槿 (むくげ)」なら、今だって十分、花盛りのような気がするのだが。
これ以上、花が一杯になったらどうなっちゃうんだろう?!
雫垂る木槿の面(おも)に空映し
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コメント
はじめまして。いろんなことを検索していて星の数ほどサイトの中から2度3度同じサイトに行くつくのは、決してぐうぜんではなかろうと、思います。国見さんの「無精庵徒然草」は私にとってそういう珍しいサイト(の一つ)です。私の敬愛するかわうそ亭さんのブログにもリンクされているのも、――それは最近になって知ったのですが――さらに不思議な思いにさせてくれます。
前置きが長くなりましたが、私の日記のサブタイトル「短詩・樹花たまには歴史など 」に重なった話題でしたので、思い切って書き込みさせていただきました。
人が有用無用を問わず動植物に「名前」を与えるという行為は、――「同定」というこれも不思議な認識作業とともに――かなりおもしろいことだと思います。
「名前を与えることで、どんな草花も十羽一絡げといった扱いではなく、個々別々の名前のある存在として、他との違いを認識し、その植物固有の生き方や特徴を理解し、ありとあらゆる生き物がこの世にあるということへの不可思議の念を新たにする。」と書かれていることに深く共感します。
そして、かつて、不十分ながらこの点にふれた日記を書いたことを思い出し、さがしました。4年前の拙日記です。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20030824
(ムクゲとキョウチクトウの区別が必要でしたら、葉の違いに目をやられてはいかがかと思います。)
ところで、国見さんのご実家は赤祖父家のある近くとか。実は私もその近くの出身です、現在は射水市にすんでいますが。
(なお、赤祖父家門の移築工事は進行中です。http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20070622204.htm)
ではまた。
投稿: かぐら川 | 2007/07/06 23:32
かぐら川さん、来訪、コメント、ありがとう。
文字数ばかりが多くて、味気ないサイト。
でも、文字数の多さがネット検索の網に掛かる可能性を増やしているのかなと思ったりします。
味気なさや内容の薄さは、昨年辺りから画像を可能な限り(文章の内容に関係があるなしに関わらず!)載せるようにして、少しでも親しめるように、文章はつまらなくても、画像で楽しめるようにしているのです。
かわうそ亭さんのブログにリンクされているのは、光栄の限り。かわうそ亭さんの読書の量と質は、小生には次元が違うようでリンクは恐縮の限りです。
かぐら川さんのブログを覗かせていただきました:
「さるさる日記 - めぐり逢うことばたち」
http://www3.diary.ne.jp/user/325457/
幾度か、覗いたことがあったな、と気付きました。内容の高度さと濃さに驚かされました。で、うっかりコメントは書けないと逃げ腰・弱腰になったりして。
かぐら川さんは富山の方なのですね。富山県の中央植物園の話題がありましたが、昔、小生の近い親戚のものが受付か何かで働いていたことがあります。
勤めている間に植物園に行きたかったけど、帰省すると家事に没頭する状態なので、とうとう行けないままに退職してしまった。
(勝手ながらリンクさせてもらいますね!)
樹木や雑草や(虫や鳥などの獣類や微生物や土地や鉱物や川や山や果ては宇宙や…)に命名する営為は(多分)人間に特有の、言葉を使い始めた頃からの本能的なものと勝手に思っています。
動植物にとって、命名が迷惑かどうか…。きっと、<自然>はそんなことなど頓着しない。人間の思い入れや情の状態などには無関心なように。
そしてその無関心さがまた人間にとっては懐の深さに感じられ、無限の愛情に満ちていると感じられ、自然の中にあって心の癒しを覚えるといったこともあるのでしょう。
命名は人間の勝手な営為と書きましたが、命名することで世界の中にあって(世界の中に放り込まれて)途方に暮れてしまう原始人が文明人になる、世界と親和したような気分になれるというメカニズムも見受けられ、案外と深い、人間存在とは切り離しえない根源的欲求なのかな、などとも思います。
小生の実家は、明治の初め頃か(ら戦争の頃まで)赤祖父家の領地だった巨大な土地の中にポツンとあるのです。
赤祖父家の家が何処にあったかも小生は知らないのです。
但し、赤祖父家の江戸時代以来の十数代に渡ると思われる墓地が歩いて十分ほどのところにあります(最近は知らないのですが、あまり墓参された様子が見受けられない)。
市内か県内には(当然ながら他県にも)赤祖父という名の家があることは承知しているけど、十数代の墓地との関係などについては分からない。
赤祖父家門の移築工事の件については、下記のブログ日記で触れたことがあります:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2006/02/post_4daa.html
いよいよ完成が近づいていて、今年の秋には完成するのですね。
工事の様子を遠くから撮影したこともあるのですよ。昨年のこと。
投稿: やいっち | 2007/07/07 12:53
「赤祖父」(家)について、求めていた情報をたった今、得た。今頃、気づくというのも我ながら情けない。
何度か、「赤祖父」でネット検索したことがあったはずなのに、何故今日になるまで下記のサイトをヒットできなかったのか分からない。
今は時間的な余裕がないので、下記サイトから一部をメモ代わりに転記させてもらう。
後日、文献と併せ、独立した記事に仕立てたい:
「随想 遊ぶの君」
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/zuisou-rekisi/asobu.htm
国守大伴家持を中心とする越中万葉には、土師・蒲生といった遊行女婦(うかれめ)が登場しており、当時の越中の社交界でのかなりの役割を果したことがうかがわれる。遊行女婦は「遊君」ともいうが、表題はそれを意味するものではない。古代越中に居住した遊部君という氏族とその後裔についての話である。
昨年(1993)七月、富山に着任して関係先に挨拶回りをしたとき、ある大企業の受付嬢の名札に赤祖父と記されており、何とも興味深く感じた。かって『古代氏族系譜集成』という書を編纂して、古代の遊部君の子孫に赤祖父氏があったことを知っていたからである。
気をつけてみると、高岡市の大字に赤祖父があり、井口村では赤祖父(あかそぶ)という名の山・川・溜池があって、富山県では地名としての馴染みがある。こうした地名に由来してか、戦国期の武士(永禄の赤曽布鎮秀)や富山藩の十村役(大庄屋)の赤祖父家、夏の高校総体の選手のなかにも見え、この苗字が少なくないこともわかってきた。一方、苗字の大百科たる『姓氏家系大辞典』には、赤祖父がアカオチと訓まれて掲載されるが、由来等の記述は全くない。そのため、私は当地に来るまで、アカソフという訓み方は知らないでいた。
勤勉な県民性の富山県に「遊ぶ」という組合せはおもしろいが、古代の遊部君は、貴人の喪葬の際に呪術的な歌舞等で鎮魂を行う職業部の管理者であり、垂仁天皇の庶子円目王の後裔という系譜伝承を有していた。遊部がアソビベではなくアソブであり、赤祖父がアカソフであれば、アソブ→アカソフという転訛ははっきりしてくる。遊部という地名も現在の西礪波郡福光町の大字で、古代利波臣の流れ、中世石黒氏の本拠地のなかにあって、アソブと訓まれている。
遊部君の起源の地は越中にあったとみてよさそうである。その実際の出自も、当地の古代豪族たる利波臣の一族で、倭建命の遠征に随行した吉備武彦が越中に遺した同族ではないかとみられよう。というのは、その遠征経路にあたる飛騨の神岡鉱山の附近にも遊部郷があり、いま神岡町の阿曽保一帯となっている。また、皇室葬礼に関与することから、大和国高市郡にも遊部郷(いまの橿原市東南部か)があり、この一族の広範な活動状況がしられる。こうした名族も、その先祖伝承を失ってか、赤染時用(歌人赤染衛門の父)の子孫と称していたという。
(以上、転記)
ついでに調べると、富山には「赤祖父山」があることを知った:
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4065/060515akasohu.htm
「赤祖父湖」
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1603/kj00001740-048-01.html
さらに下記のサイトを発見。
とりあえず、一部だけ転記させてもらう。
「Doblog - 藩政末期の郷土史 -」
http://www.doblog.com/weblog/myblog/42209/2462386
●赤祖父家
祖先は平安期の官人赤染時用で、その子孫が赤祖父姓を名乗って越後国三条で守護に任じられます。戦国期に越中国に移住し、竹島や牛丸といった家臣と奥田荘に帰農しました。寛永末頃に初代伝兵衛が加賀藩の十村に任じられ、万治三年富山藩領に組み込まれた際も引き続き任じられます。天明二年、八年、明和五年には御扶持人に昇格しています。この分家が新川郡米田村(現在は富山市)の牛松家で、三代目の四男が義正(号昌斎、天保元年十二月~明治二十三年八月十三日)で、富山殿町の高桑元吉に蘭学と医学を学び、安政四年大坂の適塾に入門しました。慶応元年富山藩の命で長崎に留学し、精得館に入ってオランダ医者ボードインより学んで、同四年五月に富山藩医として長岡まで従軍します(六番隊)。明治二年九月には富山藩西洋医学所で教え、廃藩後に富山古鍛冶町に開業しました。九年公立金沢病院富山分院(後の石川県富山病院)医員に就任し、種痘施行に功績をあげます。なお子息龍太郎は高岡で開業しています。
投稿: やいっち | 2008/02/03 21:56
さらに新しい情報が:
「千歳御門:現存する唯一の遺構 富山城址公園に移築完了」
http://mainichi.jp/area/toyama/news/20080718ddlk16040548000c.html
富山藩10代藩主、前田利保(1800~59)の隠居所として富山城城郭内に造営された「千歳御殿」の正門で、明治時代に市民に売却された「千歳御門」を富山城址(じょうし)公園(富山市本丸)に移築する工事が完了した。千歳御門は、現存する同城唯一の遺構。市は今後、同城南側に番所風出入り口、公園内に御殿の一部「お涼み所」を再現する予定。
同城の遺構は、第二次世界大戦末まで残っていたものも、富山大空襲ですべてが焼失した。ただ一つ残った御門保存のため市が買い取り、2年前から工事を進めていた。総工費は約4200万円。
千歳御殿は嘉永2(1849)年、現在の富山城東側に建設された。能や学問に優れていた利保らしく、本格的な能舞台を備えた豪華な造りだった。御殿正門の千歳御門は、幅約6メートル、側面約2メートルの総ケヤキ造りの大門。東京大の赤門とほぼ同じ形式の「三間薬医門」。屋根は、北陸ならではの赤色の丸瓦と平瓦を交互に並べる「本瓦ぶき」。
御殿は安政2(1855)年の大火で焼失後、一度は再建されたが、明治の廃藩置県に伴い取り壊された。その際、御門は、富山市米田町の赤祖父家に売却されて移築されたため、富山大空襲による焼亡を免れた。
移築工事に携わった上野幸夫・職藝学院教授は「富山城址一帯は富山の文化が発信できる場所になるだろう」と話している。【青山郁子】
毎日新聞 2008年7月18日 地方版
(以上、転記終り)
投稿: やいっち | 2008/07/19 12:40