秀逸! 工藤隆著『古事記の起源』
『運慶は阿吽(あうん)の息で仏生む』などで触れていた工藤隆著『古事記の起源―新しい古代像をもとめて』(中公新書)を過日、読了した。
この頃、電車やバスを利用する機会が多く、車中での読書のために借りたものだが、「古事記」研究に新しい段階が到来しつつあることを実感させてくれる、実に面白い本だった。
しかも、素人の小生にも読みやすい!
← 工藤隆著『古事記の起源―新しい古代像をもとめて』(中公新書)
小生は、『三浦 佑之著『古事記講義』』などでも書いているように、「古事記」(や「万葉集」)を折に触れて読んできた。
当然ながら、解説書や研究書の類いも年に数冊は手に取るようにしている。
そんな小生には、ともすると訓古注釈学の気味になりそうな古事記研究に新生面が見られて嬉しかった。
まだまだ研究の余地がある!
再度、本書の謳い文句を転記しておくと、「著者は、無文字文化の「生きている神話」「生きている歌垣」が今なお残る中国長江流域の少数民族文化を調査し、神話の成立過程のモデルを大胆に構築。イザナミやヤマトタケルの死、スサノオ伝承、黄泉の国神話、糞尿譚などを古事記の深層から読み直す」とある。
下手な小生の紹介より、著名な方の書評が見つかったので、以下、幾つか紹介する。
まずは、古事記研究で(も)有名な三浦 佑之氏によるもので、「日本経済新聞/2007年2月4日(日)朝刊」からのもの。
「古事記の起源-書評(三浦佑之)」
「著者は、実際に始源の表現が露出している土地に出かけ、調査や採集を行なって貴重な資料を手に入れる。そして、それを「原型生存型文化」と名付け、ムラの祭式の中の歌う神話から国家の権威化を経た文字神話のい派生型に至る「神話の現場の八段階」モデルの最古層(第一段階)に置く。そこから計測して、『古事記』は第七段階に位置する新しい神話だと定義づけるのである」という指摘が印象的だ。
三浦佑之氏も語るように、工藤隆は実に行動的で、「古事記」の中に採取され纏め上げられた神話の源流を求め、中国などのアジアを広く渉猟し、今も残る神話を採取してきた。
さらに、「イザナミの死やアメノイワヤト神話に見出せる糞尿処理にかかわる文化、黄泉の国神話における死霊に対する恐れや呪いの文化など、少数民族の中に今も生きる神話を視点に、『古事記』の神話を読み直す。「古代の近代」に書かれた『古事記』の新しさを指摘し、逆に、断片的な言葉から、古層の表現や文化が掘り出される。著者には、段階ごとのモデルがきちんと設定されているので、論述に揺れがなくわかりやすい」のである。
転記文中の「イザナミの死やアメノイワヤト神話に見出せる糞尿処理にかかわる文化」についての本書の話は今は細かく説明する余裕がないが、なかなか興味深かった。
→ 三浦 佑之著『古事記講義』(文藝春秋刊)
かの三浦雅士氏による本書の書評も見つかった(奇しくも、「三浦」つながり?!):
「毎日新聞社:今週の本棚 三浦雅士・評 『古事記の起源 新しい古代像をもとめて』=工藤隆・著」(毎日新聞2007年03月25日)
「「古代、男女が集団で飲食歌舞しつつ、相互に歌い掛け歌い返す行事。本来、生産の予祝行為であり、性の開放を伴っていた」と『日本古典文学大辞典』にある」という「歌垣(うたがき)」について、本書において著者は、全く違う像を見せてくれた。
「歌垣に関していえば、予祝行為とは限らず、男女は広い地域から集まるが同じ言語で歌えるものに限り、旋律は固定、歌詞は定型、即興のための教養、技量が不可欠といった条件のほかに、配偶者を得るために公開で行なわれる長時間の真剣な歌合戦なのだから、飲食歌舞しながらなどできるはずがないという」のである。
さすがに三浦雅士氏は以下の二つの着眼点を示しておられる。
一つは、「日本民族もまた中国少数民族のひとつに近かったにもかかわらず、幸いにも漢民族の支配すなわち儒教の支配を免れ、恋歌の伝統を必須のものとしたまま国家を形成し、ついには近代化まで成し遂げたことであると著者はいうのである。伝統は、現代の象徴天皇制から短歌俳句の結社にいたるまでいまなお脈打っている。東アジア文化の基底をなすこの要素こそ、二十一世紀の世界がもっとも必要とするものではないかという」点。
← 三浦 佑之著『古事記のひみつ -歴史書の成立-』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー229) 本稿を書くためネット検索して発見した本。読みたい!
もう一つは、「『古事記』編纂者たちにとっても、歌垣の時代、神話の時代はすでに古代、<古代の古代>だったというのだ。『古事記』そのものが<古代の近代>の所産なのであり、考古学的復元が必要とされるというわけである。たとえば、歌は同じ内容を別な表現で繰り返すことを特徴とするが、現行の『古事記』は<古代の近代>の眼で編集されているため、微妙な反復を多く脱落させ原意を曲げている。あるいはまた、ヤマトタケルを悼んで歌われた四つの歌は、古くは彼岸への道が悪路であることを口実に死者と別れるための歌だったのが、<古代の近代>の手によって死者を慕うだけのものに書き変えられている、など」の点。
本書の中で幾度となく出会う言葉に、「古代の近代」がある。
そう、転記文にもあるように、「『古事記』編纂者たちにとっても、歌垣の時代、神話の時代はすでに古代、<古代の古代>だったと」筆者は強調するのである。
指摘されてみれば当たり前だが(我々から見たら、「古事記」や「万葉集」の成った時代は、<古代>だが、当時に生きた人たちからしてみれば、当時は<現代>なのである)、そうした着眼点は、つい、忘れてしまう(あるいは気付かない!)。
とにかく、「ここ十数年、『古事記』『万葉集』を広く東アジアの視点から眺め直す機運が起こってい」て、「本書はその先端にあ」る業績の一つであることは間違いないようだ。
専門家に限らず、「YamanoWeb.com ■山野浩一WORKS■ 古事記の起源」などに見られるように、広く一般において高い評価を受けているのも当然だろう。
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コメント
私もこの本、とても興味深く読んでいます(進行形)。まとまった時間がとれず、細切れの読みになっているのがつらいところです。
読み終わったら、こちらにもまた感想を書きにきたいと思います。
本のタイトル忘れましたが三浦佑之さんの古事記紀行の本、写真も多くて、興味深い発見があります。
投稿: かぐら川 | 2007/07/27 21:09
三浦さんの本は、『古事記を旅する』(文藝春秋)でした。
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kojikiwo-tabisuru.html
時代錯誤と言われるかも知れませんが、コシノクニビトである私にとって「古事記」は何を意味するのか。。。。
目に見えぬものへの告発の意識が、豊かな「古事記」の世界に遊びながらもいつも去来します。
投稿: かぐら川 | 2007/07/27 22:09
かぐら川さん、いい本に出会うってのは嬉しいことですね。また、気に入った本を他の方が褒めているのを目にするのも嬉しい。
小生も所用があって本を読む時間が取れず、外出の際の電車の中が貴重な読書空間になっています。
三浦さんの本『古事記を旅する』(文藝春秋)を教えていただき、ありがとうございます。日記の本文でも紹介している本共々、読みたいと思っています。
貴ブログで小生のサイト(記事)を紹介していただき、ありがとうございます。
投稿: やいっち | 2007/07/28 01:03