桃色の夢見るごとく花盛り
「桃色のゲリラ眠れる我起こす」の中で、小生は以下のように書いている:
「ART LAN@ASIA~アジアの新☆現代美術!!」で示される、数々の作家の参考作品をクリックして拡大し、つらつら眺める。
うーむ、である。→ 4月23日、都内某公園で見かけた色とりどりのツツジ。
うーむ、というのは、今ひとつ、ピンと来ないものがあるって意味があるってこと。
小生、最近は事情があって、足が遠退いているが、美術展(画廊巡り)の経験は少なからずある。行けば必ず図録を買う。画集を買うのはあまり好まない小生だが、展覧会の図録は可能な限り購入しておく。
当然、本物を観ての印象と図録の画像(写真)とは印象が違う。
大概は、本物を目の前にしての印象が図録を見ての感想を圧倒するはずだが、中には図録で観たほうが小生の脳裏の何処かを強く刺激する場合もあって、なかなか一筋縄ではいかないものがある。で、まあ、「ART LAN@ASIA~アジアの新☆現代美術!!」で見ての印象からすると、現物の作品のパワーやエネルギー、当然ながら作家の勢いといった点で、今ひとつかなと、過去の経験からして察せられてしまうのである。
わざわざ足を運ぶに価するのか否か。
アジア各国(主に中国や韓国、日本のようだが)を探せば、もっといろいろなアーティストやパフォーマーが居るはずと思うのだが、必ずしもその現に勢いを持っている才能の尖がったアーティストが見出せているとは言い難いのではないか…。(中略)
ちゃんと読めよ、書いてあるじゃん、だが、こうしてあちこち覗きまわっているうちに、次第に勘の鈍い、血の巡りの悪い小生も、ようやく彼女の凄さ、行動力を頁(サイト)を通じてだが、感じられてきたのである。 大切なのはパワーであり、勢い。 技術的なものは、小生は何も分からない。現に今、活動しており、しかも、表面的なピンクっぽさの裏の、というか、単なるピンク色に留まらない、観るものに訴えかける何かがあるかどうかなのである。小生は、美術展に実際に足を運ぶ機会を最近は持たなくなっているが、それは経済的な事情もあるし、時間的な事情もあるのだが、最近の美術館が敷居が高いように感じられてならないのである。
あまりに美麗な建物。瀟洒だったり豪華だったり。明るかったり、綺麗な公園の中にあって、緑も適度に配されていて、フロアーはピカピカで天井も真っ白で、光が溢れていて、無論、作品の展示の空間は光度を調整されているのだが、しかし、芸術作品があまりにうまく収まり過ぎている。
それこそ、街中の綺麗なレストランや大企業の待合室かエントランスの壁面に自慢げに掲げられている大作・名作。当然、額入り。うまくは言えないが、作品が、頭髪を七三に刈られて、牙も抜かれて、猫なのか虎なのか分からない、優しい展示物に成り果てている。
美術館も、糸の解(ほつ)れた上着や、擦り切れたパンツ、踵の縒れた靴、久しく床屋に行っていないボサボサの頭の小生では、気分的に門前払いを食らわされているようで、自然、足が遠退くのだ。
絵画にしろ彫刻にしろ、自宅にいながらのように気軽にとはいかないにしろ、もっとラフな格好や気持ちで、寛いで、あるいは作品に立ち向かうような気持ちであってもいいのだが、外見など気にせずに対面できるような雰囲気が皆無に近くなっている。
美は美である。が、美は時に危険なものだったり、誘惑の匂いがあったり、悪の匂い、性や肉体や血の匂いが漂うようなもんではなかったのか。
現実の生々しさが浄化されて高尚な美になった…といった作品もあっていいのだが、しかし、人が人に心で対面するような、鬼気迫ったり、逆に心を寛がせてくれたりする雰囲気だけは望むべくもない(気がする)。それ以上に、小生は美は何処に潜むか分からないものだと思ってもいる。
それこそ、路上に、地下道の壁面に、何処かの芝居の書割に、児童の悪戯書きに、トイレの個室の落書きに、何処かの家の風雪に磨り減った雨樋(あまとい)や板壁に、朽ち果てた木の折れた枝の尖がりに、風に吹き寄せられた路肩の枯れ葉に、ゴミ箱から溢れた雑貨の哀れな末路に、花道を歩くスターを見上げる観客の目線に、場末の映画館の掠れ始めた看板に、電信柱の電線に絡まったハンガーに、駅舎の屋根裏のハトの巣に、床に散ったフンに…、そういたるところに転がっている。
爛れた、あるいは磨きぬかれた肌。汚れた布団、捨てられた枕、壊れたブラウン管タイプのテレビ、まだ使えそうなラジカセ、洗面器、誰も見ていなかったら拾い上げ、洗って使ってみたくなるタオル…。
要は現に生きている美、現に死につつある美、現に描かれつつある美、現に生まれつつある美、現に見捨てられ忘れられつつある美こそが今、欲しい。
こうしたその他大勢的な美は消え去るし忘れ去られるし、とっくの昔に見捨てられている。
あるいは形に成らない、成っても歪な美、もどかしい美、曖昧な美、意図は(コンセプトは)優れているが、頭でっかちの美、試行錯誤の過程の水子に終わる定めの美。
そういったものを小生なりに拾い上げたい、見出したい、探したいのである。← 4月23日、都内某公園で見かけた八重桜。ピンク色の花びらの華やかさが優しげで眩しい。逆光で撮ってゴメンね。
さて、そんなものがあるのかどうか。
否、あってほしいし、あるはずなのである。
過去の大作も、その都度、誰かが作ったものであり、誰かが賞賛し残そうと図ったもののはず。
人間の美への欲求は、快への、楽への、あるいは倒錯した苦や醜への欲望は尽きるはずがないと信じる。
現に今も美は生まれつつある。
その現場へ、現場が無理なら、生まれた直後の展観や披露の場に際会したいのである。
キュレーターや美のプロデューサーって、過去の遺産としての美の数々を新たな視角・視点から見直させてくれるとか、未だあまり知られていない作家や作品を発掘し、世に知らしめてこそ、機能するはずの存在。
とにかく、未知の美を快を、手垢に塗れていない原石を発掘してもらいたいものである。
こんなことを書くというのも、美術展、それも、未知の作家(アーティスト)らの作品展へ足を運ぶ際には、期待の念と共に、これまで幾度となく失望させられたという苦い経験もあってのことである。
新しい作家、現に生まれつつある作品というのは、当然ながら定評はないわけだし、第一、見慣れていない。
既に一定の評価を得ている作品でも、実物を見て、あるいはその前に図録や書籍や雑誌や噂で情報を得て、次第にその作品世界に感情移入していく、その結果として作品の評価に至る場合がある。
抽象表現主義の諸作家・諸作品、生の芸術(アール・ブリュット)の諸作品などは、本を読み、あるいは画廊や美術館に赴いて、何度も対面するうちに馴染んできて、気がついたら好きになっていたという経緯があったりする。
それが新しい作品や作家となると、偏見や警戒心などなく、素直に作品の放つ輝きや魅力を受け入れればいいのだが、つい、どこか身構えてしまうようなところが自分にはあったりする。
人見知りというのか、作品見知りしてしまうのか。
実際、現に生まれつつある作品の圧倒的大多数は時の流れという闇の海の潮流に流され、恐らくは二度と相見(まみ)えることもなくなってしまう…。
多くは、枯れ、風に散っていく。あれほどサクラ、サクラと騒いでおきながら、散る光景を美しいとかなんとか囃し立てておきながら、いざ散ってしまって、路上の隅っこに吹き黙ってしまったりすると、車に、自転車に、人の足に踏みつけにされ、風に吹き飛ばされ、ゴミとなり、掃き集められ、街中からは姿を消し去っていく。
元の綺麗な町並みに還ってしまう。
サクラが咲いていたことさえ、忘れ去られる。
作家が熱気と興奮とインスピレーションと修練とで描いたり形に仕立てた美の塊。
思い入れと批評と反発と主張の塊。
こんな感懐を抱きつつも、そんな感懐を抱く自分を情けなくも思ったりする。
所詮は美は人が感じ取るもの。あるいは誰かが創出するもの。
そう、実は、美術展で物足りなく感じていたのは、展示されている作品などに対してではなく、むしろ、自分の貧相な心、感受性に対してだったと次第に気付かされてきたのだった。
たとえ、美を自然の風景の中に感じ取ったとしても、感じ取っているのは人間であることに間違いない。犬が嗅覚で、鳥が視覚で、それとも聴覚で感じ取る世界のほんの一端をでも、人が想像するのは困難であろう。
美を美術館に見出すと、どんな名作も出来合いの、既成の価値をなぞるしかできないといったところで、それはそれだけしか感じ取れない自分の鑑賞力の弱さ、感受性の鈍さ、もっと言うと、人間としてのパワーの乏しさを告白しているに過ぎないのかもしれない。
あれこれ文句は付けられても、現にキュレーターとして、あるいは自らがアーティストとしてパフォーマンスし、形に生み成すその凄みに、実のところ圧倒されているだけなのではないかと思われてしまう。
→ 5月3日、信号待ちの小生を和ませてくれるのか、分離帯のツツジたち。
自分が創造者としては、全く無能であって、せいぜい鑑賞者に過ぎず、しかも、その鑑賞さえもが、感受する心の磨耗の故か、生命力の枯渇の故か、心もとなく成り果てている、そんな惨めな現実。
そんなことを、例えば、「ART LAN@ASIA~アジアの新☆現代美術!!」の諸作品を見ながら、あるいは現に目の前でパフォーマンスする増山麗奈さんらの姿を眩しく見詰めながら感じ取っていたのではないか。
要は、創造者ではない、作家でもパフォーマーでもない自分が、アーティストたる増山麗奈らに嫉妬しているだけなのではないか。
どこか、負け犬根性のようなものが自分の中に沁み込んでしまっているのではないのか。
音楽にしろ絵画にしろ彫刻にしろ詩や小説にしろ、それこそ銭湯や芝居小屋の書割や看板にしろ、陶器や衣服にしろ、机や椅子などの家具にしろ、窓や壁の飾りつけにしろ、布地のデザインにしろ、作るということへの羨望の念が自分には間違いなくあるように思う。
自分には全く手出しがならない。
もっと突き詰めると、生命力そのものの枯渇なのかもしれない。
上掲の転記文の中に、「大切なのはパワーであり、勢い」とある。
むしろ、小生は美術展の帰り、自分への落胆を覚えつつ帰ったというべきなのかもしれない。
どの作家、どの作品がどうであれ、とにかく、現に創造の営みは厳然としてある。
但し、それに対し、小生は埒外にいる。鑑賞者でさえありえない、という失望感。
あるいは、敗北感というべきか。
しかし、翻って冷静に考えてみるに、例えば、97年に刊行した拙著『フェイド・アウト』(文芸社)の著者略歴でも、「デジタル社会の中、稀薄化する現実感覚や肉体的存在感の恢復をテーマとしている」などと自分で書いている。
なんのことはない、横浜まで行って帰って、元の木阿弥に還っただけなのだった。
そうだ、自分は自分の遣り方で、自分のペースでゆっくりやっていくしかないのである。
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