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2007/07/19

創作を巡るエッセイあれこれ

 久しぶりに、「創作の世界の広さ思い知る」なんて創作を巡る雑文を綴った。
 数年毎に、創作意欲が高まったり、あるいは、創作すること、虚構作品を作ることを巡ってあれこれ随想をめぐらすことがある。
 以下、旧稿から関連する雑文を幾つか抜粋してみる。

[「読者のためか、自分のためか」より]
「読者のためか、自分のためか」ということになると、恐らくは自分のために書いているのだと感じます。読者を意識はしますが、それより書いている自分の興奮度や緊張度が高いかどうかを頼りに文章を考えます。
 普通は、多少なりとも構成を考え、多少なりとも、「承」「転」を考え、「結」を考えるのでしょうが、小生は、とにかくネタだけをまず、放り出します。一旦、放り出されたネタをころころ転がしているうちに「承」「転」に思い至るというわけです。
 こういう態度・姿勢ですから、無論、プロとは縁遠いわけです。
 (中略)
 虚構は、虚構であるが故に、思いっきり自分の中の、普通は表に出せないものを出しきれる表現手段だと思います。エッセイもコラムも、どうしても己の周辺の事実や己の関わる現実から離れることは難しいわけですが、虚構の中では恋もできるし、殺人もできる。
 ある種の、数学で言う虚数的な、もう一つの生き切れなかった現実を描ける楽しみが虚構世界を作る営為にはあるような気がします。
 で、きっと、才能があれば、読者を無視したかのような勝手な所業であっても、読者を楽しませることができるのでしょうね。
 才能とは、社会性に関わるもの。エゴに徹しエゴのために為しつつ、気がついたら他者のためでもある…、それが理想であるような気がします。
                        (02/10/01)

[「心の貧しさと夢の切なさと」より]
 若い頃には当たり前だったこと、当然のことだったことが、実は、いかに当たり前ではなく、恵まれていたかということを、歳を重ねるごとに感じるわけですね。
 その最たるものの一つは、大概は、健康であり、若さであり、己の未熟さを見守る周囲の目だったりするわけです。
 緑の豊かさ、水の滴りの単純さを超えた豊穣さ。大地の恵み。土を裸足で踏む悦び。こんな自分を受け入れてくれる隣人。そもそも、生きていること自体の懐かしさ。
 なのに、酒を飲んだり、煙草を燻らせたり、ゲームに興じたり、旅に出てみたり、趣味の豊かさを誇ってみたり…、そのどれもが悪いことではないのですが、ただ、健康で生きていて、美味しい空気を吸い、水を飲む喉越しを堪能し、梢を揺らす風の囁きに目を遣り、街中や峠の道を淡々と歩き、子ども成長に一喜一憂し…、そうした些細な有り触れた営為そのものの在りがたさには、到底、敵わないような気がするのです。
 それでいて、小生の如き心の貧しい人間は、殊更に、生きられなかった世界を生きてみたいと余計な(もしかしたら不毛な)欲望を抱いてしまうわけです。
 (中略)
 虚構の世界では、満身の想いを持って、もう一つの現実世界を懸命に構築しようとする。正直に書くと恥ずかしいのですが(だから掌編を作る遊びをしていると嘯いたりしますけど)、少なくとも書いている最中は、かなり真剣です。
 とにかく最初の一行を無理矢理にでも書き出して、途方に暮れます。この、訳の分からない世界に放り出されたという感覚が好きなのです。痺れるほどに、一寸先も垣間見ることの出来ない闇の世界の危うさの中で、逡巡し躊躇し彷徨し咆哮し、やがて眼前の壁を爪で掻き削って、針をさえも通さない穴を掘り、無理にも我が身と心を通そうとする。
 ホント、ストーリーを考えてから掌編を書いたことは一度もない。その無鉄砲さが許される醍醐味を存分に味わえるのは虚構世界にしかありえないのではないか、そんな不遜な思いさえ密かに抱いてみたり。
 崖をまっ逆さまに飛び降りる。現実にはあってはならないことです。でも、書き出しの一行を放り出すというのは、崖から一歩を踏み出すことに他ならないと心得ております。後は、なるようになれ! 先のことなど知ったことか! 常識なんてクソッ食らえ! です。
 この自分だけが創作の喜びを堪能しようという姿勢は、プロには真似できない、許されない所業かもしれません。読者があって欲しい、見物人が居て欲しい、でも、とりあえず海図のない海に漕ぎ出して、波のまにまに漂う喜びは自分が最初にとことん味わっておく…。このエゴイズムなくして、何の創作だろうか、なんて、これまた密かに(でも傲慢の念を以って)思うわけです。
                       (02/10/03)


[「言葉と現実を巡って」より]
 現実の何かの事態に敏感だから言葉に神経質になるのだろうか。
 それとも言葉の意味や用法や過去に使われてきた経緯や歴史・伝統に左右されざるを得ないから人様や己の言葉、そして言語表現に示される事態に敏感になるのか。(このことを時に教養とか常識が豊かと評する?)
 ある程度、成長すると、言葉と現実を腑分けするなど至難の業。考えるとは、言語による以外に方法としてありえないような気がするし。感じたり、考えたり、思ったりする契機として、音楽や絵画や風景を眺めたり鑑賞したり、あるいは実際に作ってみるということはありえる。
 否、それ以前に、現実の経験を通して体験が深められ、世界が広がるということはありはする。
 それでも、やはりその感じ見聞きした現実は、言葉で整理するわけではないのだとしても、最終的には幼い頃から積みあげられてきた記号体系の海に親和させていくしかないのだ。
 ただ、親和した段階で多少は前より潮味の濃い海になっているだろうと、期待はしたいのだけれど。
 ところで、いわゆる現実感のある文章というのは、どういう文章なのだろうか。 きっと、本人が閉じた世界の中に安穏としたいと思っても、どこかに破綻なり破れ目があって、望んで、あるいは余儀なく未知なる世界に開かれているということなのだろう。
 その一歩極端に行けば人格的破綻に瀕するギリギリのところで、懸命に己をなんとか辻褄を合わせながら、何とか己の感じる現実を表現しようとする。
 小生にとって駄洒落というものは、言葉と現実の事態との間の齟齬の低レベルでの示唆なのだと思う。
 そう、言語というのは、常に現実と齟齬しているのだ。心象風景であれ、現実に肉眼で眺めている風景であれ、それらが言語に還元されることは勿論、多少なりとも表現されることがありえるとは思えない。
 それでいて、芸術というものが成立している。絵画などの美術もあれば、音楽もある、演劇もあれば、まさに文学もある。しかも、そうした世界も人間には現実の一端なのだ。
 例えば小説の類いはなくたって、生きていることができる。でも、それなしでは生きられない人もいる。小説が人生の代わりになるわけではない、しかし、人生をより深く感じられることは間違いないようだ。
 ここにささやかなパラドクスがあるような気がする。 つまり、小説を含めて本など必要ないという人ほどに、現に所有し活用している言語体系に(本人はそのことを認めたりしないし、そもそもそうした反省自体をしない。何故なら現実の出来事で十分に己が豊かであると感じているのだから)結果として満足している、自足している傾向にあるということ。
 そして、小説や詩や音楽などを欲する人ほど、より一層の深められ、あるいは新鮮な驚きを与えてくれる作品を求め、結果としてより豊穣なる言語体系へ成熟しようとしがちだという傾向。
 言葉や言語表現に敏感な人ほどに、実は言葉と現実の齟齬に神経を払っており、両者の裂け目の深淵に脅威しているのである。
                       (02/07/19)


[「夜 の 詩 想」より]
 軟弱だったり惰弱だったり、優しすぎる人だって、生きる以上は、生きている限りは息をする。アスファルト舗装の分厚い壁をぶち割る気力など到底ないのだけれど、それでも、何処かに透き間を探し出し、あるいは我が身を捩じらせくねらせて、重石の彼方の天を仰ごうと願う。
 きっと、そういう人は想像力が逞しくなるに違いない。失われたものの代わりは、必ず得ようとするのが生き物の常なのだから。何かが圧殺の危機に陥ったなら、その代償として他の何かを増殖させる。それが実は肥大させてはならないものであろうとなかろうと、そんなことにはお構いなしだ。そんな悠長なことは言っていられないのだ。顔を歪ませてでも、とにかく舌を伸ばして乾いた心と体のために水を得ようとする。目を皿にして何か救いの徴候がないかと必死の形相になる。髪を逆立て、神経を尖らす。
 捜しているもの、求めているものは、ユートピアなのかもしれない。恩寵の到来なのかもしれない。この世の誰にも打ち明けることのありえない、自分でも笑ってしまいそうなほどに滑稽な、でも、切実な光の煌きへの渇望なのかもしれない。そんなことがありえないと、自分が一番よく分かっている。そんなことがありえるくらいなら、そもそも、自分が苦しんだり悩んだり虐められたり追い詰められたりするはずがなかったのだから。
 神も仏も信じない。それは生煮えの世界なのだ。現に燃えている、我が家が、我が身が燃え盛っているというのに、いつの日かの恩寵などお笑い種ではないか。
 闇の世界に放り出されて生きてきた以上、闇の中で目を凝らして生きる余地を捜し、真昼のさなかに夢を見る。その人の目は、この世の誰彼を見詰めている。けれど、その人の目は、誰彼を刺し貫いて、彼方の闇を凝視している。何故なら自分がこの世に生きていないことを知っているからだ。
 そして心底からの願いはただ一つ、自分を救って欲しかったというありえなかった夢だということを知っているからだ。そうした夢が叶うのは虚の世界でしかありえないのだ。だから、この世を見詰めつつ、その実、白昼夢を見るのである。
 願うのは生きられなかった己のエゴの解放。そうであるなら、つまり叶うことがありえなかったのなら、せめて、心の脳髄の奥の炸裂。沸騰する脳味噌。
 何か、まあるい形への憧れ。透明な、優しい、一つの宝石。傷つくことのない夢。
 そうした宝石をきっと、誰でもが、遅かれ早かれ探し始めるのに違いない。そう、ちょっと、ほんの少し、探し始めるのが早かったのだ。もっと、たっぷり生きて殻でよかったのに。でも、一旦、初めてしまったなら、やり通すしかない。真昼であっても闇、闇夜であっても同様の白い闇の世界の小道を、何処か深い山の奥から渓流の勢いに押し出されたヒスイの原石を求めて、終わりのない旅を続けるのだ。
                      (02/05/08)

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コメント

やいっちゃんの書くエネルギーには、常に感動させられるよ。

おいらはもう、疲れた・・・。
恋をすると、仕事すら手につかないし。
人間が未熟すぎる。

投稿: 小太郎 | 2007/07/20 14:38

小太郎さん、頑張りすぎ?
でも、それが小太郎さんの性分なんだろうな。で、人に好かれるところ。決して、未熟ってことはないと思う。
未熟というと小生こそ。ガキものの創作が多いってことは、ガキの頃に未だに拘るものがあるってこと、つまり、その頃から成長していないってことなのかも。

投稿: やいっち | 2007/07/20 16:02

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