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2007/05/07

君の貞節堅固は、松や柏と同じである

 小生の郷里の家の奥座敷には欄間額が掛けられている。
 いつの頃から掛けてあるのかは、分からない。
 その存在に気付いてからだけでも、三十年以上。
 物心付いて時にはあったのかもしれない。

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→ ドナルド・キーン著『渡辺崋山』(角地 幸男訳、新潮社)

 欄間額とは欄間に掛けられている横長の額で、和額とも呼称するらしい。
 事例などは、右記サイトを見て欲しい:「日本画 欄間額、和額 (20-50%OFF) 御表装処 御子柴

 その前に欄間とは何かを示しておく必要があるだろうか。
 今は欄間がテーマではないので、「欄間 - Wikipedia」を参照させてもらう。
 一部だけ、転記する:

欄間(らんま)とは、天井板と鴨居の間の空間のこと(障子や襖と天井までの空間)。明かり取りや換気などに用いられるスペースである。古くは平安時代の絵巻物にも原型が見られる。ここに格子や障子、透かし彫りの板をはめて装飾を施したことから、転じて装飾板自体も欄間と呼ばれる。

 郷里の欄間額は、奥座敷と隣の仏間との境となっている欄間に奥座敷を見下ろすようにして掛けられている。

 その欄間額は、「書」のタイプのもので、何度も眺めたはずなのに記憶が曖昧で正しい表記は定かではないが、「竹柏喩貞固」とあったか、それとも「竹伯兼貞固」だったか。
 それこそ、十数年の以前、父にこの意味は何かと尋ねたことがあった。
 竹や柏は……貞節の固さのように……。
 要するに、どんな説明だったか、忘れちまったのである。
 
 まして誰の言葉なのか、誰の手になる書なのなど、まるで分からない(尋ねていない、そもそも疑問が浮ばなかったような気がする。一言で言うと、興味を抱けなかったということか)。

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↑ これは「書」の欄間額。このほか、金箔、花、小鳥、富士、山水などなどがある。ちなみにこの画像は、郷里の家のものではない。「日本画 欄間額、和額 (20-50%OFF) 御表装処 御子柴」を参照のこと。

 さて、唐突にこんな自分でもまるきり意味も典拠も書をモノした人物も分からない欄間額のことを話題に持ち出しのには訳がある。

 小生、先週末から、ドナルド・キーン氏著の『渡辺崋山』(新潮社)を読み始めている。
 この前は、最相葉月氏著の『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)を読んできていて、読み応えがあって感銘を受けたものだが、その興奮冷めやらぬうちに、また好著を手にすることができて、実に嬉しい。
(ちなみに、増山麗奈氏著『桃色ゲリラ ― PEACE&ARTの革命』(社会批評社)も読み始めている。この本というか、著者の行動力は呆気に取られるほどだ。感想文を後日、書くかもしれない。彼女、今でも十分、行動力があって徐々に名前が売れつつあるが、このまま持ち前のパワーとエネルギーを持続できたら、ひとかどの人物になるに違いない!)

 実は、昨夜というか今日の未明、ドナルド・キーン氏著の『渡辺崋山』(角地 幸男訳、新潮社)を読んでいたら、まさに上掲した言葉の典拠らしい漢詩に出会ったのである(似て非なる表現に過ぎない可能性を排除しない!)。
 参考のため、当該の漢詩を転記する(但し、表記の都合上、「ハ」は表示できない漢字であることを断っておく。また、()内はドナルド・キーン氏による訳):

 世上の群ハ暖風に酔う 江頭唯見る独り醒むるの君
 誰か憐む一樹雪霜の後 貞固正に兼ぬ松柏と同じ
(世間の花々は暖かな微風に酔っている/しかし、大川のほとりで独り醒めている梅よ/君が雪と霜とにさらされても、誰一人として憐れみを示す者はいない/君の貞節堅固は、松や柏と同じである)

 無論、この漢詩は渡辺崋山の手になる物。
 崋山の政治上の宿敵であり崋山の若き日の志を頓挫させた憎い相手である、村松六郎左衛門が藩地に帰るにあたって、彼のたっての所望で、已む無く餞別として一服の画(墨梅図)を描き、相当に憤懣やるかたない思いを篭めた一文を寄せ、さらに画に自讃を書き入れた。
 上掲の漢詩は、その崋山の自讃なのである。

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← 我が家の奥座敷に掲げてある欄間額。08/05/13撮影!

「相当に憤懣やるかたない思いを篭めた一文」がまた崋山の複雑な胸中を物語っているので、本文を示したいところだが、キーン氏の訳文を転記しておく。請う、崋山の断腸の思いを察するを:

 わが藩の村松太夫は、高尚の士である。書を読み、詩に優れ、私とは古くからの馴染みである。江戸を離れるにあたり、私に画を求めた。私は近来、怠惰となり、一日杯を挙げては何もせずに過ごしている。そのため我が貧困は以前に増してひどい。一日に一杯の水を汲み、五日に一つの石を拾う。そのため、要請にはすぐに応じ兼ねた。年の初めに、少し酒を飲んだ後に、この画を描いたので捧げることにする。これが餞別である。酔後に筆にまかせて描いたので、粗俗のそしりは免れない。いわゆる班門斧を弄するの類で、身の程知らずと言われても仕方がない。正月朔六日

 このとき、村松は凱歌を挙げている。郷里の藩へは凱旋である。政敵の崋山を振り切って政争に勝ったのである。その負けた崋山に画を所望する。崋山の傷口に塩を塗りこむような真似をしたのである。
 崋山は政敵である村松に負けた口惜しさだけではなく、若き日に、崋山には生涯取り組んでいくと決めた画への道を一度は頓挫させた当人が村松だという思いも蟠っている。
 崋山は村松になど好きな画を描きたくはないのだ。けれど、立場上、嫌だからといって断るわけにはいかない。先延ばしした挙句、酒の勢いを借りて、書きなぐったのであろう。
 しかも、あからさまにではないが、恨みつらみの念を篭めた一文も添えた。上掲の自讃も皮肉たっぷりなのだ。
「君が雪と霜とにさらされても、誰一人として憐れみを示す者はいない」! そこまで言うか。しかも、「君の貞節堅固は、松や柏と同じである」! これは村松が人の情を解さない、血も涙もない木石だと罵っている言葉だ。

 崋山の画への執心ぶりについては、有名な逸話がある(「渡辺崋山 - Wikipedia」など参照):

1835年(天保6)、画家友達であった滝沢琴嶺が没し、崋山は葬儀の場で琴嶺の父・滝沢馬琴にその肖像画の作成を依頼された。当時、肖像画は当人の没後に描かれることが多く、画家はしばしば実際に実物を見ることなく、やむを得ず死者を思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆もそうなる予定だった。ところが崋山はそれを受け入れず、棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込み、さらに火葬された後に琴嶺の頭蓋骨を観察してそれをスケッチしたという。

 さて、郷里の欄間額の言葉の典拠が崋山なのかどうかは分からない。そもそも、欄間額の言葉は達筆で、父の説明にも関わらず(何しろ十数年の昔の説明だし)、文意はともかく、表記そのものを誤読している可能性も捨てきれない(ああ、素養のないのは、どうしようもない)!

 ただ、言葉として、字面が「貞固正に兼ぬ松柏と同じ」だったとしたら、その理解は小生が思っていたような、清々しいものではなく、もっと怨念の篭った、ドロドロした、ものと思わないといけない。
 まあ、そのほうが人間臭いし、親しみが持てる。

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→ 芳賀徹著『渡辺崋山―優しい旅びと』(朝日新聞社 1986年)

 実際、本書ドナルド・キーン氏著の『渡辺崋山』を中途まで読んできて、一層、崋山が実に人間臭い人だと分かってきた。一方では儒学を至上とし、父を鏡とする謹厳実直な人物。
 その実、女遊びもするし、酒が好きだったかどうかは別にして酒の席は大好きで、旅に出れば(旅するのが好きなのだ)道の途上で達者な腕前で各地の風景や村や人を描き、止まった宿では、宿の主に地元の漢詩や俳句や書画その他の嗜みのある人物を呼び集めてくれと頼み、集まった人たちと徹夜で語り踊りを楽しみ、歌い、酔い潰れる。
 政治には関わりたくない。藩の枢要な役職には就きたくないと思いつつも要職を命じられ、好きな画を楽しめないと歎き、旅の道すがら、海外の圧力をひしひしと感じ、根の真面目さで国防の案を練る。

 崋山の人柄や画の卓抜さ、同時に画の人間味については、以前、芳賀徹氏著の『渡辺崋山―優しい旅びと』(朝日新聞社 1986年)を読んだ際に、拙ブログでも採り上げたことがある(「サンタさん担ぐ荷物は本がいい?!」参照のこと。
 本書『渡辺崋山』を読んで、画のみならず、ますます崋山その人が好きになった。

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コメント

ようやく、我が家の座敷の欄間に掲げられている額の画像を載せられる!
「竹柏喩堅貞」と書いてあるようだ。

投稿: やいっち | 2008/05/13 09:58

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