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2007/05/17

喫茶去が茶飯事なれば嬉しいね

 昨日、水曜日は営業の日。いつもと同様、車中では空車の間はラジオに耳を少し(!)傾けている。
 昨日、珈琲(アイスコーヒー、略して冷コー、現代風に略すなら、アイコー?)の話題を少々、書いた。だからだろうか、「茶番」という言葉が耳に残った。「茶飯事」だったかもしれない。一応は、仕事の最中なので、ハッキリとは聞けなかった。
 まあ、いい。
 根が単純だからなのか素直なのかしらないが、珈琲からお茶の話題へなら、なんとなくつながりもあるし、せっかくだから(何がせっかくなのか、自分でも分からないが)、お茶の話題を今日は採り上げようと思った。
 といって、小生、風雅でも風流を解する人間でもない。茶の湯なんて縁遠いこと、甚だしい奴である。

 そう、今だって、ペットボトルのお茶を何故かコーヒーカップに注ぎ、電磁レンジで暖めて、ちびりちびりと喫しつつ書いている始末である(台所のヒーターが壊れているので、お湯を沸かせない、ポットはあるものの、お茶葉(ちゃっぱ)を使うと、生ゴミが出て後の始末が面倒、などなどの故に、安易にも自宅でもペットボトルのお茶のお世話になるばかりである)。
 営業中も、町の食堂に入る余裕がなくて、ペットボトルのお茶で「茶腹も一時(ちゃばらもいっとき)」ってことも、まま(しばしば)ある!

 余談だが、小生、外出の際は、夏場は冷たい飲み物(主にお茶)を飲むが、自宅では夏の真っ盛りでも、ホットの飲み物と決めている。
 その理由は、拙稿「麦茶…喫茶去」の冒頭付近に書いている。

 今日は、あくまで、お茶の周辺、そう、机か床に零れたお茶の染み程度をあれこれ探ってみる。

 お茶と聞いて、真っ先に「茶番」という言葉を連想する人ってのは、世の中にあまりいないのではなかろうか。
 でも、皆無でもあるまい。現にここにいるのだし。
 ここに一人、いるってことは、広い世間にはあと、二人か三人は同好の士というか似たものがいるはず(だと期待する)。

 ネットの頼もしい味方「くろご式 慣用句辞典」によると、以下のように説明されている(「慣用句辞典 ちつ~ちゆ」参照):

茶番(ちゃばん) 1.茶の接待をする人。2.手近な物などを用いて行う滑稽な寸劇や話芸。 ★江戸時代、芝居の楽屋で茶番の下回りなどが始めたからという。<大辞林(三)> 3.底の割れた馬鹿馬鹿しい振舞い。 類:●茶番劇 例:「とんだ茶番だ」

 幸いにも、「慣用句辞典 ちつ~ちゆ」なる頁には、「茶化す」「茶々を入れる」などから「茶坊主」「茶目」「茶を濁す」「茶を挽く」などと、それぞれ気を引く言葉が載っている。
 
 でも、昨夜、お茶に関連する言葉ということで、「茶番」のほか、「(日常)茶飯事」を思い浮かべてしまったのだが、この言葉はここには載っていない。まあ、「さはんじ」なのだから、当然なのだが。
 ちなみに、「茶飯事(さはんじ)」とは、「茶を飲み飯を食うように、珍しくもない日常普通のこと。ごく有り触れたこと。また、日常行っている容易いこと」だという。
(小生、うっかり、「さじ」を「茶事」と書きそうになった。仮名漢字変換されないので、出来の悪いパソコンだなと思ったら、「些事」ないしは若干意味が違うが「瑣事」と表記するのだった。小生の頭の中で、「茶飯事」が勝手に簡略化されて「茶事」という言葉が出来上がってしまいかけていたようだ。これじゃ、パソコンも匙を投げるね! 但し、「些事」などの意味合いでは「茶事」とは表記しないが、「茶事」という言葉は、これはこれで厳然として存在している。)

 それにしても、お茶に関連する言葉は、愉快というのか、軽いというのか、滑稽というのか、一言で言って「剽軽(ひょうけい)」な言葉が多いのは、何故だろう。
 お茶の人徳ならぬ茶徳というものなのか。
 それとも、まさか、かの大物喜劇人の加藤茶氏の人徳が茶関連の言葉に影響を及ぼしている…ってことはなさそうだが。
 でも、この「ちゃ」っていう名前は、親しみを持ってもらうには、格好の選択だったということかもしれない。本名の加藤 英文(かとう ひでゆき)では、売れるかどうかは別にして、コメディアンには向かない(かも)。
 尤も、「茶化す」は当て字だというのだが。

 さて、小生が昔から疑問に思っていたことがある。
 それは、「御飯茶碗」という言葉。御飯を食べる碗なのだったら、御飯碗でいいではないか。どうして、「御飯茶碗」と、間に「茶」が入るのか。
 それとも、茶碗にいろんな種類があって、その中の一種として茶碗があったということなのか。
 ってことは、昔は、御飯をよそう専用の碗などなかったということなのか。

 念のため、「茶碗 - Wikipedia」を覗いてみる。
 すると、冒頭に、「茶碗(ちゃわん)とは、元々は磁器で作られた喫茶のための食器である。喫茶の普及と共に「茶碗」という言葉も広まり、喫茶用途以外の磁器も指す磁器の代名詞として使われた」とある。
 やはり、推測は当っていたようである。
 だからこそ、「現代日本では通常、「お茶碗」と言った場合、飯茶碗を指す」ということに相成ったわけであろう。

 尤も、違う疑問も生まれる。湯呑み茶碗あるいは喫茶の普及で「喫茶用途以外の磁器」、つまり、ここでは「お茶碗」が「飯茶碗」を指すようになったのは、(「ご飯を食べた後その茶碗で茶を飲むと、茶碗にこびりついたご飯を残らず食べられるため美徳とされた」こともあり)一応、納得するとして、では、そもそも御飯を盛っていた器は、それまでは何と呼んでいたのか。
 まさか、米櫃から直接、手にとって食べたわけでもないだろうし。

 ここまで書いてきて、ネット検索していたら、「御飯茶碗と箸と日本」と題した文章を見つけた。おお、これは格好の情報源になるかと思ったら、拙稿だった!
 読み返してみたら、結構、我ながら面白い考察を加えている。本稿の参考にはまるでならないけれど(「箸」については、二ヶ月前、「箸のこと端までつつき橋架けん」で扱っている)。

 さて、駄文だけに迷走も甚だしい。茶番に戻る。この言葉には、「手近な物などを用いて行なう滑稽な寸劇や話芸」という意味もあるとは、上述したとおりである。
 尤も、「目論見(もくろみ)などがすぐにばれてしまう、底が割れた馬鹿馬鹿しい振舞い。浅はかで見え透いた行ない」といった意味合いもある。

 それにしても、お茶は味もいいけど、香りもいい。嗅ぐと、脳に栄養が行き渡って活性化するような気がする(機がするだけだが)。茶番劇をうまく演じられるなら、芸達者ということになるのだとしたら、文章だって、番茶や煎茶を喫しながら、うまく書き連ねたら、立派な茶文になりえるのだろうけど、これは、なかなか難しいようである。
 やはり、小生は茶事は避けて通ったほうがよさそうである。

後欄無駄]:
 アイスコーヒーにちなみ、冷えたお茶ということで、お茶の作法や喫し方を伝えたとされる栄西禅師麦茶などを扱った拙稿に「麦茶…喫茶去」がある。「喫茶去(きっさこ)」という言葉、あるいはもてなしの心は素晴らしい。
 茶の湯については、拙稿に「「茶の湯とキリスト教のミサ」に寄せて」がある(あるいは、「茶の湯とキリスト教と」など参照)。

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