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2007/06/18

世の中は勧善懲悪じゃ済みません?!

 五月末、一ヶ月あまりを費やして、ダフネ・デュ・モーリア作の『レベッカ』を読了した。二年ぶりの二度目となる。
 読んだのは、前回と同様、『世界文学全集 別巻4 レベッカ』(大久保康雄訳、河出書房…今の河出書房新社なのか。新潮文庫でも読める)である。
 敢えて一気に読むことはしなかった。主に週末に数十頁ずつ読み進めてきたのだった。

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← 「レベッカ」( アルフレッド・ヒッチコック監督、ビクターエンタテインメント)(画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より)

 訳された大久保康雄氏や解説の瀬沼茂樹氏らの評価もだが、デュ・モーリアという作家は、イギリス文学史ではポピュラーノベリストの系譜に入るという。
 小生は前回、読んだ時、感銘が深かったし、94年の失業時代に『鳥 デュ・モーリア傑作集』(務台 夏子訳、創元推理文庫)に出会って以来のデュ・モーリアのファンである小生、その評価などに承服できないものを感じていたが、今回は納得した。

 確かにポピュラーノベルである。
 但し、スリルとサスペンスに満ちており、文学手法も古典的で、安心して読める一級の娯楽作品であることは間違いない。
(ここでは、評価の問題に深入りしない。デュ・モーリアという作家の評価については、「W DuMaurier Page 若島正 秘密の家」などを参照。)

レベッカ」という作品のストーリーについても、著名な作品だし、映画化もされているほどなので、今更、小生が下手な説明を試みる必要もないだろう。
 例えば、「松岡正剛の千夜千冊 『レベッカ』 ダフネ・デュ・モーリア」などを参照願いたい(引用文中、太字は小生の手になる):

 物語は「わたし」によって語られていく。「わたし」はレベッカ亡きあとにデ・ウィンターの後妻となってマンダレイの屋敷に来た後妻である。小説の中では、この「わたし」には名前が与えられていない。
 「わたし」は夫マキシム・デ・ウィンターに愛され請われて後妻に来たのだが、どうもマンダレイの広大な屋敷が重い。不気味なのだ。いろいろ感じるところを組み立ててみると、「わたし」は先妻のレベッカがつくりあげた空気や習慣がこの屋敷の隅々をびっしり占めていることに気がついてきた。ここには死者のレベッカがのしかかっているようなのだ。物語はこの見えないレベッカの策略のようなものを追って進んでいく。
 そこへ、とんでもないことがおこる。仮想舞踏会の翌朝、海中に沈められていたヨットから埋葬されたはずのレベッカの死体が発見されたのである。これをきっかけに「わたし」はレベッカの死にまつわる驚くべき謎の一端を知っていくことになる。

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→ 『鳥 デュ・モーリア傑作集』(務台 夏子訳、創元推理文庫)

 ここでは、引用文の太字で示した部分を俎上に載せる。
 前回、読んだ時もだが、この「海中に沈められていたヨットから埋葬されたはずのレベッカの死体が発見された」という場面から、即座にある映画を連想した。まあ、誰しも知る映画だし、この小説のこの場面を読むと、この映画を思い浮かべるに違いない(逆が成り立つかどうかは、分からないが)。
松岡正剛の千夜千冊 『レベッカ』 ダフネ・デュ・モーリア」にもあるように、デュ・モーリアの「レベッカ」はヒチコックの手により映画化された。
レベッカ」(アルフレッド・ヒッチコック(監)/ロ-レンス・オリヴィエ(演)/ジョーン・フォンテーン主演、DVD、マックスター)などで見ることができる(?)。
(小説の「レベッカ」と映画のそれとの対比もここでは扱わない。)
 言うまでもなく、アルフレッド・ヒッチコック監督で、デュ・モーリアの「鳥」も映画化されている。小生にしても二度・三度とテレビで見た。
 小生がガキの頃、テレビでは「ヒッチコック劇場」なる番組があって、家族で見ていて、小生も欠かさず見ていた:
アルフレッド・ヒッチコック館

 さて、「海中に沈められていたヨットから埋葬されたはずのレベッカの死体が発見された」という場面から連想する映画というと、(小生の場合)なんといっても、ルネ・クレマン監督作品で若き日のアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」(モーリス・ロネ/マリー・ラフォレ出演、1960年 仏・伊、ジェネオン・エンタテインメント)である。

 映画の内容はよく知られていると思うが、念のため、「懐かしの映画館近松座 懐かしい映画の世界」の中の、「太陽がいっぱい」を参照させていただく。
 アラン・ドロン演じるトムの思惑が全て成功し、「女と金を手に入れ」、「海へ泳ぎに行く2人。その頃、フィリップのヨットが買い手によって引き上げられていた。そして、スクリューに巻き付いたロープの端にぐるぐる巻きにされたフィリップの死体が現れた」…。

「太陽がいっぱい」という映画作品は、小生のような映画をあまり観ないものにも、幾度なく観させてしまう魅力に満ちている。映像も音楽も素敵だ。
 この「太陽がいっぱい」という映画の原作は、パトリシア・ハイスミスが書いていて、『リプリー』(青田 勝訳、角川文庫)である。
 そういえば、まさに原作の題名そのままにリメイクなのか、何年か前、「リプリー」(アンソニー・ミンゲラ監督、マット・デイモン主演)という題名で映画化された(この映画評については、「浅田彰【「太陽がいっぱい」から「リプリー」へ】」や「118三田会 十河進 バックナンバー 富める者・貧しき者 ●リプリーは「エイリアン」のヒロイン」などを参照)。

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← ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(アラン・ドロン主演/モーリス・ロネ/マリー・ラフォレ出演、1960年 仏・伊、ジェネオン・エンタテインメント)

 パトリシア・ハイスミス作品については、アルフレッド・ヒッチコックも映画化している。「見知らぬ乗客」である。

 作家たるパトリシア・ハイスミスはデュ・モーリアの「レベッカ」くらいは読んでいただろうか。
 では、「太陽がいっぱい」の監督ルネ・クレマンは、「レベッカ」を読んでいただろうか。
 映画「太陽がいっぱい」の結末は、原作「リプリー」とはまるで違う。
 つまり、「「太陽がいっぱい」のほうは、海に捨てたはずのディッキーの遺体がヨットのロープに引きずられて浮かび上がってくるシーンで終わるのだが、「リプリー」のほうは、原作同様、警察の追求を逃れたリプリーが、しかし、自らのアイデンティティを見失ってあてもなくさまようところで終わることになる」わけである。

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→ アンソニー・ミンゲラ監督「リプリー」(マット・デイモン主演)

 なんといっても、パトリシア・ハイスミスのリプリーは、シリーズモノであって、あそこであっさり掴まってもらっては困るのだ。
 でも、「太陽がいっぱい」のルネ・クレマン監督は主人公のトムが逮捕されることをあからさまに示唆している。その娑婆で見るイタリアの青い空と陽光の場面で「太陽がいっぱい」とご機嫌で語らせるわけである。
 コミュニストたるルネ・クレマンだからこその結末なのだろうか。
 
 ところで、パトリシア・ハイスミスは、この「海に捨てたはずのディッキーの遺体がヨットのロープに引きずられて浮かび上がってくるシーン」を書く際に、デュ・モーリアの「レベッカ」をまるで脳裏に浮かべなかっただろうか。
 小生には、チラッとか(それともむしろ、相当に明瞭に)作家の脳裏に浮かんだものと思う。
 だからこそ、決して「海に捨てたはずのディッキーの遺体がヨットのロープに引きずられて浮かび上がってくるシーン」で小説を終わらせることなく、シリーズものに仕立て、デュ・モーリアとは違う作家的探求を続けていったのだろうと思われるのだ。
 作家的資質と映画監督の資質との違い?
  
 パトリシア・ハイスミスについてもっと知りたい方は、作品を読むのは無論として、「活字中毒者の手探りサイト」の中の「パトリシア・ハイスミス(Patricia・Highsmith)」なる頁がいいかも。


[本稿は6月2日に、「今年は国産盲導犬50周年」を書きあげた後、翌日の分として書いていたもの。が、ある事情があって、翌三日には「「筆が立つ」から「弁が立つ」へ」をアップさせている。いわば、没原稿というわけだ。
 何ゆえ没にしたのかは瑣末なことなので、機会があったら理由を書くかもしれない。一言で言えば、この原稿を書いた二日の時点では、パトリシア・ハイスミスの『リプリー』を未だ読み終えていなかったから、ということに尽きる。
 かく言う小生、今はジョージ・エリオットの『ロモラ』に二度目の挑戦を挑んでいるところ。さすがに読み応えがある。同時に、ああ、やっぱり女性が書いたんだと読み始めてすぐに気付かされた。一ヶ月ほどかけて、じっくり読んでいく積もりだ。
 それにしても、昨日今日と忙しい。
 外出の機会が増えて気持ちが落ち着かないよ!(06/18アップ時追記)]

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