「筆が立つ」から「弁が立つ」へ
先週、長大な日記風のレポートを書きあげ、「誰か一人くらいはコメントを呉れないものか。期待薄?」と、溜め息のように呟いたら、実際、全く、コメントがなかった。
虚脱感…。
ふと、そういえば、そんな空虚感、徒労感のようなものを覚えたことあった…、で、何か、ついでなので意味不明な駄文を綴ったことがあったな…と、探してみたら、あった!
それは、「03/10/07」の日付があり、書きあげたのは間もなく夜の11時になろうとする頃合のもの。
原題は、「暇だったわけじゃないが…「筆が立つ」篇」とある。
別に、「暇だったわけじゃないが」がテーマでシリーズがあったわけではないが、何故か、「「筆が立つ」篇」なのだった。
← 立っている画像を探したら、これしか見つからなかった。一昨年師走、お台場フジテレビ広場脇を通りかかった際に撮ったもの。一体、何が立っている?
まあ、何故にでは、かの雑文を思い出したかの理由は、当該の文章の冒頭に書いてあるので、これ以上の説明は屋上屋を重ねることになろう。
それにしても、昨今は「筆が立つ」という表現はあまり使わないのだろうか。この言葉でネット検索すると、小生のサイトが上位に来る。
なんだか、凄いようだが、そもそもネット検索の結果件数自体が数百件。
さて、カテゴリーで「旧稿を温めます」とした雑文、以下に掲げるけれど、如何なものだろう。
「暇だったわけじゃないが…「筆が立つ」篇」
昨日だったか、何故かふいに筆が立つという言葉が浮かんできた。説明するまでもなく、「文章を書くことが巧みである」という意味だ。
多少なりとも、文章を書くことに関わっている者は、お世辞でもいいから、たまには「筆が立つ」と言われたいものではなかろうか。小生も、そんな気持ちがないといえば、嘘になる。
しかし、それにしても、何故、不意にこんな旧弊な表現が浮かんだのだろうか。それも、タクシーでの営業の最中に。思い出す限り、こんな言葉を浮かべる脈絡など、まるでなかったはずである。
あるいは、土日の連休で、「味の素スタジアムでのサッカー」と「立川サンバカーニバル」に観戦ないし見物に行き、早速その夜のうちに、それぞれについて小生としても比較的長文のレポートを書いたので、しかも、他にも前後して雑文を三つほど書いていることもあり、ああ、我輩は文章を書くのが好きなんだな、内容の是非や充実振りはともかく、ホットな形で見物記などの文章を関係者に提供できるってのは、素晴らしいことだな、オレはやるだけのことはやってるんだな、といったささやかな自負の念があるからかもしれない。
それ以上に、誰も褒めてくれるわけではないので、自分で自分を褒めるしかない、そんなちょっと侘しい思いが燻っていたりしていて、そんな思いを脳味噌の奥のほうで留めておくことができず、つい、ポロッと「筆が立つ」という黴が生えているかもしれない表現かもしれないけれど、でも、自分が密かに思っているだけなら、使ってもいいのかなと、ええい、使っちゃえとばかりに意識の奥の何処かで何かが囁いていたのかもしれない。
しかし、筆が立つというのは、文字通りに読むと、なんだか変である。
そもそも筆が立つはずがないではないか。
それとも昔の筆は、そんなに太く逞しくて、毛先も豊富なら、先が反り返っていたりして、筆先で筆を立てるほどに見事なものだったのだろうか。悲しいかな浅学非才な小生に、これ以上の薀蓄を披露することは出来ない。
まあ、考えてみたら、常に筆を使っていて、筆が横になる、寝ている状態になる暇がないほどに使われている、だから、筆の立っている状態が常態であるという意味で、筆が立つという表現が、いつしか、文章が巧みであるという意味に変貌していったのだろう(か)。
なるほど、好きこそ物の上手なれであって、日々、あれこれ浮かぶ良くないことをとにかく後先も考えず、まして深く考えることもなく、ひたすら書き綴っていくなら、量は質に転ずるの喩えもあって、いつかは筆を常時使いこなす者は、遅かれ早かれ文章を書き綴ることに秀でるに違いないという意味も含意されているのかもしれない。
でも、文章を綴ることに秀でるかもしれないというのは、やはり希望的観測であって、実際、小生は量はかなりな程度に書いているけれど、上達したという実感も、ましてそんな評価を貰ったことがない。量が質に転じるなどというのは、真っ赤な出鱈目であることは、小生が立派な証拠である。まあ、そうなったらいいな、という希望的観測、願望ってことなのだろう。
さて、せっかくここまで書き散らしてきたのだから、「筆が立つ」という表現を小生流に穿って解釈してみたくなる。古来、武芸も芸術も男の世界のものだった。女などには近寄らせない、マンダムの世界だった。
つまり、小生は、この「筆が立つ」という表現には、暗黙のうちに、しかし、そのわりにはかなりあからさまに男の世界ということが了解されているのだと思う。
そもそも筆など立つはずのないものである。
が、男なら分かるだろうが、男には何故か自然に筆が立つことがしばしばある。そう、男には筆というのは、立ってしかるべきものなのである。時には、その気があろうがなかろうが、相方から立つことを余儀なくされるものだったりする。下手すると、筆に小突き回されたりもする。先立つものはなくても、筆は先立ってばかりであって、あちこち場所柄も弁えず勝手放題に突っ張らかる、そんな筆先に難儀したりする。あるいは、立たなければならないのに立たない…、そんな苦い経験のない男はいないのではないか。
先立つ不幸をお許しくださいとは、親当ての遺書などに書く言葉だが、時に男は女性相手に密かに「先立つ不幸をお許しください」と呟きつつ、「あああ、ぐふ!」と呻き先立ってしまうのだ。
だからこそ、筆が立つという表現を聞いたり目にしたりすると、男は、誰しも男の哀愁・哀歓・誇り・歓喜の入り交じった複雑な感懐を抱くのである。
女などにその曰く言い難い世界が分かってたまるものか、男心は男でなければ分かるはずもないなどと、つい、頑固になり依怙地になり、ついには突っ立ったまま横になる能もなくなり、いつしか筆先から墨の一滴も迸らなくなり、或る日、枯れ果てひび割れの目立つ竹の棒っ切れとなり、どてーんと倒れるのである。
「腕が立つ」という表現も、腕が、ある意味で広い意味での筆であり、技量などを含意していると同時に、腕というのは、当然、一物をも示唆しているわけで、「腕を鳴らす」とか、「腕をのす」などといった表現も含めて考えると、学芸においても武芸においても、古来より女性の付け入る余地は少なかったのも、無理はないのかもしれない。
無論、全ては昔の事情に過ぎないことは言うまでもない。旧弊な美学は、「筆が立つ」という表現が廃れると共に、古(いにしえ)の夢と潰え去ったのだろう。
この「何々が立つ」という表現にはヴァリエーションがある。
生憎と、手元には逆引き事典(辞書)なる便利なものがないので、思いつくままに列挙していくと、「腕が立つ」「弁が立つ」「腹が立つ」などがある。
が、最後の「腹が立つ」というのは、ちょっと用法が違うようだ。アトランダムに挙げると、こうなってしまう。
「腕が立つ」というのは、「すぐれた腕前・技量を持っている」と広辞苑には説明してある。これは、「筆が立つ」に準じて理解できそうなので、もう、これ以上は触れない。
「弁が立つ」というのは、「弁舌が巧みである。雄弁である」と広辞苑には説明してある。
ところで、昨日、「筆が立つ」という表現が浮かんだ時、「立つ」流れで連想したのは「弁が立つ」だった。が、その「弁」が最初はすぐに浮かばず、ちょっと焦った。ああ、こんな有り触れた句さえ小生は漢字が出てこないのか、と結構、マジで悩んだものであった。
実を言うと、「弁が立つ」が出てこなくて、最初は「便が立つ」が浮かんでしまったのである。
「弁」の代わりに「便」。
これは、あんまりだ。タクシーの中で小生は赤面してしまった。しかも、その瞬間、後ろにお客さんをお乗せしていたのだ。
こんな時、タクシーをやっていてよかったと、つくづく思う。真っ赤になった顔がお客さんからは見えないからだ。
それにしても、「便が立つ」。便が筆のように立ったら怖い! 余程、腸内で長く長くトグロを巻いていたに違いない。
しかし、それでも体外に押し出されたなら、やはりそこはそれ、便だって身の程を弁えて、今度は大地にトグロを巻けばいいもののはずである。
なのに、オレは今まで腸内で長らく放置され、惰眠を貪っていたのだ、それをオレ様に断りもなく勝手に外に押し出しやがって、などと依怙地になって便が立ってしまったら、その便がお尻に突き刺さってしまう恐れだってあるし、いろいろ悲惨な事態が待っていることになる。
そう考えると、「便が立つ」というのは恐怖すべき事態を表現すべき言葉として、これから使われる可能性もある……はずがないね!
(03/10/07 22:48)
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